海馬之玄関amebaブログ

大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進します


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<瓦解する天賦人権論のイメージ>



法理論的な意味と用法において、「憲法制定権力」は事実の世界の実定法秩序の変遷と法規範の世界の憲法体系の交錯を説明する作業仮説にすぎない。だからこそ、カール・シュミットは『憲法論:Verfassungslehre』(1928)の8章で、これまでの現実の政治史において「憲法制定権力」になりえたものとして「国民」や「人民」のみならず「神」や「国王」や「組織されたと徒党」をも挙げているのでしょうから。


尚、憲法制定権力と憲法改正の限界、及び、憲法の概念を巡る
私の基本的理解に関しては下記拙稿をご参照ください。


・憲法96条--改正条項--の改正は
 立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61963692.html


・保守主義の憲法観
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60996566.html

















繰り返しになりますが、「憲法制定権力」はある憲法秩序を構成する諸規範分類の道具概念であり、かつ、ある実定法秩序の変遷が「憲法の改正」であるか「新憲法の制定」かを判定する道具概念である。少なくとも、この理解からは「神は一度だけ宇宙を揺らす」のか「幾度も揺らすのか」などの、それこそ神学論争にこの用語の使用を限定されるいわれはない。と、そう私は考えます。


日本国民は自国の文化と伝統を反映した、なにより、自国の安心と安全と国益を極大化可能な憲法を制定する憲法制定権を持っており、その憲法制定権の発動の結果が「占領憲法の改正」であるのか「新憲法の制定」であるのかは日本国民にとってはどうでもよい、--勝負の決まり手が「小手投げ」なのか「出し投げ」なのかの判定の如く、勝負の帰趨とは無関係な、憲法研究者コミュニティー内部でのみ意味を持つ--趣味的な論点にすぎないとも。


б(≧◇≦)ノ ・・・小手投げ!
б(≧◇≦)ノ ・・・出し投げ!


ウマウマ(^◇^)稀勢の里、勝利!





















▼フランス革命
樋口さんの発言、「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」という言葉自体にすでに左翼リベラルの価値観が炸裂していますが、「大革命前夜のフランスで・・・人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられた」にも目眩がしました。阿呆か、と。この理解は少なくとも読者をミスリードするものではないかと思います。


畢竟、鎌倉幕府の成立時期の解釈とパラレルに「フランス革命」をいつからいつまでの事柄とするかもそう簡単ではない。けれども、名作『ベルサイユの薔薇』を念頭に整理させていただければ、少なくとも、フランスの近現代史において、第一帝政(1804-1814)、王政復古(1814-1830)、七月王政(1830-1848)、第二共和政(1848-1851)、第二帝政(1851-1870)、第三共和政(1870-1940)、ナチスドイツによる占領およびビシー体制(1940ー1945)、第四共和政(1946-1958)、第五共和政(1958ー)の太刀持ち露払いを務める「フランス革命」なるものは、


1789年05月05日--------三部会招集
1789年07月09日--------憲法制定国民議会
1789年07月14日--------バスティーユ監獄の誤爆的襲撃
1789年08月26日--------人権宣言採択
1789年10月05日--------ヴェルサイユ茶番行進
1791年09月03日--1791年憲法(立憲君主制・国王に法律の拒否権)
1791年10月01日--------立法議会
1792年09月21日--------国民公会→王政廃止→ジャコバンのカルト的独裁開始
1793年01月21日--------ルイ16世処刑
1793年06月02日--------国民公会公安委員会をジャコバン派が独占
   →→テルミドール(1794年)までジャコバンのカルト的独裁が猖獗を極める!
1793年06月24日--1793年憲法(カルト的左派憲法。但し、施行はついにされず)
1793年10月10日--1793年憲法の停止(施行されていない憲法の停止!)
  「フランス政府は和平達成のその日まで革命的である」=「人の支配」の宣言!
   1793年4月~1794年7月の間にパリだけでも3000人が問答無用で処刑される!
1793年10月16日--------マリー・アントワネット処刑
1794年07月27日--------テルミドールの正義と秩序の回復
1794年07月28日--------カルト左派の狂人・ロベスピエール処刑
1795年08月22日--1795年憲法(ある意味、典型的な「ブルジョア憲法」)
1799年12月25日--1799年憲法(ナポレオン憲法)
1804年12月02日--------ナポレオンの皇帝戴冠
  「余は、フランス共和国の皇帝である。余は、フランス共和国の領土を外敵から守り、
   信仰の自由、政治的および市民的自由の保障等々、革命の成果を断固守護する」
1815年06月18日--------「ワーテルローの戦い」でフランス完敗
   →→「フランス革命」という名の一連の陰惨で滑稽な騒乱が完全に集結!


という一連の雑多で陰惨で滑稽な事件の束のことでしかないでしょう。蓋し、この陰惨で滑稽な事件の連続、もしくは、その中で泥縄式に制定された諸憲法とその実定法秩序を称して「革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序」と呼ぶとは呆れてものも言えない。なにより、樋口さんの言う「国民主権をうたう新しい憲法」とはどの憲法のことなのでしょうかね。真面目に疑問です。


いずれにせよ、フランス革命なる「陰惨で滑稽な事件の連続」を根拠に、--1789年以降、諸外国においても憲法論的に尊重されるべき価値を帯びる--普遍的な人権なるものや普遍的な立憲主義なるものが成立したなどとは到底言えないことだけは間違いないのではないか。よって、日本では(コミンテルン日本支部であった日本共産党と近しい)講座派や隠れ講座派の丸山真男、あるいは、大塚久雄が流布した「日本は市民革命を自前で経験していないから、本当の意味での民主主義も人権尊重の感覚も国民の間に根付いていない」なども与太話にすぎない。フランス革命などは日本にとっては大昔のよそ事なのですから。と、そう私は考えます。



而して、自民党の改憲草案に対する樋口さんの敵意というか苛立ちの原因はなんなのか。「改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか」という主張を見てそう疑問に思いました。なぜならば、「在外国民の保護」(25条の3)等の新しい規定が盛り込まれているだけでなく、現行の占領憲法の曖昧な多くの権利条項を明確化している点で、占領憲法よりも、そして、間違いなく旧憲法よりも改憲草案の方が権利保障においても優れている所もあるはずですから。


あくまでも想像するしかありませんけれども、樋口さんの苛立ちの理由は、(A)旧憲法と改正草案の各々の時点における「ヨーロッパ・スタンダード」との距離、就中、(B)改憲草案が、天賦人権論・社会契約論・個人の尊厳、すなわち、「必要悪としての国家権力」あるいは「安全保障等の公共善を担い、かつ、権利を保障する限りにおいて国家権力は正当性が認められる」という19世紀のフランスの左翼的パラダイムの残滓を払拭していることなの、鴨。もし、この想像が満更私の曲解ではないとするならば、しかし、これら(A)(B)は樋口さんの個人的な美意識のマターであり、それが自民党の改憲草案の是非を判定する上で一般的にそうそう意味のある基準ではないのではないでしょうか。


蓋し、立憲主義は<開かれた構造>であり、憲法を制定し解釈する営みに際しての<足場>にすぎない。つまり、樋口さんご自身が述べておられるように「もとより、人権の普遍性を基本に置く考え方にしても、それぞれの文化の個性を無視していてはその社会に受け入れられない」(『「憲法改正」をどう考えるか--戦後日本を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年5月))のでしょう。ならば、これまた繰り返しになりますけれども、具体的な権利の内容は国により時代により異なるのであり、その権利内容を詳らかにするのは「立憲主義」の四文字ではなく司法審査の<言語ゲーム>的の蓄積でしかないだろうから。


まして、「夜警国家」の時代ではなく社会権的権利が認められている「福祉国家」の時代、そして、樋口流の憲法論から見ても、それまた「必要悪」たる諸外国による日本の主権と日本国民の権利侵害が頻発する現在--よって、権利の制約根拠を「権利相互間の調整原理としての公共の福祉」なるものではまかなえないことが自明であり、権利の制約根拠としての「公益」をも導入することが不可避の現在という<時代性>を反芻するとき--いよいよ、私はそう考えるのです。



樋口流の憲法論は破綻している。それは、例えば、集団的自衛権の政府解釈の見直しについて、朝日新聞が「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか」(2014年1月3日社説)と書いているのと同じくらい根拠薄弱の議論。


なぜならば、現在の「集団的自衛権を日本は国際法上は保有しているが占領憲法上は行使できない」という噴飯ものの政府解釈もまた「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈」によるものだから。他方、樋口さんの議論もまた、その仲間内でしか神通力のない「立憲主義」「憲法制定権力」「フランス革命」を巡る特殊な語義で編み上げられた<呟き>なの、鴨。


畢竟、上に引用した樋口さんの主張は単なる「文化帝国主義」の吐露にすぎず、天賦人権なるものに価値を認めない我々保守派のような縁なき衆生にはなんの説得力もないリベラル派の杜撰で僭越な<呟き>にすぎないと思います。樋口さんご自身が次のような真理告白・信仰告白を吐露してから、すなわち、


「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」


「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから。


と、少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。なぜならば、それは文化帝国主義などではないからだ」というトートロジーを、すなわち、循環論法でもって単なる自己の美意識を『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff.)に綴ってから四半世紀が経過するというのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。



畢竟、樋口陽一の護憲論議は杜撰な僭越であるか、私的な美意識の披露、
もしくは、その両方にすぎない。と、そう私は考えます。
而して、瓦解した天賦人権論の上に、日本の国柄を踏まえた<憲法>が
木花咲耶姫の如く美しく再生する日も遠くないとも。























木花咲耶姫











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集団的自衛権の政府解釈の見直しや自民党の憲法改正草案は、「旧憲法への遡行」どころか、旧憲法さえ尊重していた「立憲主義」を破壊しようとするものだ、そのような動きを「保守」と呼べるのだろうか。このような言説が少なくないようです。蓋し、その多くは「天賦人権および立憲主義にアプリオリな価値を密輸する」誤謬を犯したもの、鴨。


その代表的論者、樋口陽一さんは、例えば、『世界』(2013年12月号)所収の「なぜ立憲主義を破壊しようとするのか」(pp.63-68)でこう述べている。


「安倍政権が成立して、まず96条、憲法改正手続を定めた条項を改めようという主張を押し出してきました。自分たちがやろうとする全面改憲をやり易くするために改正手続きのハードルを下げてくれという話ですから、試合をやり始めながら途中で自分たちに都合よくルールを変えるということのいかがわしさが、あぶり出されることになりました。その際に議論のキーワードとなって浮かび上がってきたのが、立憲主義(constitutionalism)という言葉です。


憲法(constitution)を基準にして権力を縛る、ということがその意味です。・・・【旧憲法時代にも「立憲主義」はいきづいていました】帝国憲法の下で初期には藩閥政府の権力、やがて軍という権力に対する抵抗の中で、立憲主義を盾にして権力を非・立憲、反・立憲と弾劾して攻めたてるのが、帝国議会の役割だったからです。・・・



国民主権を掲げることになった戦後、・・・国民が主人公になったのだから国民がつくった権力を制限する必要はない、もはや「立憲」の時代ではなく「民主」の世の中だ、という感覚が広がったのです。・・・それならば、【憲法改正の】国民投票をする国民は万能なのでしょうか。96条の定める憲法改正権も権力である以上、制限されなければならないのが、立憲主義ではないでしょうか。


そのような抵抗力を持つはずの立憲主義という枠組みをこわしてゆこうとするときに持ち出されるのが、実は「国民の憲法制定権力」というシンボルです。歴史を遡りましょう。大革命前夜のフランスで、目の前にある既成の法秩序を全面的に解体して新しい法体系を作り出すときに、「憲法をつくる力」を国民が持ち、それはどんな法的制約にも服さない、という主張が威力を発揮しました。そのようにして、人権宣言と、国民主権をうたう新しい憲法がつくられたのです。


ところが、国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます。こうして、憲法を変えるにしても、それは万能の権力によってではなく、憲法自体の規定する約束事によってしか出来ないことになりました。憲法改正権(96条です)は、「憲法をつくる権力」ではなく、立法、司法、行政、そうであるように、憲法によってつくられた、従って憲法上のルールに縛られた権限のひとつなのです。・・・


ですから、「国民が憲法制定権力を持つ」という議論の仕方に、うっかり「だまされ」ないようにしましょう。たしかに、一方でそれは「憲法をつくる権力」と「憲法によってつくられる権限」を区別することによって、憲法を変えようとする権力をも制限しようとする立憲主義と結びつくことができます。ところが他方で、憲法を思うがままに作り変える万能の権力、という魔性の本能を発揮すると、一切のルールや手続をなぎ倒し、「いやこれは国民が決めたのだ」として、立憲主義を根こそぎ否定するために使われるからです。・・・


繰り返しますが、改憲草案は旧憲法への逆戻りだ、というとらえ方でよいか、それでは甘すぎるのではないか。明治憲法は、その本文各条に関する限り、基本的に19世紀ヨーロッパ・スタンダードに沿っています。・・・対照的に、改正草案は、見てきた通り【天賦人権を否定する基本理念の逆転、国防の役割を超える「国防軍」、打ち捨てられる「公共の福祉」等々】、20世紀後半に人類社会がたどりついた国際基準からあえて離れて「日本は日本は」という道に入ろうとしている。そこをきちんと見すえなければならないはずです。・・・」


(以上、引用終了)







冒頭でも述べたように、樋口さんの如き主張は、その価値の普遍性が証明も論証もされていない立憲主義や天賦人権から--しかも、彼等の特殊な「立憲主義」のイメージから--改憲のうねりを批判しているにすぎないのではないでしょうか。つまり、樋口流の憲法論などは、詐欺師の裁縫師の作った「裸の王様」の衣服なの、鴨。


尚、天賦人権論と立憲主義を巡る私の基本的な認識については
下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


いずれにせよ、現在ではヨーロッパの憲法典や憲法論の主流は、例えば、スイスの2000年の新憲法を紐解くまでもなく、憲法は国家権力を縛るだけでなく、国家権力と国民が協同関係にあるという憲法観に到達していると言える(cf. 『文藝春秋』2013年7月号所収「憲法改正大論争」pp.132-150、就中、pp.148-149の西修さんの指摘)。


ならば、樋口流の憲法論は、「個人の尊厳を核とした権利の普遍的な価値の受容と、そのような権利を保障するための立憲主義に貫かれた国家権力機構の創出、そして、国家権力の権力行使はそのような権利を保障するための立憲主義に則っている場合にのみ正当化される。なぜならば、そうとでも考えなければ国家権力や憲法の正当性を誰も説明できないからだ」といった、実は、かなりシャビ-な根拠しかもたない議論。


換言すれば、それは「立憲主義は普遍的だ、よって、立憲主義に貫かれている限り国家権力は正当性を持つ。なぜならば、立憲主義が確保しようとする権利の価値は普遍的なのだから、そして、権利価値の普遍性はそれが認められなければ国家権力の正当性が説明できないのだから自明である」という循環論法の基盤の上に建てられた砂上の楼閣、もしくは、空中楼閣にすぎないと思います。









蓋し、帝国主義のチャンピオンであった英米さえもが本格的な常備軍を保有していなかった19世紀半ばの「夜警国家」の時代とは異なり、--その後、一世紀程の帝国主義の時代、および、社会主義が跳梁跋扈した70年余の時代を経て--主要国が常備軍を抱え、他方、社会権的基本権が権利として認定される一方、その濃淡は別にして主要国がケインズ政策を採用する--主要な「資本主義国」の多くでそのGDP総体に占める公的財政支出の割合が優に60%を超えている!--「福祉国家」となった現在、立憲主義を専ら権力の制約原理として捉え、「立憲主義」の四文字で権力の不当な行使が制約可能と考えることは現実的ではないでしょう。


畢竟、立憲主義は権力の制約原理であると同時に権力の正当化原理でもある。加之、不当な権力行使の予防と救済の道は「立憲主義」の四文字を睨んでその是非を判定するが如き憲法研究者の名人芸によってではなく、司法を始め有権解釈者が憲法の具体的な権利規定から遂行論的に積み上げる解釈の蓄積しかないのではないでしょうか。


すなわち、現在では、権力制約原理の側面においてさえも、立憲主義は国家権力の規模の規制原理ではなく権力行使のガイドラインなのであり、就中、立法・行政の政治セクターに対して司法権が容喙できる範囲を判定するためのガイドラインにすぎない。いずれにせよ、立憲主義がそれだけでは権利の具体的な内容、もしくは、--三権分立という大雑把な分類を超える--国家権力機構間の権限の具体的な配分のあり方を導き出せない、抽象度の高いタイプの法理念であることは間違いない。と、そう私は考えます。閑話休題。






















立憲主義にアプリオリな価値を密輸する樋口流の議論は、他方、「立憲主義」と「憲法制定権力」、および、「フランス革命」についてのかなり根拠の怪しい理解によって編み上げられたもの、鴨。


(Ⅰ)立憲主義の特殊な理解
(Ⅱ)憲法制定権力の特殊な理解
(Ⅲ)フランス革命の特殊な理解



▼立憲主義
「立憲主義」にせよ「憲法制定権力」にせよ、あるいは、「フランス革命」にせよある言葉をどのような意味に用いるかはかなりの程度論者の自由に属することでしょう。而して、例えば、「立憲主義」の語義は大凡次の4個に分類できる、鴨。


(1)天賦人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張
(2)天賦人権を前提としない、しかし、一般の制定法を無効にする効力を帯びる
 なんらかの普遍的価値が憑依する「権利」と「上位の法」に沿った権力行使を要請する主張
(3)天賦人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、
かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みと権力行使の運用を要請する主張
(4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、
権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張


ならば、樋口流の立憲主義なるものは、論理的に同じ資格で成立可能な4個の中の(1)のみを「立憲主義」と恣意的に呼んでいるだけの杜撰で僭越な議論なの、鴨。そして、(1)のフランス流の立憲主義が「天賦人権論」または「社会契約論」というこれまた根拠薄弱のイデオロギーが神通力をまだ維持しているリベラル派の仲間内でのみ、他の三者--(2)英国流の、そして、現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える、「古典的立憲主義」もしくは「新しい保守の立憲主義」、あるいは、これまた、(3)現在の世界の憲法論の主流の一斑と言える謂わば「新しいリベラルの立憲主義」、更には、(4)旧ドイツ流の、つまり、旧憲法の「外見的立憲主義」--に対しての優位性を僭称できるもの、鴨。


畢竟、普遍的な価値を帯びる権利が存在すると考える「天賦人権論」は存在可能だけれども、そのような普遍的かつ具体的な内容を備えた「天賦人権」は存在しない。よって、「天賦人権」を前提にする(1)は破綻している。すなわち、樋口流の立憲主義は、リベラル派の仲間内だけで通用する謂わば夜間限定の<百鬼夜行>的な議論、鴨。もっとも、現在の日本ではそれは<夜>に限らず<百鬼昼行>の趣すらありますけれどもね。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。



▼憲法制定権力
樋口さんの記述、「国民の憲法制定権力がヌキ身で万能のままだと、革命勢力がせっかくつくり上げた法秩序が、万能の憲法制定権力によってまたひっくり返されてしまうでしょう。そこで出番が終わった国民の憲法制定権力は、勝手に動き出さないように封印・凍結されます」を目にして私は唖然としました。


畢竟、「最初に一度だけ神が宇宙を揺らし、その後、力学法則に従い宇宙は動いている」といった<ニュートン的宇宙観>でもあるまいに、「最初に一度だけ憲法制定権力が発動した結果、天賦人権が顕現して立憲主義が確立した。その後、憲法制定権力は封印・凍結され憲法改正権になった」という認識は極めて恣意的なものだろうから。


フランス革命時、確かに、シェイエスは「憲法制定権力論≒憲法制定権力の保有者は第三身分であるという主張」を唱えました。けれども、フランス革命なるものが憲法論において--まして、フランス以外の国の憲法論において--<神の最初にして最後の世界を揺らす一撃>であったとする根拠はどこにもない。


而して、少なくとも、カール・シュミットの如く、法理論の領域で、「憲法制定権力」を憲法改正の限界指標--すなわち、ある憲法典の変更が「現憲法の改正」なのか「新憲法の制定」なのかを説明する指標--と捉えることは誰からも毫も批判される筋合いのないことでしょう。





<続く>





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しばしば、「民主主義」という言葉はmagic wordと呼ばれます。つまり、北朝鮮の国名が「朝鮮民主主義人民共和国」であるというブラックジョークに端的なように、この言葉は、大凡、ありとあらゆる政治的な事象を正当化することが可能な、よって、内容空虚な言葉である、と。而して、「民主主義」を巡るこの経緯は、最近の日本では「立憲主義」や「法の支配」についても言えること、逆に、プラスイメージではなくマイナスイメージの貼り付けという点で180度異なるものの「ナショナリズム」や「右翼」についても言えること、鴨。


このような、「民主主義」「立憲主義」「法の支配」という言葉に憑依するイメージの拡散--言語の指示対象の膨張、すなわち、概念の外延の拡大--、逆に言えば、意味内容および概念の内包の希薄化について考えていたとき、正に、その傾向の好例を目にしました。些か、旧聞に属するものですが今年2014年1月3日の朝日新聞の社説。これです。



▽「1強政治」と憲法 「法の支配」を揺るがすな
安倍首相が最近よく使う言葉に、「法の支配」がある。中国の海洋進出を念頭に「力による現状変更ではなく、法の支配によって自由で繁栄していく海を守る」という具合だ。「法の支配」とは何か。米国の政治学者フランシス・フクヤマ氏は、近著「政治の起源」でこう説明している。


「政治権力者が、自分は法の拘束を受けていると感じるときにのみ、法の支配があるといえる」


この「法」は、立法府がつくった制定法とは違う。近代以前は、神のような権威によって定められたルールと考えられていた。法と制定法の違いは、現代でいえば憲法と普通の法律の違いにあたるという。


今年、安倍首相は「憲法9条改正」に挑もうとしている。ただし、憲法96条の改正手続きによってではない。解釈の変更によるのだという。最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える。これは「法の支配」に反するのではないか。・・・


(以上、引用終了)




この朝日新聞社説の「法の支配」理解のどこがおかしいのか。
それは以下の3点。すなわち、


(Ⅰ)有権解釈者がその権限の範囲内で「最高法規の根幹を、政府内の手続きにすぎない解釈によって変える」ことは毫も「法の支配」にも反するするものではない


(Ⅱ)フクヤマ氏が述べている通り、「政治権力者が、自分は法の拘束を受けていると感じるときにのみ、法の支配がある」、そして、「この「法」は、立法府がつくった制定法とは違う。近代以前は、神のような権威によって定められたルールと考えられていた。法と制定法の違いは、現代でいえば憲法と普通の法律の違いにあたる」ということは満更間違いではないとしても、しかし、ここで言われている「憲法」は必ずしも「憲法典」に限られるわけではなく、憲法慣習や憲法の事物の本性を包摂するより広汎な規範であること


(Ⅲ)安倍総理は、支那の強面の対外進出傾向や韓国の国際法を無視した対日批判を牽制すべく、国際政治における「法の支配」を掲げているのであって、ならば専ら国内法を念頭に置いた「法の支配」の理解からその用語使用の整合性を論じるのは適当ではない


いずれにせよ、朝日新聞のこの社説は、「法の支配」をmagic word的に用いた安倍総理批判のためにする議論であり、それは<騙し絵>的の詐術を弄した揚げ足取りにすぎない。と、そう私は考えます。
















ある言葉をどのような意味に用いるかはかなりの程度論者の自由に属すること。けれども、議論をより生産的かつ建設的にしようとするのならば、論者は、その使用する言葉を一般的に用いられている語義--その議論がある専門領域に属するのならば、その専門領域の専門家コミュニティーで普通に受け取られる語義--で用いるか、そうでない場合にはその都度自前の定義を施した上で用いる心配りが肝要ではないかと思います。


而して、「法の支配」とはどのような意味が憑依する言葉なのか。人口に膾炙しているように、中世以来の伝統を持つこの法理念に彫琢を施しある程度明確な輪郭を与えたのはDicey『イギリス憲法序説:Introduction to the study of the law of the constitution』(1885)であり、Diceyは次の3個の特徴的性質を抽出して「法の支配」、より正確に言えば<法の支配>が貫徹している英国法を称揚しました。すなわち、「正当な法」(regular law)をコモンロー裁判所およびエクイティー裁判所といった通常裁判が発見し適用してきた法規範の蓄積のこととすれば、


(ⅰ)人治すなわち専断的ではない正当な法の絶対的な優位性
(ⅱ)正当な法の前の平等、よって、行政裁判所の否定
(ⅲ)憲法もまた通常裁判所の判例の蓄積の結果形成されること



注意すべきは、Diceyは、英国以外の実定法秩序に「法の支配」が見いだされるなどとは露程も述べてはいないこと。よって、「正当な法」の意味内容に「通常裁判が発見し適用してきた法規範」という以上の内容を、例えば、「天賦人権」なりを、かつ、英米法の伝統を超えて読み取るのは「法の支配」の理念に対する過大なクレーム(要求)であり、贔屓の引き倒しの類の暴論であろうと思います。


ならば、少なくとも、(Ⅰ)有権解釈者がその権限の範囲内でする、例えば、占領憲法9条の「自衛権」の意味内容の変更の禁制などを「法の支配」から導くなどは--国会主権の原則(sovereignty of Parliament)が認められる英国ならずとも--不可能と言うべきでしょう。尚、「法の支配」の意味については下記拙稿もご参照いただければ嬉しいです。




・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60191772.html












私は、Diceyが抽出した「法の支配」の意味などは、それを英米法の伝統と制度から切り離すとき、カントが『永久平和のために:Zum Ewigen Frieden』(1795)の「国家間の永久平和のための確定条項」の第1確定条項で記した内容、すなわち、永久平和の実現のためには「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」、而して、その<共和的な憲法体制-国家体制>とは次のようなものであるとした内容と親しいのではないか。(一)と(ⅰ)、(二)と(ⅲ)、(三)と(ⅱ)は通底してるのではないか、と。そう考えないではありません。


一、社会の成員が自由であること
二、社会のすべての成員が、唯一にして共同的な立法に(臣民として)従属する
三、社会のすべての成員が(国民として)平等


「臣民が国民ではないような体制、つまり、共和的ではない体制においては、戦争はまったく慎重さを必要としない世間事であるが、それは元首が国家の成員ではなくて、国家の所有者であるからである」「共和的とは立法権と執行権の分離を国家原理とする体制であり、他方、専制的とは国家がみずから与えた法を専断的に執行することを国家原理とする、よって、公共的意志といっても、それは統治者の私的な意志にすぎない体制である」


ならば「民衆制は必然的に専制的にならざるを得ない。なぜならば、そこでは全員ではない全員が決議できるから。つまり、代表制ではないすべての統治形態は、元来奇形である。それは立法者が同一の人格において同時にかれの意志の執行者であることができるからである」、と。



而して、「法の支配」の意味を英米法の伝統から切り離すとき、現在ではその意味内容は「立憲主義」の意味内容--事前に制定された憲法に沿った国家権力機構の形成編成と国家権力の行使、および、国家権力によっても侵害されるべきではない一群の権利内容の存在の前提の主張--とかなりの程度重なっていると言える、鴨。そして、通常裁判所の機能を重視する元来の<法の支配>からも、また、現実的には、権利は憲法の具体的な権利条項の解釈の蓄積を通して具現されるべきだとするならば、「法の支配」という言葉には最早国内法的には特に大きな存在意義はないの、鴨。


畢竟、「立憲主義」によって国家権力からも社会の多数派の嫌悪からも守護されるべき権利の存在根拠として--天賦人権論そのもからではなく--、「比較不可能な価値」を担保する権利については誰も誰からも侵害されるべきではないこと、なぜならば、近代国家はそのような「私的領域に本籍を置く価値」を巡る紛争には容喙する権限は与えられていないからだとする長谷部恭男さんが、夙に、


「法の支配」とは「理性的な人々の行動を規制するために法が備えるべき性質」の一つであり、「国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようという理念」である(『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会)p.149;『憲法』(新世社)p.21)と述べていること。


具体的には、法に関して、①一般性・抽象性、②公示、③明確性、④安定性、⑤相互に無矛盾であること、⑥遡及の禁止、⑦国家機関が法に基づいて行動するように、独立の裁判所のコントロールが確立していることが「法の支配」の内容となり(長谷部ibid)、一言で言えば、「法の支配=適正手続(due process)」であると理解されているのは正しい指摘、鴨。


なるほど、この意味の「法の支配」はそれがなければ憲法が憲法として、法が法として機能しないという意味でそれは憲法および法の「事物の本性」から論理的に演繹される憲法原理と言えると思うから。ならば、朝日新聞の社説は、「法の支配」の理念を--端的には、フクヤマ氏が憲法典に限定していない「権力制約の限界と根拠」を--故意か過失か、意図的に占領憲法典に限定しており、他方、逆に、権利規定ではない統治行為規定にまで拡大する憲法論的誤謬を犯している


すなわち、(Ⅱ)「法の支配」に言う「法」は必ずしも「憲法典」に限られるわけではないこと--国家の安全保障の確保をも要請する「法」であること--が理解できていない、他方、「法の支配」も「立憲主義」も国家権力の制約根拠のみならず正当化根拠でもある一面を看過したものではないか。と、この社説を私はそう評価します。
















最後に、(Ⅲ)支那の海洋進出を念頭にした「力による現状変更ではなく、法の支配によって自由で繁栄していく海を守る」という安倍総理の発言は--例えば、実際、世界の20数カ国がそうしいているように、それが他国の領空を覆うものであるにせよ、単なる「防空識別圏」の設定は各国の自由でしょうが、その識別圏を飛行する他国の民間航空機に飛行計画書を提出させるなどの「領空」の一方的変更に等しい所行を平気で行うような--、支那や韓国の国際法を無視した対日策動を牽制すべく、国際政治にける「法の支配」を述べたもの。


ならば、専ら国内法を念頭に置いた「法の支配」の理解から、安倍総理のこの言葉の用法について整合性を論じるのは適当ではない。実際、安倍総理はこう述べておられるのですからね。


ASEANと日本を包摂するこの地域の平和と安定を維持する上で、総体としてのASEANにとって、自由、民主主義および人権、ならびに、法の支配といった死活的に重要かつ基本的な諸価値を確保し深化することが極めて重要であることは言うまでもありますまい。
(安倍首相、アジアについて語る「ASEANと日本の将来像」,
 The Japan News, Dec., 13, 2013)



ならば、国際法と確立された国際政治の慣習を遵守することを指して「法の支配」と呼んでいる安倍総理の地球儀俯瞰的外交戦略を曲解した上で、集団的自衛権の解釈変更と支那や韓国を批判することを「法の支配」に関する矛盾と捉える朝日新聞の理解は姑息かつ杜撰な批判ではなかろうか。と、そう私は考えます。


















福岡県JR大牟田駅前の2014年1月3日早朝の風景





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◆司法審査-司法の事物の本性-
毎日新聞の記事は判決理由と傍論の認識が逆立ちした杜撰な憲法判例紹介。私はそう考えます。そして、その倒錯した認識の更に基底には--直接には「司法審査」の理解不足が、でしょうけれど--「司法のために憲法があるのではなく、憲法のために司法がある」こと、あるいは、「憲法のために国家があるのではなく、国家のために憲法がある」という単純明快で赤裸々な現実に関する無知が横たわっているの、鴨です。つまり、司法の万能感、憲法の万能感、ひいては、人間と権力の万能感に親しいリベラルの教条と傲岸がその倒錯の遠因なの、鴨と。


蓋し、例えば、立法に与えられる合憲性の推定の度合いが紛争事案のカテゴリーによって--(a)民主的な政治プロセスを立法が阻害する場合、および、(b)「切り離され、孤立した少数者」(discrete and insular minorities)の権利を立法が阻害している場合、ならびに、(c)立法が文面上(on its face)明らかにアメリカ連邦憲法の権利規定(修正1条乃至10条)に反する場合には--異なりうることを示唆したUnited States v. Carolene Products Co.(1938)の有名な脚注4の如き、人間存在と司法権の有限性を自覚した、すなわち、憲法訴訟の司法審査基準を丁寧に権利類型および紛争類型毎にカテゴリー分けした上で主張された大人の穏当な司法積極主義的の主張と比べるとき、--最大級の合憲性が推定される信教の自由の案件に関しても、十把一絡げ的に積極的な司法判断を求める--毎日新聞の倒錯は、お子様が「抜き身の日本刀」を振り回す司法贔屓の戯れ言に近い、鴨。


この倒錯の特効薬でもある、立憲主義を守護する叡智としての「司法権の自己抑制」というアイデアについては下記拙稿をご参照いただくとして、本稿では以下、(Ⅱ)首相の靖国神社参拝が占領憲法の司法審査権限の<射程外>にあることの経緯を敷衍します。


尚、United States v. Carolene Products Co.(1938)の脚注4は法廷意見(opinion of the court)の脚注であり、ある意味、日本の下級審の蛇足型傍論に近いもの。けれども、ホームズ裁判官の反対意見について述べたように、後に所謂「二重の基準論」の源流となったストーン裁判官の手になるこの脚注は、Carolene判決の段階では法的ルールを照射したものとは言えず、脚注の示唆が「二重の基準論」という憲法解釈ルールに昇華するのは--よって、その「二重の基準論」を苗床にして、各権利規定毎に「明白性の原則」なり「明白かつ現在の危険のルール」、あるいは、「より制限的でない他の選びうる手段のルール」等々の憲法訴訟の合憲性判定基準のアイデアが百花繚乱・千紫万紅、アメリカ連邦憲法を巡る司法審査の花園に咲き乱れるのは--後の数多の連邦最高裁判決が判決理由でこのルールを採用したからなのです。つまり、傍論はその傍論が書かれた段階では法的にはインクの紙魚にすぎない経緯はCarolene判決の脚注4についても毫も変わらないということです。


・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62198131.html


・NHKの「政治的中立」と首相の人事権(上)(下)
(特に、(下)で本稿と関連する考察を展開しています)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62207787.html
















司法審査(judicial review)は、文字通り「司法」の機能です。ならば、それは、--法たる慣習(legal custom)および事実たる慣習(conventional custom)、あるいは、慣行(practice)を含む--事前に裁判所たる裁判官に与えられたルールを、あるいは、事前に裁判官に与えられた「ルールを創造するためのルール」を具体的な個別の紛争事案に適用してその事案を法的に、その事案に関しては最終的に解決する国家権力の機能と言えましょう。司法審査に関して法宣命説的な理解(outlook on declaratory theory)を取るにせよ、法創造説的な理解(outlook on creative theory)を取るにせよ、司法審査はこう理解できるのではありますまいか。


畢竟、これら、①ルールの事前性、②紛争の現実性と現在性、③事案の個別具体性、④紛争事案の法的解決可能性は、--そこから、アメリカの司法審査においては、例えば、訴えの利益が事後的に消滅した場合の司法判断適合性(justiciability)を否定するルールである「ムートネスの法理」(mootness doctrine)、あるいは、紛争が具体性と現実性を欠く場合に司法判断適合性(justiciability)を否定するルールである「ライプネスの法理」(ripeness doctrine)が派生するのですけれども--司法審査の及ぶ範囲に関してアメリカ合衆国憲法3条2節1項に散りばめられた「事件性および争訟性」(cases and controversies)の要件と--あるいは、例えば、Muskrat v. United States(1911)が示唆したものと--通底しているのでしょう。けれども、畢竟、それは「司法の事物の本性」から導き出されるもの。要は、誰も否定できない事柄ではないでしょうか。


而して、私人としての首相の靖国神社参拝は、①の事前のルールたる占領憲法における「信教の自由の保障」の観点から最大限の保護を受けることは当然として、土台、首相の靖国神社参拝を巡る紛争には、②現実性・現在性も、よって、③個別具体性と④法的解決可能性も欠いているのではないか。逆に言えば、原告側には、元来、訴えの利益、原告適格(standing)が存在していない。ならば、それは、司法判断適合性を欠く、合憲・違憲を判定する司法審査の対象外の出来事であろうと私は考えます。



蛇足ながら申し添えておけば、この①~④がゆえに、現実の紛争解決とは無関係に裁判所がある社会的や制度的な問題に関して法的な意見を披露する「勧告的意見」(advisory opinion)は、原則、英米では認められず、他方、具体的な権利侵害が存在しない段階で原告の訴えに基づき権利関係もしくは法的地位の確認を裁判所が認定する「宣言的判決」(declaratory judgement)もまたアメリカでは、--例えば、Nashville, C. & St. L. Ry. v. Wallace(1933)およびAetna Life Insurance Co. v. Haworth(1937)、逆に、Calderon V. Ashmus(1998)が示唆しているように--その事案がこれら①~④を大凡満たしている場合に限り正当な司法審査と看做され認められるのです。


この点で注意すべきは、日本の行政訴訟では、原告の個人的な利益の保護を目的とはしない民衆訴訟(行政事件訴訟法5条)等の所謂「客観訴訟」が、あくまでも、それを認めないよりも認めた方が明らかに公益が増進する場合に、かつ、その法律に沿って訴訟が提起される当該の法律にその訴訟類型を許容する規定がある場合に限られる(行政事件訴訟法42条)にせよ認められていること。蓋し、これは①~④の例外中の例外と考えるか、あるいは、司法裁判所が単に偶さか行政裁判所の機能を果たしているものと考えるか、もしくは、その両方と看做すべき事象であろうと思います。閑話休題。




首相の靖国神社参拝は司法審査権限の<射程外>にある。なぜならば、それは「事件性および争訟性」の要件を欠いているから。


ならば、2006年6月の最高裁判決が憲法判断を示すことなく「参拝で原告の法律上の権利や利益が侵害されたとは認められない」と述べたことは至極妥当な判断であった。白黒はっきり言えば、「首相の靖国神社参拝」に関して、--それが出れば少なくない保守派の同志の中には大喜びをした向きも少なくはなかったと想像しますけれども--この最高裁判決は合憲判決よりも筋のよい判決であったし、それは日本の憲法訴訟をより正常化する可能性を秘めている点で、中長期的に見れば我々保守派にとって筋悪の合憲判決よりも遥かに有利な判決であった。と、私はそう考えます。


逆に言えば、原告が当事者としての適格性を欠いている、よって、司法判断適合性を欠く出来事を門前払い的に処理した最高裁に対して「憲法判断は示さず」とわざわざ明記した毎日新聞の司法審査理解はやはり倒錯していると言うほかない。そして、この毎日新聞の記者の倒錯は単に「首相の靖国神社参拝」や「司法審査」の理解のみならず「立憲主義」の理解にも及ぶ病膏肓に入った倒錯なの、鴨。



繰り返しになりますけれども、社会の諸問題を政治的と一般的に、かつ、将来に向けて可能な限り解決するのではなく、社会に生起した具体的な紛争案件を法的に、かつ、現時点で最終的に解決することが「司法の事物の本性」である。よって、司法は、(1)「AKB48の新旧のメンバーの中で誰が一番可愛いか」などという問いには--「多数決は美的判断や科学的真理の判断には適用されない」という経緯とは別に--白雪姫の継母の王妃の<鏡>のようには正確な判断ができないだけでなく、(2)政治的問題(political question)--日本では「統治行為」と呼ばれる、例えば、「自衛隊が憲法9条に違反するかどうか」を巡る問題--についても司法は沈黙せねばならない。同様に、(3)司法は原告適格を欠く原告の訴えについては本来一切の司法審査をすべきではないのです。


この三者、すなわち、(1)~(3)を巡る司法の限界は、各々、司法が解決できない紛争、司法が解決すべきではない紛争、そして、司法審査を通して解決されるべきではない紛争の事例であり、それらはいずれも「司法の事物の本性」から導かれる司法権の限界という点では通底している、鴨。


すなわち、(1)は、法的解決可能性の欠如--更には、「比較不可能な価値」に関しては法は容喙すべきではないという立憲主義の基底--から演繹される司法の原理的限界であり、(2)は「政治セクターが専ら判断すべき領域」に関して司法は沈黙すべきだという、--そうでなければ、より民主主義的な手続を通して構成された立法府および行政府の判断をなぜ、非民主的な手続を通して選抜されたテクノクラートが構成する司法府が違憲無効にできるのかというディレンマに陥ることになる--これまた、立憲主義、ならびに、立憲主義のパーツである司法審査制の権威を、司法に対する贔屓の引き倒し的な過大なクレーム(要求)から守るための司法の内在的限界。そして、(3)は--前節で述べた「傍論と判決理由の同一視の弊害」、謂わば「傍論の暴論化の弊害」と同様--、「司法の機能と立法の機能の境界が曖昧になる」ことが惹起させかねない、司法の権威の崩壊、ひいては、三権分立の原則の融解を防ぐための司法の制度的限界であろう。と、そう私は考えます。


畢竟、この毎日新聞の記事には<司法>に対する無知蒙昧が炸裂している。それは、三権分立原則とも立憲主義とも民主主義とも矛盾対立するリベラル派の傲岸不遜の憲法論と言うべきでしょうか。


いずれにせよ、「首相靖国参拝:合憲の司法判断なし」という毎日新聞の主張などは、単に「幕下力士で幕の内最高優勝をした力士は存在しない」と述べる類の主張にすぎないことはだけは明らかであろうと思います。毎日新聞の記者にとって憲法論など「ネコに風船」くらいのもの、鴨とも。



尚、「立憲主義」を巡る私の基本的理解については

下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。


・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61686136.html


























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些か、旧聞に属しますが毎日新聞のある記事を俎上に載せたいと思います。

それは憲法の「政教分離」原則と「首相の靖国神社参拝」の関わりを論じたもの。

これです。


▽首相靖国参拝:「小泉参拝」は違憲判決・・・過去の司法判断
首相による靖国神社参拝は、国家による宗教的活動を禁じた憲法の「政教分離」原則に違反するとの指摘がある。戦没者遺族らが参拝で精神的苦痛を受けたとして国や首相に損害賠償などを求めた訴訟では、地裁や高裁で「違憲」判断が示されたケースもあり、今回の安倍首相の参拝に対しても提訴を検討しているグループがある。


1985年8月に中曽根康弘首相(当時)が参拝した際には、遺族らが各地で提訴した。賠償請求は棄却されたものの92年2月に福岡高裁が、同7月には大阪高裁が「違憲の疑いがある」と言及した。遺族側は上告せず、判決は確定した。


2001年8月の小泉純一郎首相(同)の参拝でも04年4月に福岡地裁が、05年9月には大阪高裁が「違憲」と断じ、いずれも確定した。最高裁は06年6月、歴代首相の靖国参拝を巡る初の判決を言い渡したが、憲法判断は示さず「参拝で原告の法律上の権利や利益が侵害されたとは認められない」と遺族側の請求を退けている。


小泉氏の参拝で国を訴えた原告団事務局長で僧侶の菱木政晴さん(63)は「参拝が合憲とされた例は一つもないのに首相が参拝に踏み切ったことに強い怒りを覚える。準備が整えば提訴したい」と語った。【川名壮志】


(毎日新聞・2013年12月27日00時48分(最終更新12月27日02時02分)


実は、この記事タイトルはちょうど帰省中の福岡県大牟田市で配達された朝刊では「合憲の司法判断なし」となっていて、つまり、最終更新までの1時間14分の間にこう変わったらしい代物。でもね、この変更、気持ちはわかるけど(笑)、憲法論的には「焼け石に水」もしくは「頭隠して尻隠さず」の類の悪足掻きじゃないかい、鴨です。


首相靖国参拝:合憲の司法判断なし
 ↓  ↓    ↓  ↓
首相靖国参拝:「小泉参拝」は違憲判決・・・過去の司法判断



なぜそう言えるのか。蓋し、(Ⅰ)「合憲の司法判断」は確かにないのだけれど、逆に言えば、「違憲の司法判断」も存在しないということ。より重要なことは、(Ⅱ)「合憲の司法判断」が存在しないということは--「首相の靖国神社参拝」は憲法的には<灰色>のかなりいかがわしいものであり、よって、首相には憲法尊重義務(占領憲法99条)が課せられていることを鑑み、かつ、憲法の精神を尊重しようとするのならば、首相は政治外交的配慮からのみならず憲法論的にも靖国神社には参拝すべきではない、などの憲法論の用語を散りばめた反日リベラルの戯言的の帰結とは真逆に--、「首相の靖国神社参拝」は合憲・違憲の司法審査自体が容喙できない類の事象であり、よって、首相にも信教の自由(占領憲法20条1項)が認められないはずはないことを鑑みれば、首相が政治外交的熟慮を踏まえた上で靖国神社に参拝することは憲法論的には毫も否定されることではないこと。


この2点を毎日新聞の記事は理解できていないのだと思います。本稿の結論を先取りして、比喩を用いて(Ⅰ)(Ⅱ)を敷衍しておけば次の通り。ちなみに、(零)が毎日新聞の論理、而して、「合憲の司法判断」が存在しないことは、実は、(零)ではなく、単に(壱)(弐)の事柄にすぎないことを指摘するのが本稿の考察です。


(零)女性棋士は女流ではないプロ棋士の順位戦で1勝もしたことはない
(壱)大相撲で女性力士は今まで1勝もしていない、逆に、1敗もしていないけれど
(弐)幕下力士で幕の内最高優勝をした力士は存在しない


б(≧◇≦)ノ ・・・プロ棋士まで、四段までもう一息だ!
б(≧◇≦)ノ ・・・頑張れ! 出雲の稲妻、里見香奈三段!



この比喩によって、実は、この(Ⅰ)(Ⅱ)の両者が論理的には、首相の靖国神社参拝が占領憲法においてもなんら問題のないことを帰結する上での--繰り返しになりますが、より、厳密に言えば、首相の靖国神社参拝は占領憲法においても司法審査権限の<射程外>の事柄であることを帰結する上での--(Ⅰ)十分条件と(Ⅱ)必要条件の関係にあることが了解いただける、鴨。畢竟、毎日新聞の記者にとって憲法論など「猫に小判」とまでは言わないけれど「ネコに風船」くらいのものではある、鴨とも。


(十分条件)前田敦子さんはチームAに所属していた
(必要条件)チームAはAKB48を構成するチームの一つである
(帰結論証)前田敦子さんはAKB48の卒業生である

(十分条件)首相の靖国神社参拝に関しては合憲判決は--違憲判決も--ない
(必要条件)首相の靖国神社参拝は司法審査権限の<射程外>の事象である
(帰結論証)首相の靖国神社参拝は占領憲法においてもなんら問題はない


毎日新聞の記事中の表現、「国家による宗教的活動を禁じた」という「政教分離」原則に関する理解は間違いです。なぜならば、同原則とは、(α)国教樹立の禁止、および、宗教・宗派に関わらず<教会組織>と国家権力の分離を中核的内容とする、(β)社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超える、かつ、その超えることに「目的・効果・過度の関わり合い」が認められるような国家権力の行為は許されないという原則にすぎないから。しかし、「政教分離」自体については下記拙稿をご参照いただくとして、本稿は上記(Ⅰ)(Ⅱ)について些か詳しく検討したいと思います。


・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/62105204.html


・首相の靖国神社参拝を巡る憲法解釈論と憲法基礎論(1)~(5)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144005619.html


・憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒
 ☆「忠誠の誓い」合憲判決-リベラル派の妄想に常識の鉄槌(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/61669703.html



















◆合憲判決-判決理由と傍論-
私の主張、(Ⅰ)「「合憲の司法判断」は存在しない、逆に言えば、「違憲の司法判断」も存在しない」という主張を一読された方の中にはそれこそ、毎日新聞の記事にも「1985年8月に中曽根康弘首相(当時)が参拝した際には、92年2月に福岡高裁が、同7月には大阪高裁が「違憲の疑いがある」と言及した。判決は確定した。2001年8月の小泉純一郎首相(同)の参拝でも04年4月に福岡地裁が、05年9月には大阪高裁が「違憲」と断じ、いずれも確定した」と書かれているんですけどぉー、と思われた向きもあるかもしれません。


けれど、これら4件の判決はすべて原告敗訴、参拝した首相側の勝訴の判断が下されたもの。畢竟、判決の主文を導き出す「判決理由」に影響しない「傍論」でいかに「違憲の疑いがある」と言及しようが「違憲」と断じようがそれは、法的には判決文のインクの紙魚、もしくは、判決文に混入したアジビラにすぎないのです。


畢竟、--確かに、漸次それが緩やかになってきているとはいえ、厳格な「先例拘束性の原理」(doctrine of stare decisis)が支配する英米法と、必ずしもそうではない日本の法(民事訴訟法312条、但し、刑事訴訟法405条2号及び3号)とは異なるにせよ--ある判決で将来の判決にとっての<先例>となりうるのは、よって、ある判決の中で法的ルールとなりうるのは独り判決の主文を導き出す「判決理由」(ratio decidendi)だけであり、判決文のそれ以外の部分は「傍論」(obiter dictum)であり、それは先例でもなく法的ルールでもない単なるインクの紙魚にすぎないと言うべきなのです。


そうでなければ、--社会の諸問題を政治的かつ一般的に将来に向けて解決するのではなく--社会に生起した具体的な紛争案件を法的に事後的に解決することが「司法の事物の本性」であることを鑑みるとき、傍論に法的権威を認めることは司法に立法および行政の権限も一部委ねるがごとき事態になりかねないでしょう。


そうでなければ、例えば、民事訴訟における判決の既判力--ある判決が解決する紛争案件の輪郭を曖昧にすることになり、逆に、確定判決の帯びる社会的権威と効果--の法的根拠自体が崩壊するだろうし、他方、訴因--検察官が起訴状に記した犯罪行為の内容--を訴訟対象とする現行のより当事者主義的な刑事訴訟の構造に反して、「神のみぞ知る犯罪事件の真実」なるものと地続きの公訴事実を--現行の訴訟対象論では、二重の危険の防波堤であり、かつ、訴因変更の限界確定のための道具的概念にすぎない公訴事実を--甦らせてより職権主義的な旧刑事訴訟法下の訴訟構造を復活させる事態にもなりかねない。


大袈裟ではなく、傍論を根拠に首相の靖国神社参拝の「違憲判決」なるものを認める議論は、三権分立の原則に反する、かつ、司法の権威を掘り崩しかねない暴論。傍論の暴論化の主張である。と、私はそう考えます。



この点に関しては、しばしば、アメリカの司法審査においても「偉大なる反対者」(Great Dissenter)と称賛されるホームズ裁判官(連邦最高裁裁判官在任:1902-1932)の如く--判決の主文を導き出したのではない点では「傍論」とパラレルな「反対意見」を数多書いたのだけれども--後にその「反対意見」の線で連邦最高裁の少なくない憲法解釈が変更された例があるではないかとかの反論が寄せらる。


しかし、


(ⅰ)連邦最高裁のみならずすべからくアメリカの判決には、制度上かつ慣習上、判決の主文を導き出す法廷意見(opinion of the court)の他に、法廷意見が導き出した判決の主文とは異なる結論や異なる理路を提示する反対意見(dissenting opinion)も記載されることになっているのに対して、日本では、最高裁の判決を除きそのようなことは許されないこと(裁判所法75条1項及び2項、同11条)、つまり、日本の下級審の傍論は法廷意見が導き出した判決の主文とは無関係な内容を法廷の多数派自身が恣意的かつ趣味的、あるいは、政治的に展開したものにすぎないこと。


加之、(ⅱ)社会学的あるいは憲法解釈史的に見れば、ホームズの偉大なる反対意見はその死後5年を待たずして連邦最高裁の憲法解釈を席捲したことは事実。けれども、逆に言えば、契約自由の原則の制限や所有権の制約、あるいは、州に対する連邦権限の蚕食拡大という「近代法から現代法」へ転換する方向で連邦最高裁がその憲法解釈を変更するまでは偉大なるホームズ裁判官の反対意見と雖も法的には膨大な単なるインクの紙魚にすぎなかったこと。



これらを想起すれば、社会学的あるいは憲法解釈史的に見ても最高裁の司法審査に毫も影響を与えなかった、92年2月の福岡高裁、同7月の大阪高裁、04年4月の福岡地裁、そして、05年9月の大阪高裁の判決の傍論はインクの紙魚である。また、それが原告敗訴の判決であり、現行法上「訴えの利益」が認められず、その傍論の荒唐無稽さを上級審、就中、最高裁で被告の首相側が争う道を閉ざす姑息な判決なのだから、それらの傍論の<インクの紙魚>の度合いや<アジビラの混入>の度合いは、最早、立法による傍論制約が必要な域に達しているの、鴨。


いずれにせよ、少なくとも、首相の靖国神社参拝に関して「合憲の司法判断」は確かに存在しないけれど、逆に言えば、「違憲の司法判断」も存在していないということは間違いないだろう。而して、毎日新聞の記事は、判決理由と傍論の逆立ちした認識の上に立って書かれた憲法判例紹介である。と、そう私は考えます。
















<続く>





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