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本やニュースの感想を中心に日々の思いを綴るブログ。

憲法96条改正で「魔法使い」に?

2013-07-10 22:18:51 | 日本国憲法
 6月4日付朝日新聞の「天声人語」の前半部分。

 なるほどと思った。先日の本紙「声」欄(東京本社版など)だ。一度だけ魔法が使えるとしたら何をしたいか。小学生同士で話していたら、ある子が言った。「魔法使いにさせて下さいといって魔法使いになる」▼それがかなえば魔法は使い放題、なんでもできる。一同、「すごい」と盛り上がった。これは憲法96条の改正と同じでは、というのが投稿した方の見立てだ。改憲の発議の要件をまず緩めるという主張の危うさを鋭く突いている▼試合に勝てないから、ゲームのルールを自分に有利なように変えるようなもの。何に使うかわからないが、とにかく拳銃をくれ、と言うようなもの。96条の改正を先行させようという発想は、様々に批判される。要は虫がよすぎませんか、と


 全然「なるほど」と思えないのだが。
 魔法が一度だけのはずが使い放題。そりゃあ子どもの話としては面白い。
 だが、発議要件を3分の2から2分の1に緩和するのが、何故「使い放題、なんでもできる」のか。過半数の議員が反対すればできないではないか。
 何故「何に使うかわからないが、とにかく拳銃をくれ」なのか。発議要件がどうあるべきかを、改憲案の内容とは別個に論じることは何もおかしくない。改憲案の内容で一致できなくても、発議要件の緩和で一致することはあるだろうし、反対する議員は反対すればよい。

 「試合に勝てないから、ゲームのルールを自分に有利なように変えるようなもの」
 前にも書いたが、ではその「ルール」は誰がどのようにして決めたのか
 その点を考慮せずに、自らが決めたわけでもない「ルール」を金科玉条のように用いて改憲を牽制するというのも「虫がよすぎ」はしないか。

 件の投書は同じ日の「声」欄に載っていた。東京本社版と私が読んでいる大阪本社版とでは「声」の内容が異なるようだ。
 投稿者は横浜市港区の54歳の会社員とのこと。

96条改定は魔法使いと同じ

 憲法96条を改めることに反対する憲法学者らが「96条の会」を結成した。発起人である有識者の中には、改憲論者も含まれているという。

 私が小学生の頃、一度だけ魔法が使えるとしたら、何に使うかを同年の男女と話し興じたことがあった。「街中を花でいっぱいにする」「すき焼きを毎日食べる」など出尽くした後、利発な子が「魔法使いにさせて下さいといって魔法使いになる」と言った。みんなは「すごい、魔法使いになった後で、どんどん魔法を使えば何でもできちゃうね」と盛り上がった。

 「花」は戦争の放棄をうたった9条、「すき焼き」は個人の尊重や幸福追求権を定めた13条とすると、国会の改憲発議要件を3分の2から過半数に改めようとする96条改定は、さながら「一度だけ魔法が使えるとしたら何に使うか」のクーデターのような答えとして、魔法使いになることと同意に思えてきた。

 おとぎ話ではなく、現実のこと。魔法使いと違うのは、たかが、それだけ。されど、先の大戦を体験した方が語った「戦争なんて、だれも内心は喜んでいなかった。しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」との言葉を思い出さずにはいられない。


 96条改定は「クーデターのよう」だとおっしゃる。
 クーデターというのは超法規的に行われるものだろう。
 民主的に選出された国会議員によって、憲法と法律に定められた手続を踏んで発議される改憲が、何でクーデターなものか。

「戦争なんて、だれも内心は喜んでいなかった。しかし、気がつけば、それが言えない世の中になっていた」
 大戦世代からは確かにそうした声を聞く。
 しかし、本当にそうだったのだろうか。それは自らの立場を取り繕うための自己欺瞞ではなかっただろうか。当時のことを自分で調べれば調べるほど、私にはそう思えてならない。

 そして、96条を堅持してさえいれば「それが言えない世の中」にはならないのだろうか。
 ナチスやファシスタ党は、憲法を改正して権力を握ったのだろうか。
 わが国だって、明治憲法の下で政党政治が行われていた時期もあったのに、何故同じ憲法の下であのような軍国主義体制に移行してしまったのか。

 「それが言えない世の中」にしてしまうのは、民主的に選出された国会議員ではなく、選挙の制約を受けない「運動」圏の者どもであるというのが、歴史の教訓だと私は思う。
 96条堅持派の脳天気さには呆れるしかない。

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事実に即した憲法改正論議を

2013-05-06 01:30:50 | 日本国憲法
 これじゃデマ合戦だよ。

 5月4日付朝日新聞朝刊2面の小林節・慶大教授(憲法学)による「96条改正は「裏口入学」。憲法の破壊だ」という記事(太字は引用者による)。

 私は9条改正を訴える改憲論者だ。自民党が憲法改正草案を出したことは評価したい。たたき台がないと議論にならない。だが、党で決めたのなら、その内容で(改正の発議に必要な衆参両院で総議員の)「3分の2以上」を形成する努力をすべきだ。改憲政党と言いながら、長年改正を迂回(うかい)し解釈改憲でごまかしてきた責任は自民党にある。

 安倍首相は、愛国の義務などと言って国民に受け入れられないと思うと、96条を改正して「過半数」で改憲できるようにしようとしている。権力参加に関心のある日本維新の会を利用し、ひとたび改憲のハードルを下げれば、あとは過半数で押し切れる。「中身では意見が割れるが、手続きを変えるだけなら3分の2が集まる。だから96条を変えよう」という発想だ。

 これは憲法の危機だ。権力者は常に堕落する危険があり、歴史の曲がり角で国民が深く納得した憲法で権力を抑えるというのが立憲主義だ。だから憲法は簡単に改正できないようになっている。日本国憲法は世界一改正が難しいなどと言われるが、米国では(上下各院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認が必要で)改正手続きがより厳しい。それでも日本国憲法ができた以降でも6回改正している。

 自分たちが説得力ある改憲案を提示できず、維新の存在を頼りに憲法を破壊しようとしている。改憲のハードルを「過半数」に下げれば、これは一般の法律と同じ扱いになる。憲法を憲法でなくすこと。「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」というのが世界の標準。私の知る限り、先進国で憲法改正をしやすくするために改正手続きを変えた国はない。

 権力者の側が「不自由だから」と憲法を変えようという発想自体が間違いだ。立憲主義や「法の支配」を知らなすぎる。地道に正攻法で論じるべきだ。「96条から改正」というのは、改憲への「裏口入学」で、邪道だ。(聞き手・石松恒)


 小林節。この人は確かにかねてからの改憲論者だが、第1次安倍内閣のころの自民党の改憲論に対しても、愛国心を強調する姿勢などを批判し護憲派寄りに回った。私は当時、「言わばなんちゃって改憲派」「現憲法の下で諸活動を続けているうちに、日和った」と評していた。今もそのスタンスに変わりはないように見える。
 彼は本当に改憲を実現させたいのだろうか。それとも、改憲が困難な情勢の下での「改憲派」という立場それ自体を維持したいにすぎないのだろうか。
 「権力参加に関心のある日本維新の会」って、維新の会が自民党との連立を主張しているの? そもそも政党が権力参加を志向して何が悪いの? 「確かな野党」がそんなに偉いの?
 「だから憲法は簡単に改正できないようになっている」そうしたのは誰なの? 日本国民なの?
 閑話休題。

 日本国憲法が世界一改正が難しいなどということはなく、例えば米国の方がより厳しいという見方には、以前の記事にも書いたように私も同感だ。
 だが、「改憲のハードルを「過半数」に下げれば、これは一般の法律と同じ扱いになる。憲法を憲法でなくすこと。」とはおかしいだろう。一般の法律には国民投票はないのだから。
 そして、「「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」というのが世界の標準。」とは言い過ぎではないだろうか。以前民主国家の改正手続を比較してみたが、「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」国は日本と韓国ぐらいしかなかった(註)。
 「世界の標準」並みの厳格さだという趣旨かもしれないが、しかしこれでは、「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」国はわが国だけでなく多数あるのだろう、何しろ憲法学者サマ、しかも改憲派の方がおっしゃっているのだから間違いない、と誤解する読者も多いのではないだろうか。

 一方、同じく憲法学者の西修・駒澤大学名誉教授による「憲法改正へ「世界一の難関」崩せ」「先進国で最も厳しい発議要件」といった見出しの記事を4月1日付産経新聞が掲載していたのは以前批判したとおりだ。

 96条改正論に対して、これを支持するなり、批判するなり、様々な見方が当然有り得るだろう。
 しかし、各国と比較してわが国の改正要件はどうなのかというごく客観的な考察において、何故これほどまでに極端な差が出るのか。
 しかも素人ではない、憲法学者によって。

 学者でありながら、自らの政治的主張のために、事実を枉げてはばからない。
 こういうのを曲学阿世の徒と言うのではないか。

 いわゆる有識者がこんなことでは困る。
 そして報道機関も、社論に沿ったデマを無定見に拡散するのではなく、もう少し本質を突いた議論が行われるよう配慮してもらいたいものだ。


註 「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」国は日本と韓国ぐらいしかなかった

 スペインは、特別な場合にのみ3分の2以上を2回、さらに国民投票を要する。
 通常の改正では上下両院のそれぞれ5分の3以上の賛成で足りる(いずれかの院の10分の1が要求すればさらに国民投票)が、憲法の全面改正や、憲法の基本原理、基本的権利及び義務、国王に関する規定などの重要規定の改正については、両院の3分の2以上の賛成の後、解散総選挙し、新国会で再び両院の3分の2以上の賛成を得て、さらに国民投票で過半数の賛成を要する。
 詳しくは↓参照。
http://www.derecho-hispanico.net/boletin/pdf/20090523noguchi.pdf
 後者は特別な場合であり、また紙数の制約があるとはいえ、上記の西修の記事中の「憲法改正を必ず国民投票に付さなければならないという規定を持つ国」についての記述において、このスペインの事例に一切言及していないことには不審を覚える。
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憲法96条改正は「ルール」の変更か?

2013-05-04 01:25:34 | 日本国憲法
 政府与党が日本国憲法の改正手続を規定した96条の改正を主導するのは、ルールを勝手に変えるものだという批判がある。

 かさこ「憲法違反の政治家が憲法を変えやすいようルールを変えちまえって恐ろしい話」

憲法違反している政治家が憲法を変えようって犯罪者が取締りルールを勝手に変えちまえって話と同じ。
しかもそういう無茶苦茶なことができないようにルールを改正するには高いハードルが課されているのに「だったらルール改正のルールから変えたらいいじゃん!」ってルールを守っていない人たちが勝手に決めるってこんなひどい国はない。


 辻元清美「「憲法九六条改正」問題について━━自分が有利になるようルールを変えるのは卑怯だ」

これは、たとえばスポーツの世界でいえば、試合になかなか勝てないから、自分が有利になるようにルールを変えてしまえ、と言っているに等しいのではないですか。
どんな世界でもそんなことをしたら「ズルイ」「卑怯だ」という声が飛んできそうです。それは、道理に反するからです。
安部総理は「こどもの道徳教育が大事」とおっしゃっています。そうであるのなら、今のルールで、正々堂々と自分の主張を実現する努力をするべきではないでしょうか。


 初鹿明博「96条改正は国民主権の危機だ!」

憲法は、多数を握った権力者が横暴、圧制を働くことがないように、国民の基本的人権や自由を守るために、守らなくてはならない最低限のルールをあらかじめ定めたものであります。つまり、国民が権力者を縛るためのものが憲法です。

ですから、権力者が変わるごとに、自分達(もしくは自分)の都合が良いように安易にルールの変更が出来ないように改正の手続きが他の法律よりも厳しく規定されているのです。

ですから96条を改正して改正の要件を緩和するということは、時の権力者もしくは多数者の意向によって、都合の良いように変えることが出来るようにするということで、立憲主義に反することであります。

しかも、それを時の権力者である総理大臣が先頭に立って言っているというのは、民主主義や国民主権、立憲主義の基本を理解していない、民主主義国の政治家として失格だと私は感じています。憲法改正について権力を握っている内閣の構成員が発言することは減に慎むべしと思います。


 憲法記念日である昨日、朝日新聞朝刊のオピニオン面に掲載された石川健治・東大教授による「96条改正という「革命」」と題する長文の寄稿も、似たようなことを述べているが、さらに問題の本質に迫っている。

憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである。

 フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。

 同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。

 なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかで最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだといわざるを得ない。


 改正規定それ自体は改正できないという説はしばしば聞く。
 しかしそれでは、クーデターや革命によって政体が変わらなければ、永遠に改正規定が維持されてしまうことになる。
 制定者の意思が、未来永劫将来の世代を縛ることになる。
 それはおかしいのではないだろうか。

 私は、無制限改正説でよいのではないかと思う。

 その点を差し引いても、こうした「ルール」という観点からの主張に対しては、さらに次のような疑問がある。

 では、その「ルール」は、誰がどのように決めたのか。

 これを国民が決めたというなら、話はまだわかる。
 国民が革命を起こして独裁者を打倒し、民主的な国家に変えた。その体制の根幹である憲法の制定に際して、改正するには厳しい要件を付した。だからこれを安易に変えてはならない――と言うのなら。

 しかし、日本国憲法を制定したのは、国民ではない。
 言うまでもなく、GHQである。

 GHQが1946年2月13日に日本政府に呈示したいわゆるマッカーサー草案の外務省仮訳では、改正規定は次のようになっていた。

第八十九條 此ノ憲法ノ改正ハ議員全員ノ三分ノ二ノ賛成ヲ以テ國會之ヲ發議シ人民ニ提出シテ承認ヲ求ムヘシ人民ノ承認ハ國會ノ指定スル選擧ニ於テ賛成投票ノ多数決ヲ以テ之ヲ爲スヘシ右ノ承認ヲ經タル改正ハ直ニ此ノ憲法ノ要素トシテ人民ノ名ニ於テ皇帝之ヲ公布スヘシ
(江藤淳編『占領史録 3 憲法制定経過』講談社学術文庫、1989、p.202。一部の旧字体の漢字はフォントが見当たらず新字体に直した)


 これは、成立した憲法96条の

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。


とほぼ同じである。
 マッカーサー草案に対しては、わが国の政府や国会における憲法制定過程において、一院制が二院制に変更されるなど、さまざまな修正が加えられたが、この改正規定はほとんど問題にされなかったという。問題にできる性質のものでもなかったのだろう。
 だから、この「ルール」を決めたのはGHQであって、日本国民の意思は反映されていない。

 もっとも、当時の政府も国会も、この「ルール」を承認している。
 しかしそれは、占領下という、承認せざるを得ない情勢にあったからこそ、承認したにすぎない。

 したがって、石川が言う

打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものか


は、どちらでもない。
 打ち倒されるのは、GHQによる占領管理体制である。

いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。
 

 これも当たらない。
 占領管理体制として形成された日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にすぎない。

打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。


 そんなことはあるまい。
 憲法の下で民主的に選出された国会議員、そして彼らが選出した内閣総理大臣の行動が、立憲主義に基づくものでなくて何だというのか。
 100年前のわが国に、第1次憲政擁護運動があった。わが国が当時のような情勢なら、石川の言うこともわからないではない。しかし、現在のわが国は、当時のような藩閥政府によって治められているのではない。

 独立国が国内に残存する占領管理体制を打倒する。誠に結構なことではないか。
 石川は、図らずも問題の本質を露呈してくれたようだ。

 日本国憲法無効論というのがあるが、私はこれを支持しているわけではない。
 現実に有効なものとして機能してきたのであり、今さら無効だと言ったところで始まらない。

 また、現憲法や、占領下の諸改革の意義を全否定するつもりもない。評価すべき点は多々あろう。
 現憲法が諸悪の根源であるかのごとき主張もあるが、私はこれに与しない。

 しかし、GHQ製の憲法であるにもかかわらず、日本国民が国家を縛るために生み出したかのごとく語る欺瞞は、全く支持できるものではない。

 96条改正論にしても、それは96条に規定された手続を踏まないと実現できないのに、いったい何をそんなに恐れているのだろうか。

 仮に両議院の3分の2以上の賛成を得て国民投票が実施されたとしても、そこで否決されれば、それはこの改正規定が国民によって明確に支持されたということになるというのに。

 現在のルール(96条)にのっとったプレイ(改正手続)を否定する者こそがむしろルール違反ではないのだろうか。

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国民の不可解な憲法意識

2013-05-03 15:35:19 | 日本国憲法
 朝日新聞が昨日の朝刊で報じた全国郵送世論調査によると、憲法9条を「変えない方がよい」とする意見が過半数だったという。

憲法記念日を前に朝日新聞社は全国郵送世論調査を行い、憲法に関する有権者の意識を探った。それによると、憲法96条を変え、改憲の提案に必要な衆参各院の議員の賛成を3分の2以上から過半数に緩める自民党の主張について、反対の54%が賛成の38%を上回った。9条についても「変えない方がよい」が52%で、「変える方がよい」の39%より多かった。

〔中略〕

 9条については、昨年4月下旬に実施した電話調査でも「変えない方がよい」が55%、「変える方がよい」30%だった。調査方法が違い、質問文もやや異なるため単純に比較できないが、「変えない方がよい」という人が多い傾向は続いている。

 参院比例区の投票先で自民を挙げた人は49%に達したが、自民投票層でも、9条を「変える」が45%、「変えない」が46%とほぼ並んだ。自民党は9条を変えるべきだと主張しているが、変えない方がよいという人でも「景気や雇用」などを重視して自民に投票するという構図だ。

 また、今の憲法を「変える必要がある」は54%、「変える必要はない」が37%だった。質問文がやや異なるが、過去の電話や面接調査では1990年代後半以降、改憲派が多い。


 9条に関する質問と回答は以下のとおり(数字は%)。

◆以下は、憲法第9条の条文です。(憲法9条条文は省略)憲法第9条を変える方がよいと思いますか。変えない方がよいと思いますか。

 変える方がよい  39

 変えない方がよい 52

◇(「変える方がよい」と答えた39%の人に)それはどうしてですか。

 今の自衛隊の存在を明記すべきだから        37〈14〉

 自衛隊を正式な軍隊にすべきだから         17 〈7〉

 日米同盟の強化や東アジア情勢の安定につながるから 41〈16〉

◇(「変えない方がよい」と答えた52%の人に)それはどうしてですか。

 戦争を放棄し、戦力を持たないとうたっているから 48〈25〉

 今のままでも自衛隊が活動できるから       34〈18〉

 変えると東アジア情勢が不安定になるから     14〈7〉

〔中略〕

◆憲法第9条があったから非核三原則や武器輸出の原則禁止の政策がつくられ、戦後の日本で軍事の分野が強くなることへの歯止めになった、という意見があります。その通りだと思いますか。

 その通りだ   69

 そうは思わない 25

◆憲法第9条の条文が多少現実と違っていても日本のとるべき姿勢として変えないでおく方がよい、という意見があります。その通りだと思いますか。

 その通りだ   59

 そうは思わない 35

◆いまの自衛隊は憲法に違反していると思いますか。違反していないと思いますか。

 違反している  17

 違反していない 74


 この調査結果に対して、森達也はこう述べている

■映画監督・作家で明治大特任教授の森達也さん

 憲法9条を変えない、という意見が多かったのは、意外だった。

 総選挙では予想通りというか、予想を上回るほどの自民党圧勝だった。小選挙区のマジックを差し引いても、自民党や安倍政権への支持が強いのは間違いない。票を入れた人の多くは、憲法9条改定にも賛成なのだろう、と思い込んでいた。だが、調査結果では、景気浮揚策への期待から政権を支持しても、憲法9条改定までは支持していないことが浮かび上がる。自民党や安倍晋三首相には、軌道修正を期待したい。

 ただし僕は、がちがちの護憲派ではない。半世紀以上たっているのだから、時代に合わない要素があればマイナーチェンジしてもいい。でも9条も含め、基本理念は安易に変えるべきではない。

〔後略〕


 私も意外に思った。全く同様に、安倍政権支持者の多くは9条改正にも賛成なのだろうと漠然と思っていたからだ(同じ世論調査で、安倍政権の支持率は66%)。

 世論調査では、意図した結果が出るように誘導的な質問が用いられることがしばしばある。
 この調査でも、

◆衆議院や参議院の一票の格差が是正されない状態で選ばれた議員が改憲の提案をするのは、問題だと思いますか。問題ではないと思いますか。

 問題だ    54

 問題ではない 38


こんな質問がある。
 問題か問題でないかと問われれば、問題があると考える人は多いだろう。
 しかし、問題があることと、改憲の提案をしてはならないこととは別である。
 何故、「改憲の提案をしてよいと思いますか。してはならないと思いますか。」と問わないのか。
 それは、紙面に掲載されている、こんな識者のコメントを得るためだろう。

 96条の改憲手続きを緩和する自民党案に賛成の人でも、一票の格差が是正されていない状態で選ばれた議員が改憲の提案をするのは問題だという人が44%いた。この結果が示す通り、今の議員は国民の代表としての資格がない。認められているのは選挙制度改革をして選挙を実施することと、国民生活に支障を及ぼさないよう必要最小限の国政をすることだけだ。それ以上の資格はなく、まして憲法をいじる資格はない。(浦部法穂・神戸大名誉教授)


 「問題がある」という意見が多かっただけで、改憲の「資格はない」と断じている。
 仮に「提案をしてよいと思いますか。してはならないと思いますか。」という質問だったら、果たしてどうだっただろうか。

 また、木走正光氏が指摘しているように、天皇を元首と定めることが、戦前のような人権が制限された社会になることにつながるとの印象を与える質問もある。

 しかし、この9条関連のいくつかの質問は、そのようなトリッキーなものではない。
 にもかかわらず、このような結果となったことが私には意外だった。

 紙面によると、自民支持層で9条を「変える」が49%、「変えない」が43%。この夏の参院選で自民に投票するとしている層では「変える」45%、「変えない」46%とのこと。

 そして自衛隊を違憲とするのが17%、合憲とするのが74%。
 さらに、「憲法第9条の条文が多少現実と違っていても日本のとるべき姿勢として変えないでおく方がよい、という意見」に対して、「その通りだ」が59%、「そうは思わない」が35%。この数字は9条を「変えない」52%、「変える」39%に近いから、かなり重複しているのだろう。
 つまり、国民の半数強は、9条と自衛隊の現実との乖離を支持しているということだ。

 私はこうした結果と、それを何ら問題視しないマスコミの報道姿勢が恐ろしい。
 何故なら、これは、憲法は理想を掲げていればよく、現実に守られなくてもよいということにほかならないからだ。
 法は守られなければならず、現実にそぐわない法は改めるべしという意識がない。

 9条全文を素直に読めば、自衛隊のような組織ですら持てないことは明らかであろう。現に憲法制定時には、政府もそのような解釈をしていた。しかし、自衛隊の前身の前身である警察予備隊が押しつけにより創設された後、これは自衛のための必要最小限度の「実力」であって、憲法で禁止された「戦力」には当たらないと解釈を変更した。これは基本的には現在も変わっていない。
 しかし、「必要最小限度」とはどの程度か。そして現在の自衛隊は果たして「必要最小限度」と言えるのか。
 「条文が多少現実と違っていても」どころか、全然現実と合致していないのではないか。

 こうした解釈改憲は苦肉の策であり、邪道であった。
 だから鳩山一郎内閣は改憲を志向したが、3分の2の壁に阻まれた。
 当時の情勢ではやむを得なかったかもしれない。
 しかし、いったい何十年、このような不正常な状態を続けるつもりなのか。

 古くから拝読している日記サイト「AE〜攻撃側全滅」で、昨年の憲法記念日に全滅屋団衛門さんはこう書いていたが、

2012/5/3(木)

憲法記念日か

まあ、明らかに日本のおかれた現状からは矛盾する条項のある憲法を一字一句変えることは許しません
って主張するのはどうなんだろうなあ
例えば憲法9条は普通に読めば自衛隊の存在を認めない内容の文章に読めるよね
けど自衛隊は実際に日本国内に存在しているわけだ

普通に考えたら「自衛隊は違法だから解散させろ」という世論になるわけだが
実際のところ日本国民にアンケートをとれば
自衛隊は必要
という答えが圧倒的だ
つまり民意は自衛隊は必要だと思っているとかんがえていいわけだ

となれば世論は当然「自衛隊の存在を認めるように憲法を改正しよう」ということになるはずなのだけれども
実際にアンケートをとってみれば「憲法は今のままでいい」という答えが大半だったりするわけで
自衛隊は必要だが自衛隊の存在を否定する憲法は変えてはいけない
非常に矛盾する答えだが
これを私なりに意訳すると
「日本国憲法は守る必要が全くない」というのが民意だということらしいので

そんな守る必要がない憲法を記念する祝日とか存在しないほうがいいと思います

まったく、どいつもこいつも無責任な考え方しかできねえってのはなあ・・・


まさにわが意を得たりの思いだった。

 憲法は理想を掲げていればよく、現実に守られなくてもよいのであれば、諸々の国民の権利規定についても、同様のことが行われればどうなるか。
 中国や北朝鮮の憲法にも、国民の諸権利が明記されている。しかし、それらは決して守られていない。
 「条文が多少現実と違っていても」「変えないでおく方がよい」というなどという姿勢は、結局は憲法を有名無実化するものではないか。
 国民が自ら作り上げた憲法でないから、それを愚直に守る気概も、時代に合わせて改正すべきという気概も生まれず、邪道による現状維持にとどまりたいと思うのだろうか。

 憲法は国民が国家を縛るものであり、権力者が都合に合わせて改憲を図るべきではないなどと、立憲主義の観点から安倍政権の改憲への動きを批判する人々が、こうした憲法の有名無実化を容認する国民の姿勢には何ら言及しないのが不思議でならない。

 9条だけが改憲のポイントではない。
 しかし、9条だけをとっても、速やかな改憲が必要なのは明らかだと私は思う。

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憲法96条は「世界一の難関」?

2013-04-25 07:39:24 | 日本国憲法
 西修・駒澤大学名誉教授が今月1日付け産経新聞「正論」欄で、「憲法改正へ「世界一の難関」崩せ」と題して、次のように述べている。

 憲法96条を改正しようという動きが浮上している。衆参各議院で総議員の3分の2以上の発議によらなければ、憲法改正案を国民に提案できないとする、高い要件を緩和して、各議院で総議員の過半数の議決によって、国民に提案できるように改めようというのが、改正派の主張である。

 ≪先進国で最も厳しい発議要件≫

〔中略〕

 先進国から成る経済協力開発機構(OECD)加盟34カ国の憲法改正条項を調べてみると、日本国憲法のように憲法改正を必ず国民投票に付さなければならないという規定を持つ国は、日本以外にわずか5カ国しかない。

 しかも、このうち4カ国の議会の国民への発議要件は、過半数(デンマーク、アイルランド、オーストラリア)あるいは在籍議員の3分の2以上(韓国)であり、総議員の3分の2以上としている国は皆無である。日本国憲法の発議要件のハードルがいかに高いか容易に理解できよう。

 残るスイスは、全部改正と一部改正とで手続きを異にし、国民発案も採用していて複雑であるが、いずれの場合も国民投票にかけられる。前憲法(1874年採択)は1999年までに約140回も改正され、同年4月の国民投票で制定された新憲法が2000年1月1日から施行されている。その新憲法も12年3月までに25回の改正が重ねられている。

 改正回数といえば、ノルウェー憲法(1814年採択)はすでに200回以上を数える。同国政府広報部に改正一覧を照会したところ、自分たちも把握していないとの返信が来て驚いたことがある。1カ条でもいじろうものなら天地がひっくり返る大騒ぎになるわが国とは大違いである。


 西については、昔『日本国憲法を考える』(文春新書)、その他いくつかの論考を読んだ記憶がある。具体的な内容はもう覚えていないが、至極まっとうな論者であったと記憶している。
 その西が、このような粗雑な主張を展開しているのは不可解だし、残念に思う。

 なるほど、OECD加盟国のうち「必ず国民投票に付さなければならない」6か国の中では、わが国のハードルが最も高いとは言えるのだろう。
 しかし、それをもって、わが国の改憲要件が「世界一の難関」「先進国で最も厳しい」と言えるのだろうか。
(これらの表現は本文ではなく見出しにあり、西ではなく編集者の手によるものだろうが、しかし西による本文がそのような印象を読者に与えるものであることもまた確かだ)

 連邦制の国家では、議会による可決の後に、さらに連邦を構成する地域の議会の大多数の賛成を要件としている国がある。
 以前の記事でも紹介したが、米国は、連邦の上下両院の3分の2以上の賛成に加え、さらに4分の3の州議会の承認を要件としている。

 カナダは、連邦の上下両院の過半数の賛成に加え、3分の2以上の州議会の賛成を要件としている(重要事項については、両院の過半数の賛成と全州議会の賛成)。

 これらは、わが国の国民投票に劣らず厳しい要件だと思われるが、いかがだろうか。

 また、改憲案が議会を通過しても、その後総選挙を行い、新しい議会で再び可決されることを要件としている国々もある。
 これも以前に紹介したが、

・スウェーデン 国会(一院制)の過半数の賛成→総選挙を経た後、再び過半数の賛成
        国会議員の10分の1が国民投票を提案し、議員の3分の1が賛成した場合は、さらに国民投票

・ベルギー 連邦議会(二院制)が憲法改正を宣言→両議院は解散・総選挙→両議院の3分の2の賛成
      (審議には常に総議員の3分の2以上の出席が必要)

・フィンランド 国会(一院制)の過半数の賛成→総選挙を経た後、3分の2の賛成

・オランダ 下院の過半数の賛成→解散・総選挙→両院の3分の2の賛成

といったものだ。
 総選挙を経るのだから、事実上国民投票を兼ねていると見ることもできるだろう。
 しかも、ベルギー、フィンランド、オランダの、最初は過半数でよいが、構成が変わった新たな議会では3分の2というのは、かなり高いハードルだと思える。
 これらもまた、わが国と比較して緩やかであるとは思えない。

 西は続いてこう述べている。

 ≪GHQの日本人不信の所産≫

 96条はなぜ、こうした高い要件を課されるようになったのか。

 一言でいえば、日本国民に対する不信からである。連合国軍総司令部(GHQ)で、その原案を作成したリチャード・A・プール氏は1984年7月、私のインタビューに次のように答えた。「私が読んだ報告書には、『日本はまだ完全な民主主義の運用に慣れる用意がなく、憲法の自由で民主的な規定を逆行させることから守らなければならない』と書かれていました。私はこの報告書を興味深く読み、厳しい制約を課すことが必要だと思ったのです」

 その結果、同氏らは、(1)憲法が施行されて10年間は改正を禁じる(2)その後、10年ごとに憲法改正のための特別の国会を召集する(3)改正案は国会議員の3分の2以上の多数により発議され、国会で4分の3以上の賛成があれば成立する−との案を作成した。

 この案は部内で討議され、憲法改正は国会の総議員の4分の3以上の同意により成立するものの、基本的人権の章を改正する場合はさらに選挙民による承認を求め、投票した国民の3分の2以上の賛成を必要とする、という第二次案を経て、46年2月13日に、日本政府に提示されたGHQ案は、国会で総議員の3分の2以上の発議と国民の過半数の承認を要するという規定に落ち着いた。

 ≪世の現実と規定もはや合わず≫

 このGHQ案の改正手続きについては、政府においても、また帝国議会においても実質的な検討はなされていない。GHQ案をほぼ丸呑みしたといえる。


 なるほど、リチャード・A・プールらによる原案に、

(1)憲法が施行されて10年間は改正を禁じる
(2)その後、10年ごとに憲法改正のための特別の国会を召集する
(3)改正案は国会議員の3分の2以上の多数により発議され、国会で4分の3以上の賛成があれば成立する

との、ひどく厳しい要件が設けられていたのは、そのような意図があったからなのだろう。

 しかし、それは弱められ、結局は「総議員の3分の2以上の発議と国民の過半数の承認」に落ち着いたのだ。
 ならば、原案の作成者の意図を強調することにさして意味はないのではないか。

 米国やドイツなど、発議に各議院の3分の2を要件としている国はある。
 仮にそれらの国で、3分の2で可決された後、さらに国民投票での過半数が要件になったとしよう。
 各議院が3分の2で賛成しているにもかかわらず、国民投票で過半数の賛成が得られないとは、よっぽど議員と国民の意思が乖離した事態だろう。そんなことが、そうそう有り得るものだろうかと思うし、そうした事態を防止するために、敢えて国民投票を導入したのだろうとも思う。
 各議院の3分の2+国民投票の過半数という制度は、やはりそれほど苛酷なものとは思えない。

 そういう西は、では国民投票については否定的なのかと思いきや、こんなことを言っている。

 憲法改正に際して、最も大切な点は、主権者たる国民の意思をそれに反映させることである。国会の役割は、国民に対して憲法のどこがどう問題なのか、判断材料を提示することにある。

 昨年、実施された日本の新聞各紙の世論調査ではいずれも、憲法改正支持が不支持を20〜38%上回っている。特に産経新聞・FNN合同調査では「憲法改正をめぐる投票に実際に投票したい」が81・5%に達している(平成24年5月1日付産経新聞)。

 安倍晋三首相が言う通り、いずれかの院で3分の1をちょっとでも超える議員が反対すれば、国民に憲法改正の意思を表明する機会が与えられないという現在の仕組みは、不合理である。

 世論調査結果に関する限り、社会の実際と憲法規定と合わない部分を改正したいという現実的な理由を挙げる者が多くなってきており、イデオロギーの対立を基に、護憲か改憲かという古くさい議論を展開している国会とは大きな隔たりがみてとれる。国会が国民主権の障害物になっているようにさえ感じられ、早急に、憲法改正要件を緩和すべき第一歩が踏み出されなければならない。


 だったら、わが国が「必ず国民投票に付さなければならない」少数派の国であることを強調することに意味はない。
 むしろ「各議院で総議員の3分の2」の方が問題なのだということになる。
 しかし、前述のとおり3分の2を要件としている国は多々あり、「3分の1をちょっとでも超える議員が反対すれば」は何もわが国に限った話ではない。

 ついでに言えば、大日本帝国憲法でも各議院の出席議員の3分の2が改正要件とされていた(国民投票はもちろんなかった)。

 私は、以前の記事にも書いたように、少し前までは3分の2でいいと思っていたが、最近は過半数に改めるのも改憲の実現のためにはやむを得ないのではないかと考えるようになった。
 しかし、こんな「世界一の難関」「先進国で最も厳しい」といった虚構に基づいた緩和論を、憲法学者に語ってもらいたくはない。
 かえって、改憲の足を引っ張りかねない。

 現に、11日付の同じ産経「正論」欄に掲載された百地章・日本大学教授の「憲法を主権者の手に取り戻そう」には、次のようにある。

 この改正手続きが諸外国と比較していかに厳しいかは、先日、本欄で西修駒沢大学名誉教授が指摘された通りである。それによれば、発議のために議会の「総議員の3分の2以上」の賛成まで要求している先進国はなく、「世界一の難関」となっているという。しかも、わが憲法は国民投票まで要求している。


 上で引用したとおり、西はこんなことは言っていない。OECDに加盟する34か国のうち、「憲法改正を必ず国民投票に付さなければならない」のはわが国を含む6か国しかなく、その中で「総議員の3分の2以上」を要件としているわが国が最も厳しいと言っているだけだ(しかし韓国との差は総議員か在籍議員かにすぎない)。
 百地章もまた憲法学者であるはずだが、何とも粗雑な要約だ。

7月の次期参議院選挙後の議席状況次第では、国会の3分の1の壁を突破し、現実に国会によって憲法改正条項の改正が発議される可能性が出てきた。まさに改憲モラトリアムから完全に脱却する、絶好の機会が訪れつつあるわけである。今こそ憲法を、国会から主権者国民自身の手に取り戻すときではなかろうか。


「今こそ憲法を、国会から主権者国民自身の手に取り戻すとき」
 主権者が選出したのが国会議員である。その議員によって構成される国会から、憲法を国民の手に取り戻すとは意味不明である。
 百地はルソー流の「国民は選挙のときにのみ自由であり、選挙のあとは奴隷である」といった政治観の持ち主なのだろうか。
 ならば、代議制に反対し、直接民主制あるいは人民民主制を志向してはいかがか。

 3分の2が2分の1になろうが、発議権が国会議員にあることに変わりはない。スイスのように、国民が自ら改憲を発議できるわけではない。
 それでどうして、憲法を国民の手に取り戻すことになるのか。
 実にくだらない。

 改憲論議が高まるのは結構なことだと思うが、それが「世界一の難関」といった虚構に基づくものでは、かえって説得力を失ってしまうことにならないか。
 あるいは、そんな主張に基づいて改憲が通ってしまったら、歴史に汚点を残すことになるのではないか。

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憲法前文に国の歴史・伝統・文化が語られるのは当たり前?

2013-04-21 01:03:59 | 日本国憲法
 日本国憲法前文。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


 自民党が2012年に決定した日本国憲法改正草案では、この前文を次のように改めるとしています。

前文
 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


 自民党のホームページに掲載されている「日本国憲法改正草案Q&A」には、前文を改める理由について次のように書かれています。


Q3 「前文」を改めた理由は何ですか?
また、新しい「前文」には、どのようなことが盛り込まれたのですか?

(前文を改めた理由)
 現行憲法の前文は、全体が翻訳調でつづられており、日本語として違和感があります。そして、その内容にも問題があります。
 前文は、我が国の歴史・伝統・文化を踏まえた文章であるべきですが、現行憲法の前文には、そうした点が現れていません。
 また、前文は、いわば憲法の「顔」として、その基本原理を簡潔に述べるべきものです。現行憲法の前文には、憲法の三大原則のうち「主権在民」と「平和主義」はありますが、「基本的人権の尊重」はありません。
 特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。
 こうしたことを踏まえ、今回、現行憲法の前文を全面的に書き換えることとしました。

(前文の内容)
 第一段落では、我が国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であることを明らかにし、また、主権在民の下、三権分立に基づいて統治されることをうたいました。
 第二段落では、戦後の歴史に触れた上で、平和主義の下、世界の平和と繁栄のために貢献することをうたいました。
 第三段落では、国民は国と郷土を自ら守り、家族や社会が助け合って国家を形成する自助、共助の精神をうたいました。その中で、基本的人権を尊重することを求めました。
 党内議論の中で「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。」という意見があり、ここに「和を尊び」という文言を入れました。
 第四段落では、自民党の綱領の精神である「自由」を掲げるとともに、自由には規律を伴うものであることを明らかにした上で、国土と環境を守り、教育と科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させることをうたいました。
 第五段落では、伝統ある我が国を末永く子孫に継承することをうたい、新憲法を制定することを宣言しました。


「前文は、我が国の歴史・伝統・文化を踏まえた文章であるべき」
 本当にそうなのでしょうか。
 各国の憲法前文も、そのような内容なのでしょうか。

 私は疑問に思い、ちょっと『新版 世界憲法集』(高橋和之編、岩波文庫、2007)で確認してみました。

 さて、ここでクイズです。
 以下に挙げるのは、同書に収録された各国の憲法の前文です。いずれもいわゆる先進国のものです。
 どれが何という国の憲法前文か、その内容からわかりますか? 
 固有名詞が入るとさすがにすぐわかってしまうので、伏せ字にしました。〔 〕内は筆者による註です。また、引用中、漢数字はアラビア数字に直しました(以下同じ)。

A国

 〔前略。A国を構成する地域が列挙される〕の植民州は、○○○国の王位の下に、○○○国の憲法と同じ原理の憲法を有する一つの自治領に連邦として統合する希望を表明し、
 また、このような連邦は、これら植民州の繁栄に寄与し、かつ、○○○国の利益を増進するものであり、
 また、議会の権限に基づく連邦の創設にあたっては、この自治領における立法権限の構成を規定するのみならず、執行府の性格を宣言することが適当であり、
 また、○○○国領□□□〔A国を含む地域〕のその他の地域が、将来この連邦へ加入するための規定を設けることが適当であるため、以下のとおり定める。


B国

 B国民は、神及び人間の前での責任を自覚し、統合された×××××〔B国を含む地域〕の対等の構成員として世界の平和に奉仕する意思に鼓舞されて、その憲法制定権力に基づき、この基本法を制定した。〔中略。B国を構成する地域が列挙される〕のB人は、自由な自己決定において、Bの統一と自由を完成させた。これにより、この基本法は、全B国民に適用されることになる。


C国

 全能の神の名において!
 C国民及び州は、
 被造物に対する責任を自覚し、
 世界に対する連帯及び開放の精神において、自由及び民主主義並びに独立及び平和を強化するために同盟を刷新することを決意し、
 相互に配慮し、尊重しつつ統一の中の多様性の下に生きる意思を有し、
 共同の成果及び将来世代に対する責任を自覚し、
 自由を行使する者のみが自由であるということ及び国民の強さは弱者の幸福によって測られるということを確信し、
 次のとおり、憲法を制定する。


D国

 D人民は、1789年宣言により規定され、1946年憲法前文により確認かつ補完された人の諸権利と国民主権の諸原理に対する忠誠、および、2004年環境憲章により規定された権利と義務に対する忠誠を厳粛に宣言する。
 これらの原理および諸人民の自由な決定の原理の名において、共和国は、加盟意思を表明する海外諸領に対し、自由・平等・博愛の共通理念に依拠し、諸領の民主的発展をめざして構想された新制度を提供する。


E国

 われらE国人民は、より完全な連合を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般的福祉を増進し、そしてわれらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにこの憲法をE国のために制定し、これを確立する。


 いかがでしょうか。予備知識のある方は別として、特定するのはかなり難しいのではないでしょうか(D国だけは少し簡単かもしれません)。

 これらを読んで私が思ったのは、前文には、その憲法が成立した経緯や、憲法の基本原理については書かれているものの、自民党のQ&Aが言う「国の歴史・伝統・文化を踏まえた文章である」とは必ずしも言えないということです。
 そして、自民党の草案が挙げる、

「長い歴史と固有の文化」
「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展」
「今や国際社会において重要な地位を占め」
「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」
「美しい国土と自然環境」
「良き伝統」

といった自賛調の表現――私は憲法前文にこのような表現を用いることに強い違和感を覚えます――を取り入れている国はこれらの中にはないということです。

 ちなみに、A国はカナダ、B国はドイツ、C国はスイス、D国はフランス(「1789年宣言」「自由・平等・博愛」とあるのですぐおわかりになった方もおられるでしょう)、E国はアメリカ合衆国です。
 なお、ここで引用したカナダの憲法は1867年憲法のものです。『新版 世界憲法集』の解説によると、カナダ憲法は一つの成文の「憲法典」で構成されているのではなく、1867年憲法と同法の改正法群、1982年憲法、ウェストミンスター法等の法令、及び憲法慣習の集合体で構成されているとのことです。1982年憲法も同書に収録されていますが、憲法全体としての前文はなく、「第1章 権利および自由に関するカナダ憲章」に、

 カナダは、神の至高性および法の支配を承認する原理に基礎づけられているので、以下のとおり定める。


というシンプルな前文があります。

 では、憲法前文に「国の歴史・伝統・文化を踏まえた」国はないのでしょうか。
 前掲『新版 世界憲法集』を見ていると、ああ、ありました。

 大韓民国憲法前文。

 悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抗した四・一九民主理念を継承して、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚し、正義、人道および同胞愛により民族の団結を強固にして、すべての社会的弊習と不義を打破するとともに、自律と調和を基礎として自由民主的基本秩序をさらに確固にし、政治、経済、社会、文化のすべての領域において各人の機会を均等にして、能力を最高度に発揮させるとともに、自由と権利に伴う責任と義務を完遂させ、内には国民生活の均等な向上を期し、外には恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することにより、われらとわれらの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを誓いつつ、1948年7月12日に制定され、8次にわたって改正された憲法をここに国会の議決を経て国民投票により改正する。


 「国民投票により改正」されたのは、いわゆる民主化後の1987年10月です。

 うーん、確かに「国の歴史・伝統・文化を踏まえ」ています。
 というか、自民党はこれを参考にしたのではないかと思えるくらいに、様々な点が似ています。

 ソ連の解体、反大統領派の打倒を経て1993年12月に国民投票で採択されたロシア連邦憲法の前文はこうです。

 われわれロシア連邦の多民族からなる人民は、
 わが国における共通の運命に結ばれ、
 人権と自由、市民の平和と合意を確信し、
 歴史的に形成された国家の統一を護り、
 諸民族の同権と自決の普遍的原則に基づき、
 祖国への愛と尊厳、善と公正への信頼をわれわれに伝えた先祖を偲び、
 主権国家としてのロシアを復興するとともに、その民主的原則の揺るぎなさを確立し、
 ロシアの幸福と繁栄の保証を目指し、
 現在と未来の世代を前に、祖国への責任に基づき、
 自らを世界の共同体の一員と自覚し、
 ここにロシア連邦憲法を採択する。


 これも「国の歴史・伝統・文化を踏まえ」ていると言えるでしょう。

 中華人民共和国の憲法前文はもっとすごいです。

 中国は、世界で歴史が最も悠久な国家の一つである。中国各民族人民は、輝かしい文化を共同して創造し、光栄ある革命の伝統を有している。
 1840年以降、封建的な中国は、半植民地的かつ半封建的な国家へと徐々に変わっていった。中国人民は、国家の独立、民族の解放及び民主と自由のために、前を行く者が倒れれば後の者が続くという英雄的な奮闘を進めてきた。
 20世紀に、中国では天地を覆す偉大な歴史的変革が起こった。
 1911年、孫中山先生の指導する辛亥革命が、封建帝制を廃止し、中華民国を建国した。しかし、中国人民が帝国主義及び封建主義に反対する歴史的任務は、いまだ完成していなかった。
 1949年、毛沢東主席を領袖とする中国共産党が中国各民族人民を領導し、長期の苦難に満ち曲折した武装闘争及びその他の闘争を経た後、帝国主義、封建主義及び官僚主義の統治をついには覆し、中華人民共和国を建てた。このときから、中国人民は、国家の権力を掌握し、国家の主人となった。
 〔後略〕


 長いので以下省略しますが、延々6ページにわたり、国の歴史、国を導く思想、階級闘争の継続、台湾の統一、国民の団結、民族の平等、平和5原則と世界各国人民の闘争への支持などがうたわれています。
 興味のある方は、翻訳は異なりますが、こちらのサイトに憲法全文が掲載されていますのでご参照ください。

 韓国は、民主化後の歴史はさほど長くありません。ロシアでは、選挙はあるものの、プーチン大統領による強権的支配が続いています。中国共産党はより強固な独裁を敷いています。

 わが国は、欽定憲法とはいえ大日本帝国憲法以来の憲政の歴史があり、世界的に見れば憲政国家としては古い方です。そのわが国における改憲案の憲法前文が、民主国家としてはわが国より後発の韓国や、民主制とはやや言い難いロシア、明らかに民主制ではない中国といった国々のものと類似しているというのは不可解な現象です。

 私は、憲法第9条をはじめ現憲法は様々な点で改められるべきだと思いますが、既にいろいろと指摘されているように、この自民党の改正草案にも多々問題があり、このままで国民投票にかけられるような代物ではないと考えています。
 大いに議論がなされ、修正を加えられるべきでしょう。
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憲法96条の改正論に思う

2013-04-07 10:51:54 | 日本国憲法
 安倍首相は、日本国憲法の改正手続を定めた96条の改正を目指すとしている。日本維新の会やみんなの党にも同調する動きが広がっている。

憲法96条の改正、安倍首相改めて意欲

 安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、憲法改正手続きを定めた憲法96条について「憲法に対し、国民が意思表示する機会を事実上奪われていた」と述べ、発議の要件を国会議員の2分の1に緩和する改正に改めて意欲を示した。

 首相は「たった3分の1をちょっと超える国会議員が『変えられない』と言えば、国民は賛成にしろ反対にしろ意思表明の手段すら行使できなかった」と主張。その上で、96条改正に前向きな日本維新の会を「先の総選挙では比例の結果で第2党だ。『政治を変えてくれ』という希望を皆さんに託した」と持ち上げ、協力を呼びかけた。維新の村岡敏英氏への答弁。


 私も改憲論者だが、しばらく前までは、この96条については、改める必要はないのではないかと思っていた。

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。


 この改正要件を、極めて厳格なものとか、事実上改正不可能にしたものと唱える向きもあるが、私はそうは思わない。
 他国に比べても、それほど厳格な規定ではなかったはずだ。

 ちょうど3月13日付け朝日新聞社説「憲法改正要件 「3分の2」の意味は重い」が各国の憲法改正手続の表(複数の方法がある場合には代表的な例)を掲載しているので、引用する。

 米 各議院の3分の2の賛成→4分の3の州議会の承認 戦後6回改正
 独 各議院の3分の2の賛成 同59回改正
 伊 各議院の過半数の賛成→3カ月以上経て各議院の過半数の賛成→要求があれば国民投票 同16回改正
 仏 各議院の過半数の賛成→国民投票か、政府提出なら両院合同会議の5分の3の賛成 同27回改正
 韓 国会の3分の2の賛成→国民投票 同9回改正

 なお、韓国の国会は一院制である。また、9回の改正のうち76回は李承晩、朴正煕、全斗煥の独裁の下で行われたものである。9回目の改正が1987年のいわゆる民主化の際に行われたもの(第6共和国憲法)であり、以後は改正されていないので、他の4か国と単純に比較するのは相当でない。

 All About の「世界の憲法改正手続比較」(執筆者:辻 雅之、2007年)という記事には、さらに次のような事例が紹介されている。

・カナダ 連邦議会の上院・下院の過半数の賛成→3分の2以上の州議会の賛成
     (重要事項については、連邦議会両院の過半数の賛成と全州議会の賛成)

・スウェーデン 国会(一院制)の過半数の賛成→総選挙を経た後、再び過半数の賛成
        国会議員の10分の1が国民投票を提案し、議員の3分の1が賛成した場合は、さらに国民投票

・ベルギー 連邦議会(二院制)が憲法改正を宣言→両議院は解散・総選挙→両議院の3分の2の賛成
      (審議には常に総議員の3分の2以上の出席が必要)

・フィンランド 国会(一院制)の過半数の賛成→総選挙を経た後、3分の2の賛成

・オランダ 下院の過半数の賛成→解散・総選挙→両院の3分の2の賛成

 多くの民主制の国家では、憲法改正には厳格な要件が定められているようである(英国やイスラエルのような不文憲法の国には、改正手続も当然存在しないが)。
 わが国の要件は、ドイツやイタリアと比べれば厳しいものではあろうが、安倍首相が就任当初述べていたような「あまりにもハードルが高すぎる」ものではないだろう。

 櫻井よしこは、昨年4月25日の自由報道協会における会見での質疑応答でこう述べていた。

96条というのは改正の規定を定めたものです。衆議院と参議院、三分の二の賛成をもって、国民投票にかけて半分以上の賛成を経てようやく改正が出来る。

でも日本の政治史を振り返ってみるとわかるのですが、一つの政党が両院で三分の二をとったことは無い。おそらくこれからもないと思います。となると、三分の二を取れない限りは未来永劫、アメリカ人の作った憲法を我々が使うという非常に変なことが続きます。まずは改正の規定を変えましょう。三分の二の賛成が無ければ変えられないということは、三分の一の反対で阻止出来るわけです。これは民主主義じゃない。民主主義的に憲法改正を可能にするために、三分の二を二分の一、もしくは半分以上というふうに変えるのが良いんじゃないか。まずは96条の一点に絞って改正しましょう。これは96条改正理念として既に出来ています。

一昨年の6月でしたか。超党派で議連が立ち上がりました。自民、民主、その他いろんな政党がここに参加していますね。既に260名の議員の方々が署名をしています。ただ、衆参合わせて約750名弱ですね。96条を変えるのにも三分の二が必要ですからざっと見てあと240名ほど賛成の人たちを増やさないといけない。

私はこれを突破口にしてその後具体的にどこを変えますか?9条からですか?それとも家族のところですか?それとも教育からですか?と逐条的に議論をしていけばいいだろうと思います。


 しかし何故、一つの政党だけで改憲を進めることが前提となっているのか。
 3分の2以上を占める複数の政党で協力して進めればよいではないか。

 社会党が野党第1党であった55年体制の下では、確かにそのような事態は考えられなかっただろう。
 しかし、民主党は、社会党のように護憲一点張りの政党ではない。
 野田佳彦も前原誠司もかねてからの改憲論者であり、集団的自衛権の行使を認めるべきと主張している。
 鳩山由紀夫だって、天皇を元首とし、自衛軍の保持を明記する新憲法私案を2005年に発表している。
 社会党出身の仙谷由人も、旧来の護憲・改憲論議を批判し、21世紀の日本の「国のかたち」を現す創憲が必要だと発言してきた。

 3分の2を2分の1に改めてしまうと、政権交代のたびに改憲がなされるおそれが生じる。
 せっかく改憲しても、次の政権でまた元に戻されるという事態も有り得ることになる。
 憲法は、もちろん不磨の大典だとは思わないが、そうそう安易に変えていいものだとも思えない。
 超党派的に、大多数である3分の2以上を賛成を得て進める方が、改憲に正統性を持たせる上では望ましいのではないか。

 しばらく前までは、そう思っていた。

 しかし、最近になって、こうも考えるようになった。

 そうはいっても、民主党は、政権交代が近づくにつれ改憲論を前面に出さなくなり、政権をとってからも改憲を全く進めようとはしなかったではないか(鳩山由紀夫は首相辞任後に超党派の改憲派議員の総会で、「憲法改正を語る資格はない!」と自民党議員から面罵されたという)。
 この国では、二大政党が協力して改憲を進めるなどということは所詮無理なのではないか。
 このままでは、私の目の黒いうちには改憲など実現することはないのではないか。
 先の衆院選で自民党が圧勝し、日本維新の会とみんなの党も改憲を主張している今は、またとないチャンスではないか。このような機会がそうそう得られるとは限らない。
 この際、96条の改正1本に絞って改憲し、その後、その他の条文について、各議院の過半数の賛成により進めていくという手法も、やむを得ないのではないか。

 そんなことを考えていたところ、折しも日本維新の会が3月30日に行われた初の党大会で承認した綱領には、次のような文言があると報じられた。

1.日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。


 当初の案では「国民の意志と時代の要請に適した憲法への改正」といった表現だったが、石原慎太郎が大幅に書き換えさせたのだという。

 これに対し、民主党は4月1日の役員会で、参院選での日本維新の会との選挙協力を断念する方針を決めた。細野豪志幹事長は記者会見で、日本維新の会の憲法観が「私どもとは異なる」、「維新は安倍政権と酷似している」と述べたという。

 しかし、憲法観が異なるからといって、即選挙協力ができないというものでもあるまい。そもそも、異なる政党同士で、憲法観が一致しなければ選挙協力ができないとはおかしな話だろう。自民党と公明党だって憲法観は一致していないし、鳩山由起夫政権で連立した民主党と社民党にしても同様だろう。
 民主党が今年2月にやっとこさ決定した党綱領には、

私たちは、日本国憲法が掲げる「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」の基本精神を具現化する。象徴天皇制のもと、自由と民主主義に立脚した真の立憲主義を確立するため、国民とともに未来志向の憲法を構想していく。


とあるように、この党はやはり改憲を否定してはいない。
 ならば、憲法観はともかく、改憲を志向するという点では一致できないはずもない。
 なのに選挙協力に応じられないとすれば、それは結局のところ、自らの手で改憲を進めるつもりはないということにほかならないだろう。

 民主党がこれから発行する、綱領の解説などが盛り込まれた冊子では、「改憲あるいは護憲そのものを自己目的化することなく、国民とともに憲法のあるべき姿を議論していく」と述べられているそうだ。
 なるほど、改憲を「自己目的化する」とすればそれはおかしい。肝心なのは改憲の内容だろう。
 しかし、いったいいつまで「議論していく」つもりなのだろうか。自民党は2005年と昨年に憲法草案を公表している。

 先に述べた、この際やむを得ないのではないかという思いはますます強まるばかりだ。

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