6月4日付朝日新聞の「天声人語」の前半部分。
全然「なるほど」と思えないのだが。
魔法が一度だけのはずが使い放題。そりゃあ子どもの話としては面白い。
だが、発議要件を3分の2から2分の1に緩和するのが、何故「使い放題、なんでもできる」のか。過半数の議員が反対すればできないではないか。
何故「何に使うかわからないが、とにかく拳銃をくれ」なのか。発議要件がどうあるべきかを、改憲案の内容とは別個に論じることは何もおかしくない。改憲案の内容で一致できなくても、発議要件の緩和で一致することはあるだろうし、反対する議員は反対すればよい。
「試合に勝てないから、ゲームのルールを自分に有利なように変えるようなもの」
前にも書いたが、ではその「ルール」は誰がどのようにして決めたのか。
その点を考慮せずに、自らが決めたわけでもない「ルール」を金科玉条のように用いて改憲を牽制するというのも「虫がよすぎ」はしないか。
件の投書は同じ日の「声」欄に載っていた。東京本社版と私が読んでいる大阪本社版とでは「声」の内容が異なるようだ。
投稿者は横浜市港区の54歳の会社員とのこと。
96条改定は「クーデターのよう」だとおっしゃる。
クーデターというのは超法規的に行われるものだろう。
民主的に選出された国会議員によって、憲法と法律に定められた手続を踏んで発議される改憲が、何でクーデターなものか。
「戦争なんて、だれも内心は喜んでいなかった。しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」
大戦世代からは確かにそうした声を聞く。
しかし、本当にそうだったのだろうか。それは自らの立場を取り繕うための自己欺瞞ではなかっただろうか。当時のことを自分で調べれば調べるほど、私にはそう思えてならない。
そして、96条を堅持してさえいれば「それが言えない世の中」にはならないのだろうか。
ナチスやファシスタ党は、憲法を改正して権力を握ったのだろうか。
わが国だって、明治憲法の下で政党政治が行われていた時期もあったのに、何故同じ憲法の下であのような軍国主義体制に移行してしまったのか。
「それが言えない世の中」にしてしまうのは、民主的に選出された国会議員ではなく、選挙の制約を受けない「運動」圏の者どもであるというのが、歴史の教訓だと私は思う。
96条堅持派の脳天気さには呆れるしかない。
なるほどと思った。先日の本紙「声」欄(東京本社版など)だ。一度だけ魔法が使えるとしたら何をしたいか。小学生同士で話していたら、ある子が言った。「魔法使いにさせて下さいといって魔法使いになる」▼それがかなえば魔法は使い放題、なんでもできる。一同、「すごい」と盛り上がった。これは憲法96条の改正と同じでは、というのが投稿した方の見立てだ。改憲の発議の要件をまず緩めるという主張の危うさを鋭く突いている▼試合に勝てないから、ゲームのルールを自分に有利なように変えるようなもの。何に使うかわからないが、とにかく拳銃をくれ、と言うようなもの。96条の改正を先行させようという発想は、様々に批判される。要は虫がよすぎませんか、と
全然「なるほど」と思えないのだが。
魔法が一度だけのはずが使い放題。そりゃあ子どもの話としては面白い。
だが、発議要件を3分の2から2分の1に緩和するのが、何故「使い放題、なんでもできる」のか。過半数の議員が反対すればできないではないか。
何故「何に使うかわからないが、とにかく拳銃をくれ」なのか。発議要件がどうあるべきかを、改憲案の内容とは別個に論じることは何もおかしくない。改憲案の内容で一致できなくても、発議要件の緩和で一致することはあるだろうし、反対する議員は反対すればよい。
「試合に勝てないから、ゲームのルールを自分に有利なように変えるようなもの」
前にも書いたが、ではその「ルール」は誰がどのようにして決めたのか。
その点を考慮せずに、自らが決めたわけでもない「ルール」を金科玉条のように用いて改憲を牽制するというのも「虫がよすぎ」はしないか。
件の投書は同じ日の「声」欄に載っていた。東京本社版と私が読んでいる大阪本社版とでは「声」の内容が異なるようだ。
投稿者は横浜市港区の54歳の会社員とのこと。
96条改定は魔法使いと同じ
憲法96条を改めることに反対する憲法学者らが「96条の会」を結成した。発起人である有識者の中には、改憲論者も含まれているという。
私が小学生の頃、一度だけ魔法が使えるとしたら、何に使うかを同年の男女と話し興じたことがあった。「街中を花でいっぱいにする」「すき焼きを毎日食べる」など出尽くした後、利発な子が「魔法使いにさせて下さいといって魔法使いになる」と言った。みんなは「すごい、魔法使いになった後で、どんどん魔法を使えば何でもできちゃうね」と盛り上がった。
「花」は戦争の放棄をうたった9条、「すき焼き」は個人の尊重や幸福追求権を定めた13条とすると、国会の改憲発議要件を3分の2から過半数に改めようとする96条改定は、さながら「一度だけ魔法が使えるとしたら何に使うか」のクーデターのような答えとして、魔法使いになることと同意に思えてきた。
おとぎ話ではなく、現実のこと。魔法使いと違うのは、たかが、それだけ。されど、先の大戦を体験した方が語った「戦争なんて、だれも内心は喜んでいなかった。しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」との言葉を思い出さずにはいられない。
96条改定は「クーデターのよう」だとおっしゃる。
クーデターというのは超法規的に行われるものだろう。
民主的に選出された国会議員によって、憲法と法律に定められた手続を踏んで発議される改憲が、何でクーデターなものか。
「戦争なんて、だれも内心は喜んでいなかった。しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」
大戦世代からは確かにそうした声を聞く。
しかし、本当にそうだったのだろうか。それは自らの立場を取り繕うための自己欺瞞ではなかっただろうか。当時のことを自分で調べれば調べるほど、私にはそう思えてならない。
そして、96条を堅持してさえいれば「それが言えない世の中」にはならないのだろうか。
ナチスやファシスタ党は、憲法を改正して権力を握ったのだろうか。
わが国だって、明治憲法の下で政党政治が行われていた時期もあったのに、何故同じ憲法の下であのような軍国主義体制に移行してしまったのか。
「それが言えない世の中」にしてしまうのは、民主的に選出された国会議員ではなく、選挙の制約を受けない「運動」圏の者どもであるというのが、歴史の教訓だと私は思う。
96条堅持派の脳天気さには呆れるしかない。
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