今の日本で起きていることは、「大災害対応での民主主義の限界」を示す事例だと、私は思う。
このところ、世界の自由主義国家で起きていたことは、「国家政策決定での民主主義の限界」であった。先進国の例では、日本の実情は説明の必要はないが、アメリカのオバマ大統領の熱狂的な選出から今の支持率低落への過程、イギリスの2大政党政治の崩壊、ベルギーの多党乱立による政権不在状態の継続、イタリアの腐敗政権の居座りと国民の政治不信、フランスの政権に講義する民衆デモの頻発などなど。新興国では、民主主義の基盤そのものが危うい。中国やロシアの言論の封圧や人権行動家の不当逮捕、暗殺までありだ。もちろん、従来の中東。中央アジアの政治・宗教問題や、最近多発している中東・北アフリカでの民主化運動なども、入るだろう。
このようなことになったのは、ひとことで言えば、「情報化の進展によるグローバル化社会の到来で起きた価値観の多様化」だと、私は思う。そのキッカケであるとされる「東西冷戦構造の崩壊」の原因は、国境を越えたテレビ放送とファックス通信の普及だとされている。その後は、インターネットの普及であることは、言うまでもない。
今の日本では、この「国家政策決定での民主主義の限界」と、東日本大震災と原発事故による災害の対する「大災害対応での民主主義の限界」がダブルで起きている。このことを理解していないと現状を理解できないのではないか。
このところ、与党内や野党、メディアや住民の菅内閣に対する怒りのぶつけ方がエスカレートし、「怒れる民衆」になろうとしている。その気持ちは理解できるが、ではどうすればよいのかについて、誰も解答を持ち合わせていないかに見える。一方、災害発生時には、同情一本だった世界は、今は、多少興味本位気味で固唾を呑んで収拾を見守っている。日本国内での被災していない人たち(私も含まれるが)は、この中に含まれるが、身近なだけに、多くの人は「怒れる民衆」の一員ではないだろうか。しかし菅内閣は、超人的な人でないとできないことをやらねばならない立場に立たされ、多くの敵を作ってしまったものだ。
私は、「大災害に対する応急対策」は、既成の民主ルールでやっていたのではダメだと思う。それは、戦争と同じく時間が勝敗を決するので、軍隊が意思決定に時間のかかる民主主義ルールで戦っていては、負けるのと同じ理屈からだ。戦争は、人の殺し合い、災害救助は、人の助け合い、いずれも、時間が人命に決定的にかかわる。こんなときは、一時的に「独裁主義」を使うしか方法はない。ただし、意思決定を強力にサポートする機関が要る。いわゆる参謀本部だ。東電は、100%有効だったかどうか別にして、原発事故では、このようなシステムをとったはずである。
国の災害対策総本部長は、総理大臣がなるしかない。とすれば、誰が参謀本部に入るのかだ。自民党総裁や、経団連の会長などなど、そんな組織を作って参謀になりたいと言い出してもよかったのではないか。作戦会議は、必ず総理大臣以下全員主席で毎日開き、朝6時に始めて7時半には終わらせる。決定事項の伝達は、8時、記者発表は、8時半だ。総理大臣の現地視察などは、再々行く必要はない。映像やテレビ電話を使い、もっと多くの現場を見て、そこの住民と対話するようにすべきだ。
そういう情報ツールを活用すること、これがこの「民主主義の限界」を打ち破る鍵になると思う。4年に1回しかない投票所に出向く選挙など、時代の遺産でしかない。投票はインターネットでせよと言っているのではない。議員の側からは、自分のマニュフェストの実施状況などをネットで公開し、ネットで意見を受けて回答してその集計を発表、1年に1回程度の信任投票を受けるなどのことが、最低限、必要だ。
しかし、そんなことに気付いている人は、いるのだろうか。そのような「新しい民主主義への発展」を模索しているマスメディアも、あまり見たことはない。
以上は、今日ふと思いつき、書き留めたことなので、十分な推敲はしていないが。
