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2014-01-03 48日目

[][]「法の支配」と改憲

(cache) (社説)「1強政治」と憲法―「法の支配」を揺るがすな:朝日新聞デジタル

http://megalodon.jp/2014-0103-1214-29/www.asahi.com/paper/editorial.html

<<抜粋・太字・着色は管理人による>>

 「法の支配」とは何か。米国の政治学者フランシス・フクヤマ氏は、近著「政治の起源」でこう説明している。

 「政治権力者が、自分は法の拘束を受けていると感じるときにのみ、法の支配があるといえる」

 この「法」は、立法府がつくった制定法とは違う。近代以前は、神のような権威によって定められたルールと考えられていた。法と制定法の違いは、現代でいえば憲法と普通の法律の違いにあたるという。

この「法の支配」に対する考え方は、たった一人の学者の考え方でしかありません。フランシス・フクヤマ氏という名前に聞き覚えがあるとしたら、それは「歴史の終わり」という氏の著作が20年前に話題になったからだと思います。それでは、「歴史の終わり」の内容は正しかったのでしょうか。民主主義と資本主義が、それ以外の思想に勝利する事によって歴史が終わるという内容がです。はっきり言ってしまえば、大間違いでした。同時期に出版されたサミュエル・ハンティントン氏の著作「文明の衝突」の方が、その後の世界を正しく予測していたと思えます。そのためでしょうか、最近ではフクヤマ氏の名前を目にする事も、ほとんどありませんでした。それなのに今日になって、わざわざ朝日新聞が取り上げたのは、よっぽど都合が良いからなのだと思います。

おそらくは『法と制定法の違いは、現代でいえば憲法と普通の法律の違いにあたる』という部分がなのでしょうけれど。私はフクヤマ氏の原文を批判しているわけではありません。しかし、朝日新聞の引用の仕方だと「憲法」が「普通の法律」とは違い、何かしらの特別な権威によって定められたように読めてしまいます。そして、それによって改憲は「悪」であるともイメージさせたいのかも知れません。日本国憲法に権威があるとすれば、それはGHQ、すなわちアメリカなのですけれどね。改憲派にとっては、それなら、ますます改正すべきという事になります。

私からすると、この説明だけでは「憲法」が「普通の法律」とは違いが何処にあるのかが解りません。憲法だって改正条項があるのですから制定法と何が違うのかと思ってしまいます。国会議員だけで変えられるのが「普通の法律」で、国民投票が必要なのが「憲法」というだけの違いではないのかと。

 今年、安倍首相は「憲法9条改正」に挑もうとしている。

 ただし、憲法96条の改正手続きによってではない。解釈の変更によるのだという。

 最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか。

<略>

 今年、安倍政権がいよいよ手をつけようとしているのが、集団的自衛権の行使容認だ。歴代政権は憲法解釈上、行使できないと封印し続けてきた。

 布石は打たれている。慣例を破り、行使容認派を内閣法制局長官に起用した。政治の暴走から法の支配を守る政府内の防護壁は格段に低くなった。

 特定秘密法のように、憲法が保障した国民の権利を法律によって制限する。今度は法律よりも軽い解釈変更によって、戦後の平和主義を支えてきた9条を変質させようとする。

 いずれも、国民の手が届かないところでの出来事だ。

以前にも書いた事がありますけれど、内閣法制局長官とは一体、何様なのでしょうか。選挙の洗礼を受けたわけでも無ければ、最高裁判事のような国民審査も受けていないのです。つまり内閣が選んだ一人の官僚に過ぎません。その官僚に過ぎない個人が憲法の解釈権を持っている。これほど不思議な事は無いと思います。内閣法制局長官の個人名が書かれない事と合わせてです。私は、両方が合わさると官僚制という、のっぺりとした仮面の下で大切な事が決められるような嫌悪感を覚えます。

それに比べれば総理大臣の責任は明確です。失態を犯せば有権者が許しません。鳩山由紀夫元総理が引退に追い込まれ、菅直人元総理が比例復活でした当選できなかったようにです。安倍総理の集団的自衛権行使容認が有権者に認められないのであれば、安倍総理と自民党も次の選挙で酷い目に遭う事になるのでしょう。もっとも、安倍総理が、そういう人だという事を解った上で自民党に投票した人は多いと思うのです。集団的自衛権の行使容認は第1次安倍内閣からの宿題なのですから。今さら朝日新聞が騒いでも有権者の投票行動に影響するとは思えません。シナとの緊張関係が緩むとも思えませんしね。

そもそも、『戦後の平和主義を支えてきた9条』は機能していたのでしょうか。韓国に李承晩ラインを引かれ、竹島を占領されたのは9条制定後、自衛隊発足前の出来事でした。9条は、当時の島根県の漁民を守ってくれませんでしたし、現在の沖縄県の漁民を守っても居ません。日本赤軍人質事件の時のように超法規的措置を取る事を考えたら解釈改憲は、それほど悪い事なのでしょうか。よっぽど「法の支配」に従っていると思うのですけれど。

解釈改憲と言えば、『婚外子の相続差別への違憲判断』も解釈改憲だと思います。過去に合憲としていた案件を時代の変化を理由に違憲判断をしたのですから。しかし、憲法判断を変更するときには大法廷を開いて合議する決まりではなかったのでしょうか。ところが婚外子差別の問題は小法廷で違憲判断がくだされてしまいました。しかも、3対2の小差でです。私は、納得がいっていません。それこそ『国民の手が届かないところでの出来事』のように思えてです。

 私たちは社説で、ここ数年の日本政治を特徴づけてきた「決められない政治」を克服するよう、政治家に求めてきた。

 それは、国民の負担増が避けられない時代に、政治には厳しい現実を直視した決断が必要なことを指摘したものだ。

 安倍政権は消費税率の引き上げを決めた。だがそれ以外の分野ではどうか。やりたいことをやりたいように決める。こんな乱暴さが際だってきた。

それにしても、朝日新聞の相変わらずの身勝手さには呆れます。自分達も賛成していた消費増税だけは、正しい「決められる政治」で、それ以外は『乱暴』な政治だと言うのですから。朝日新聞は、無謬の神にでもなったつもりかとさえ思います。マス・メディアが揃って消費増税の圧力を掛けなければ実施時期を延期できたかも知れないのです。デフレ脱却を第一に考えるのであれば絶対に延期するべきだったと思います。そうすれば朝日新聞の嫌いな公共事業の増額だって行わなくて良かったのですから。朝日新聞は、消費増税も公共事業増額も無しにするのと、両方を行うのとでは、どちらを選ぶのでしょうか。景気対策もせずに消費増税だけを実施するのは最悪なのは言うまでもありません。

 自民党の1強体制が、2度の選挙によって生まれたのは確かだ。しかし、そのことをもって法の支配に挑むのなら、民意への悪乗りというほかない。

議会制民主主義は、任期のある独裁だと言っていた日本の政治指導者が居ました。民主党の菅直人元総理の言葉です。朝日新聞は、その言葉に異を唱えたのでしょうか。朝日新聞とカン元総理の主張は一部重なっていたので比定はしなかったはずです。それなのに安倍総理が行う事は『やりたいことをやりたいように決める』ですか。こうなると、もう政治家に対する好き嫌いだとしか思えません。

繰り返しますけれど、次の選挙で政治家は民意に試されるのです。民主党の政治家は、その民意を乗り越えられませんでした。自民党の政治家が、どうなるかは、これから次第です。朝日新聞が決める事ではありません。


社説全文は以下

(cache) (社説)「1強政治」と憲法―「法の支配」を揺るがすな:朝日新聞デジタル

 安倍首相が最近よく使う言葉に、「法の支配」がある。

 中国の海洋進出を念頭に「力による現状変更ではなく、法の支配によって自由で繁栄していく海を守る」という具合だ。

 「法の支配」とは何か。米国の政治学者フランシス・フクヤマ氏は、近著「政治の起源」でこう説明している。

 「政治権力者が、自分は法の拘束を受けていると感じるときにのみ、法の支配があるといえる」

 この「法」は、立法府がつくった制定法とは違う。近代以前は、神のような権威によって定められたルールと考えられていた。法と制定法の違いは、現代でいえば憲法と普通の法律の違いにあたるという。

 今年、安倍首相は「憲法9条改正」に挑もうとしている。

 ただし、憲法96条の改正手続きによってではない。解釈の変更によるのだという。

 最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか。

■決める政治はき違え

 衆参のねじれを解消した安倍首相は、「決められない政治」からの脱却を進める。

 先の国会では、内閣提出法案の9割近くを成立させた。

 私たちは社説で、ここ数年の日本政治を特徴づけてきた「決められない政治」を克服するよう、政治家に求めてきた。

 それは、国民の負担増が避けられない時代に、政治には厳しい現実を直視した決断が必要なことを指摘したものだ。

 安倍政権は消費税率の引き上げを決めた。だがそれ以外の分野ではどうか。やりたいことをやりたいように決める。こんな乱暴さが際だってきた。

 三権分立どこ吹く風。一票の格差を司法に断罪されても、選挙無効でなければ受け流す。婚外子の相続差別への違憲判断を受けた民法改正の党内手続きには、猛烈に抵抗した。

 自民党も賛成した憲法改正の国民投票を18歳以上に確定する法改正すら先送り。改憲手続きに従った改正を遠のかせることになろうと、お構いなしだ。

 「いまの力はつかの間のことなのに、我々は何でもできるという自民至上主義が生まれている」。党内のベテラン議員の目には、こう映る。

■力ずくに異議もなく

 極めつきは、特定秘密保護法採決の強行に次ぐ強行だ。

 かつて自民党は、勢力が強まるほどに自制した。

 生前、哲人政治家と評された大平正芳元首相は、若手にことあるごとに老子の言葉を説いて聞かせた。

 「大国を治むるは、小鮮(しょうせん)を烹(に)るがごとし」

 小魚を煮る時は、形を崩さぬよう、つついてはいけない。政治も同じという意味だ。

 反対を力ずくで押し切ったあの採決への過程は、保守本来の知恵ともいうべき戒めとは対極の荒々しさだった。

 大平の薫陶を受けたリベラル派は、ほぼ姿を消した。政権中枢のやり方に違和感を覚えても、表だって異議申し立てをする重鎮もいない。

 一方で、予算の大盤振る舞いに群がる族議員の行動は「完全復活」した。

 「官邸しか見ないヒラメ議員の集まりか」。長年、党を見てきた官僚からため息が漏れる。

■歴史の教訓はどこに

 今年、安倍政権がいよいよ手をつけようとしているのが、集団的自衛権の行使容認だ。歴代政権は憲法解釈上、行使できないと封印し続けてきた。

 布石は打たれている。慣例を破り、行使容認派を内閣法制局長官に起用した。政治の暴走から法の支配を守る政府内の防護壁は格段に低くなった。

 特定秘密法のように、憲法が保障した国民の権利を法律によって制限する。今度は法律よりも軽い解釈変更によって、戦後の平和主義を支えてきた9条を変質させようとする。

 いずれも、国民の手が届かないところでの出来事だ。

 安倍首相は昨春、憲法改正の発議要件を両院の3分の2の賛成から過半数に下げる96条改正を掲げ、「憲法を国民の手に取り戻す」と訴えていた。

 いまやろうとしているのは正反対のことではないのか。それともこれが、麻生副総理がナチスを引き合いに語った「誰も気づかないうちに」憲法を変えるということなのか。

 昨秋の衆院憲法審査会の議員団によるドイツ視察。改憲の発議要件を緩めることをどう思うかという質問に、独連邦議会の議員がこう答えた。

 「ヒトラーがその全権を掌握するなどということは、3分の2という条項が(厳格に)あればできなかったはずだ」

 歴史の教訓である。

 自民党の1強体制が、2度の選挙によって生まれたのは確かだ。しかし、そのことをもって法の支配に挑むのなら、民意への悪乗りというほかない。

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