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【大人の遠足】旧帝国海軍中枢部を間近に! 記憶を継承する戦争遺跡 横浜の日吉台地下壕群
太平洋戦争末期、旧帝国海軍が東京から中枢部を移転するために建設した巨大な地下壕群が横浜市港北区の日吉地区に残っている。4カ所に分かれた地下壕群の総延長は約5キロ。普段は非公開だが、旧連合艦隊司令部が置かれた地下壕だけは月1回、「日吉台地下壕保存の会」による一般向け見学会が行われている。都心近くで先の大戦を身近に感じられる貴重な機会だ。
■迷路のような壕内
見学会の当日、東急電鉄日吉駅の改札口前に集まった参加者は約50人。参加者は学生から高齢者までさまざまで、外国人の姿もあった。約30分のガイダンスを受け、終戦直後に機密書類を燃やしたという「まむし谷」の脇を通って、慶応義塾の敷地内にある地下壕の入り口へ向かった。
普段は固く閉じられている扉がこの日は特別に開けられ、奥には真っ暗な空間が広がる。持参した懐中電灯をつけて壕内に入り、恐る恐る急な坂を下った後、足元に気をつけてゆっくりと進んだ。壁面のコンクリートは状態が良く、安普請ではないことが分かる。足音や話し声が響く地下約20メートルの壕内は、年間を通じて摂氏17度程度の気温でほぼ一定しているといい、意外と過ごしやすい。携帯電話は通じなかった。
司令部が置かれただけに内部は通路が入り組み、随所に分かれ道があってまるで迷路のようだ。地下壕は戦後しばらくの間放置され、近所の子供が迷わないように描いたとみられる地図の落書きも残っていた。
■特攻機の最後も受信
主な見どころは電信室や作戦室、豊田副武(そえむ)海軍大将が使用し、壁面の仕上げが丁寧な司令長官室などだ。地下壕の建設が始まったのは昭和19年7月、サイパン島の陥落直後だった。その後、同司令部をはじめ旧海軍の中枢が次々と日吉に移転。平時は地上の建物が使われたが、空襲などで危険が迫ると要員が地下壕へ移って業務を遂行した。
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