世界の中の日本

偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけあまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏

2014.02.08(土)  伊東 乾

 しかも、私が出題者だと知っているのは、そのときの出題委員会メンバーなどごく一部です。それでも、出題に当たったら、趣味の良い、本質を突く、スマートで、余計な知識などなくてもその場でしっかり考える能力があれば6割は取れる、エレガントな問題を作ってやりたい、と僕は思っています。

 そういう考えの人は出題者全般、決して少なくないでしょう。同じことを「詰め将棋」とか「ナンクロ」「数独」なんかで考えてもいい。

 音楽の手仕事で「課題の実施」というのは、これに似た面があると思います。

 旋律だけを示されて、それにハーモニーをつけるような課題で、とりあえず丸がつくものを書くのも大事ですが(そうでないと受験では落とされます)、「この課題から、この実施をどうやって作ったの???」と目を剥かれるようなものを作ったときの快感ていうのは、この仕事をした人にしか本当は共有してもらえない感覚です。でも、読者の皆さんにも何となく分かっていただけるとうれしいです。

 新垣君は記者会見で「一切の著作権は放棄します」と明快に言っています。彼はお金目当てで偽ベートーベンの依頼を受けたわけではない。また、公開された音楽への自分への著作権帰属とか、自身の作曲作品としての名誉の主張なども全く考えていない。

 そうではなく、言ってみれば「音楽家の品位」が一番ピュアに見える「実施」の書法(これもフランス語で「エクリチュール」と呼ばれることが多いですが)の遊びとして、純然と「良い実施をして、皆に喜ばれ、自分もそれを楽しみたい」そういう気持ちが一番大きかったのではないかと、同業者の1人として想像します。

 実際、新垣君自身が言った「自分が作曲した作品が、映画音楽であれゲーム音楽であれ、多くの人に聴いてもらえる。その反響を聴くことができる。そのことが純粋に嬉しかったのです」という言葉は、例えて言うなら、自分が出題した問題に学生が解答し、あちこちの塾などが模範解答を出し、「今年の第2問はまれに見る良問だった」なんて言われたら、守秘ですから黙ってますけれど、心ひそかにニヤーっとすると思います。

 実際、入試ではなく必修科目などでは多くの先生が同じ科目で出題した違う問題を集めたりするのですが、先輩の教授から「伊東さんの問題、これいいねぇ」なんて言われたときには、嬉しいですよね、純然と。

 そこに自分のオリジナルな何かがあるとかではないんです、しょせん出題だから。既に手垢がついた分野の中での模範演技だけれど、でもこういう基礎が大事だし、それが好きな人がその仕事のプロに残っているのが普通です。新垣君の言葉を文春から引用すれば、

 「彼の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる。どうせ売れるわけはない、という思いもありました」

 要するに余技ですよね。わざわざ自分の名をつけるまでもない、調性で書いた気の利いた小品。こういうのが息抜きになるのは、本当によく分かります。正直私自身も、そういう気軽な小品を書くのが嫌いでありません。また名前をつけるのに抵抗があることが少なくありません。

 これが、商用音楽での考え方と180度違うところなのです。営利で音楽をやっている人は、もう手垢だけでこねたような、音楽としては一切新味のないものをJASRAC(日本音楽著作権協会)に登録して、一銭でも多く配当金を得ようと考えるのが基本でしょう。

 この点、同時代のスタイルで芸術音楽に取り組んでいる…
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