下記は月刊『正論』7月号に載った教育問題に関する小論である。編集部が付けた題は、「経験者が語る 偏向教科書を生む『教科書調査官』という人々」だが、私が旧同僚を批判しているとの誤解を生むと困るので、ここではごく普通のタイトルに変えた。
『正論』 2012年7月号
偏向教科書が生まれる過程―教科書調査官を務めた経験から
島田洋一(福井県立大学教授、国家基本問題研究所企画委員)
教科書調査官の「選考基準」
私は昭和63(1988)年4月から平成4(1992)年3月まで4年間、文科省(当時文部省)教科書調査官を務めた。年齢的には、30才から34才の時期で、社会科の公民政治分野が担当だった。
就任に至る経緯を簡単に記しておこう。大学院修了後に3年任期で採用された京都大学法学部助手の最終年度、学部のゼミ以来の指導教官高坂正堯教授から、文科省に教科書調査官としてしばらく行かないかと打診を受けた。
先に調査官を務めていた大学院の先輩が、私立大学教員に転ずる運びとなり、後任の推薦も文科省から頼まれたとのことだった。当時高坂教授は中央教育審議会委員の一人だった。教科書調査官に空きが出ると、各種審議会委員の然るべき人に推薦を依頼するというのが、その頃の文科省における人事慣行だったようだ。
私は二つ返事で引き受けた。先輩から、大学勤務以上に拘束時間が少なくじっくり本が読めると聞いていたし、「政治の現場が分かり、いい経験になる」という高坂教授の言葉にも素直に頷けた。自分の見識で教科書を多少なりとも良いものに、という客気ないし使命感もあった。
公民担当の主任教科書調査官に論文の抜刷を送ってしばらく後、一度文科省に来てくれと連絡があり、高坂教授からも同席するとの連絡を受けた。当日、文科省玄関で落ち合った教授が私を「紹介」する形で、主任教科書調査官ともども、教科書課長、審議官、初等中等教育局長のもとを順に回り、それが面接と言えば面接だったが、特に滞りもなくすんなり採用が決まった。
現在、文科省が定める教科書調査官の「選考基準」(平成21年4月3日初等中等教育局長決定)は、「大学の教授又は准教授の経歴がある者又はこれらに準ずる高度に専門的な学識及び経験を有すると認められる者」と、かつての「大学若しくは高等専門学校…において教授若しくは助教授の経歴がある者又は…」よりややハードルが上がっている。助手の経歴のみだった私は、今なら門前払いかも知れない。若手からも広く人材を集めるには、「これらに準ずる」をできるだけ柔軟に解釈する必要があるのではないか。
政治、経済、近代史といった分野では、制度に通じたベテラン調査官も欠かせないが、同時に、保守的理念の明確な30代前半ぐらいの人を、5年程度で研究職に斡旋する含みでローテーション的に採用するようなメカニズムも必要だと思う。
「前回と同じ記述だから…」
3月27日、文科省が高校教科書の検定結果を発表した。その中で、中学教科書では一定の改善が進んだ「慰安婦」「北朝鮮」などで、歪んだ記述が堂々と残っていることが問題になった。一例を挙げておこう。
帝国書院の「地理B」で、朝鮮戦争について、「1950年に両者の対立が激化し、韓国をアメリカ合衆国が、北朝鮮を中国が支援した朝鮮戦争が勃発し」とした記述が、検定意見が付かないまま通っている。北の武力侵攻という事実を意識的にぼかしたとんでもない文章である。
山川出版社の「日本史A」では、「北朝鮮に核兵器を放棄させる6カ国協議(米・日・中・ロ・韓国・北朝鮮)が難航する一方、日朝間では日本人拉致問題が障害となって政治的交渉は頓挫している」という記述が、やはり検定意見が付かずに通っている。北が拉致問題で虚偽に虚偽を重ね、「再調査」約束を反故にし、被害者を拘束し続けていることが「頓挫」の理由である本質がまったく読み取れない実に意識の低い文章である。
東京書籍の「日本史A」では、「日本の植民地や占領地では、朝鮮人や中国人・フィリピン人・ベトナム人・オランダ人など、多数の女性が『慰安婦』にかりだされた」という記述が、検定意見が付かず合格している。
こうした明らかにおかしな記述がなぜ検定を通るのか。内部にいた経験からいくつか感想を記しておこう。
私が教科書調査官を務めた1988年からの4年間は非常に恵まれた時期だった。日々、ソ連圏の崩壊が大々的に報道され、そのため、中学「公民」や高校「現代社会」「政治経済」の申請本にある、社会主義国を理想視したような記述には、軒並み検定意見を付けた。当時、教科書の執筆者の5割は極左、4割5分は左翼シンパだったろうが、以前なら「裁判になりますよ」と凄んだはずの連中も、明白過ぎる現実を前にしては、目に怨念を湛えつつ、ある程度の修正はやむなしと半ばあきらめの風情だった。
教科書検定プロセスの初期に、理科、社会などの教科ごとに、直接の担当を越えて調査官がすべての新規申請本(いわゆる白表紙本)に目を通す「回し読み」という手続きがある。調査官室の一角に棚が置かれ、社会科なら地理、日本史、世界史、政治経済などすべての白表紙本が並べられ、各調査官が時間のあるときに適宜自席に持っていき、気付いた点を付箋に書いて貼り付けていく。私も、近現代史関係の記述を中心に、積極的に付箋を貼っていった。
もっとも、どの指摘を検定意見として採用するかは、基本的に当該教科書を担当する調査官の裁量となる(ただし、科目ごとの会議、すなわち日本史調査官会議、政治経済調査官会議などの場で、その判断の適否をめぐり議論ないし調整は行われる)。そのため、例えば朝鮮戦争に関するほぼ同じ記述について、政治経済では検定意見が付き、歴史では付かないといったことが往々にして起こった。
社会科の全体会議の場で、そのギャップを指摘すると、よく返ってきた答がこうだった。「歴史では、前回も付けていないので」。
白表紙本においても必ずしも全面的に書き直すわけではない。特に歴史の場合、旧版の記述が通常はかなり残る。つまり、「指摘は分かるが、前回検定意見を付けなかったので今回付けると整合性が取れない」というわけだ。政治経済では「状況が変わった」を理由に、既往にとらわれず検定意見を付けたが、歴史担当の調査官の間では、消極的な姿勢が目立ったように思う。
消極検定に陥りやすい高校教科書
そこには構造的な理由がある。同じ科目の調査官の中に、一人強く消極的な人がいて、その主張が通りがちになると、検定は低い水準で横並びにならざるを得ない。A社の同じ記述は通っているのに、なぜうちはダメなのかという教科書会社のクレームに応えられないからだ。
一般に、学会での立場を気にするタイプの人は、教科書調査官に向いていないと思う。学会フロアで年に数回顔を合わせる「同僚学者」やその弟子たちが書いた記述に意見を付けることをひどくためらうからだ。こうした、間違って調査官になったような人は、できるだけ早く、文科省が人事権を握る大学、研究機関ないし省内の別のポジション(私の時代で言えば、いくつかの国立教育大学や特定の私立大学、「教育課程の基準設定に関する調査」などに当たる一字違いの教科調査官などがそれに当たった)に移ってもらうべきだと思う。当人もその方が特性を活かせるだろう。
今回問題になった高校教科書の場合は、とりわけ検定について消極意見が通りやすい。小中学校は、義務教育であり、児童生徒の発達段階に照らしても、教科書は当然検定の対象になる。そのことに、文科省職員で異論のある人はまずいないだろう。
一方、大学の教員が講義で使う「教科書」は各自が自由に決められる。文科省の検定が入る余地はない。この点も誰も異論はないだろう。ではその中間、義務教育ではなく、心身ともにかなり発達はしているが、まだ児童福祉法上の「児童」(18才未満)に当たる高校生向けの教科書はどうなのか。
文科省内でも、消極検定派ほど、高校教科書は検定の対象外でよいとの考えに傾いていたように思う。そもそも検定の必要がないと考えているわけだから、検定内容が甘くなるのも当然だ。
最後に検定審議会委員の役割について触れておこう。先に挙げた帝国、山川、東書などの記述は、仮に調査官が「検定意見なし」と起案しても、審議会委員が意見を付けるよう強く主張すべきだった。それがなかったのは、審議会委員の人選に問題があるということだ。
審議会の席上で一度主張したくらいでは聞き流されて終わりになる。部会でも全体会議でも執拗に主張し、首尾よく検定意見となった後も、執拗に「直し具合」をチェックせねばならない。それを厭わぬ保守派の論客が数人審議会に入るなら、事態は改善されるだろう。論客とは、特に、文科省内消極派が繰り出す「前回と同じ記述だから」という切り札的言い訳を、「状況が変わった」その他の切り返しで論破できるという意味である。
かつて、検定審委員で外務省OBの野田英二郎が、中国共産党の意向を汲んで、扶桑社の中学歴史教科書を不合格とすべく執拗に動いたことがあった。外務官僚時代に叩頭外交で中国を増長させ、教科書にまで介入を招いた責任を自覚するどころか、今度は検定審委員として、「近隣諸国条項」を盾に教科書記述の方を叩頭外交に合わせようとした。言語道断の行為だが、しかしあの粘着力は保守派においても大いに学ぶ必要がある。
なお、検定体制をいくら改善しても、悪い教科書をよい教科書に変えることはできない。書き直すのはあくまで、元の執筆者だからだ。
福島“現実を”みずほの声明文を、検定でよい文章に変えられるだろうか。せいぜい悪さ加減が小さくなるだけだ。やはり子供たちによい教科書を届けるためには、よい執筆者が書いたよい教科書の採択を拡げる以外にない。
このビルの3階フロアが国家基本問題研究所の新オフィス。
会議室も随分広くなった。
ビル玄関脇の案内パネル