やはぎ、と申します。
いつも楽しくホームページを拝見させて頂いております。
少しだけ気になる部分があったので、コメントをさせていただきます。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/japan/jpn111.htmlについてです。
(憲法改正に限界があるかについても教えてください )私はそうは思いません。「こんな質問が存在すること自体が、日本人の憲法観がいかに歪んでいるかを示 すものと言えるでしょう。 」
その前にまず私の考える憲法観を説明する必要があります。
まず憲法は大きく二つに分けると人権に関する規定と、統治に関する規定の二つに分けて考えることが出来ます。(佐倉さんのおっしゃる民権と人権の違いはとりあえず置いておいてください。区別は理解しているつもりです。)
我が憲法の中核をなす価値観は13条に定める個人の尊重であります。そして、個人の尊重という価値観の憲法上の具体化として、人権規範、統治機構があると考えます。前者を憲法の目的、後者をその目的達成の為の手段と解します。
憲法改正の限界を論ずることが、歪んだ憲法観を持つ表れだとする、佐倉さんの主張についてコメントを差し上げたいと思います。
もっとも、憲法を含めてあらゆる法律はその時代、その場所での価値観の現われであるとの立場からは、無限界と解することも可能であります。
憲法改正の限界の論点は、我が国の憲法学会でも説が分かれます。大きく分けると、限界説(限界があるという説)、無限界説(限界がないという説)があります。いわゆる通説は限界説であります。限界説の理論的根拠は以下の二つに大別されます。(他にも学説あるかもしれませんが知らないのでご容赦)
1 法実証主義的限界説ではどのような限界があるかというと、いずれの説にたったとしても主張されるのが、憲法の基本原理たる国民主権主義、基本的人権尊重主義、平和主義を覆すことは出来ないとされています。つまり我が憲法の究極の価値観である個人の尊重を担保する諸制度や、その直接的な規定は改正できないとされているのです。(自然法から説明する立場はやや説明が違います。)憲法制定権力と改正権は峻別され、改正権は自己の根拠となるところの憲法制定権力の根本的決断としての「憲法」を改変する能力を持たない。
2 自然法論的限界説
実体憲法には自然法が上位し、憲法を含めての全実体法の効力の有無は自然法への適合不適合によって決せられるとし、改正規定による憲法改正の授権も自然法上の制約がある。
もっとも、ここに言う平和主義とは9条を直接的にさすものではないと私は考えます。なぜならば、国際平和達成の為の軍事力、軍事活動というものも観念しうるからです。
さて、佐倉さんはこの憲法の中核をなす個人の尊重を担保する、国民主権主義、基本的人権尊重主義、平和主義も変更することが可能であると考えるのか、あるいは更に、その価値観の前提となる個人の尊重をも変えることが可能であると考えるのでしょうか?
「憲法のために人間がいるのではなく、人間のために憲法があるのです。」もちろん、私も同じように考えます。しかしながら、国家等の統治機構は歴史的に強大な権力でもって国民の自由や権利を圧迫してきました。そうならないようにしようと憲法という強制力を使って個人の尊重を担保する原理や諸制度を国家にかした。そのような原理をも無限界に改正できるのでしょうか。
憲法99条は、誰がこの憲法を守らなくてはいけないかを端的に示してあります。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」この憲法尊重擁護義務は公務員にかされているのであって、国民とはされていません。それは、諸原理の変更を簡単に出来ないようにしようと、憲法が第一次的に定めたものであると私は考えます。
自由の基礎法たる憲法の自由の部分に限界はあるのではないでしょうか?
以上です。
乱筆お許しください。
P.S
ちょっと、飲んでいるもので。 以前佐倉さんは好きな酒は甘酒だとおっしゃっていましたが、甘酒でも酔えるの でしょうか。そこんとこもよろしくお願いします。これからも頑張ってください。 楽しみにしています。
1.限界説の動機
憲法改正の限界の論点は、我が国の憲法学会でも説が分かれます。大きく分けると、限界説(限界があるという説)、無限界説(限界がないという説)があります。いわゆる通説は限界説であります。・・・護憲(「憲法九条は変えさせないぞ」「人権は普遍的原理である」等々)という秘かな政治的目的が先にあって、それを達成させるために、いろんな学者が、憲法は変えてはいけないという理屈をひねり出すために、いろいろ頑張ってきたんでしょうね。そんなものは、自分ひとりだけに権利を集中させようと企む独裁者や、「コーラン」だけが権威であると考えるイスラム教原理主義者によって、一晩のうちに破り捨てられてしまう、はかないもの(簡単に変えられるもの)です。
2.人間の欲望と憲法の権威
佐倉さんはこの憲法の中核をなす個人の尊重を担保する、国民主権主義、基本的人権尊重主義、平和主義も変更することが可能であると考えるのか、あるいは更に、その価値観の前提となる個人の尊重をも変えることが可能であると考えるのでしょうか?もちろんそうです。たとえば、わたしたち(一般市民)は自分たちの主権を放棄して、天皇やキリストや麻原彰晃や大川隆法などに主権を預ける国王主権主義の憲法を選択することができます。あるいは、サウジアラビアのように「コーラン」をわが国の憲法にすることも可能です。あるいは、わたしが勧めているように、現行憲法を破棄して、和の思想の原理を土台にした、まったくあたらしい憲法を制定することも可能です。
わたしたちが「どんな社会に住みたいか、そして、その社会運営するためには、どんな基本原則が必要か」という問いが、すべての憲法の権威に先行します。つまり、人間の欲望があらゆる憲法の権威に優先します。自分たちに気にくわないと思えば、人間は誰でも、どんな憲法でもいつでも捨てることができるからです。
「国民主権主義、基本的人権尊重主義、平和主義」を憲法の根底にしたいのなら、人々がそれらの価値観を尊重するように、不断の説得を続けることが必要なのであって、それらの価値観がチャレンジさえ受けることができないような安定したシステムを作りだそうなどと企てる限界説は、自らの権威を永久化しようとする独裁者のやり方と同じです。
しかし、どんなに頑張って、「憲法改正には限界があって、できないことがあるのだ」、と憲法の権威を主張しても、「いやなものはいやだ」と捨てられてしまえば、どうしようもないでしょう?憲法であろうと、世界貿易センタービルであろうと、人間の欲望が作ったものは何であれ、また人間の欲望によって壊され得るものです。
3.甘酒
甘酒でも酔えるのでしょうか。そこんとこもよろしくお願いします。何も飲まなくても、わたしはいつでも酔っています。人間はみんな、大なり小なり、正気を失っているのではないでしょうか。わたしは、アルコールの力を借りなくても、すでにかなり正気を失っていて、しかもそのことを楽しんでいるので、甘酒ぐらいで充分なのだと思います。それに、とくに雪の降る寒い夜などは、あつくて、とろっとした、おいしい甘酒が最高です。