2012年12月31日

古事記は偽書か(12月31日)

『古事記』完成より1300年とあって、古事記本がにぎわっている。
足立倫行『倭人伝、古事記の正体』など面白く読んだ。
ところで、岡田英弘は「日本書紀はどのように創られたか」(新潮45 1月号)で『古事記』偽書説として7点を列挙している。
1.太安万侶はたしかに存在した。
だが太安万侶の墓誌銘には『古事記』を天皇に献上した話など一言もない。
また、日本の正史である『続日本紀』にも元明天皇が和銅4年(711年)に太安万侶に『古事記』の著作を命じたことも、太安万侶が翌和銅5年(712年)に『古事記』3巻本を天皇に献じたということも、まったく書いていない。
2.『古事記』の序文には、天武天皇が稗田阿礼に特に勅許を下して「帝紀の日継、および先代の旧辞を誦み習わせた」とあるが、『日本書紀』の「天武天皇紀」には似た記事はおろか、稗田阿礼の名前すらない。
3.『古事記』は3巻しかないのに比べ『日本書紀』は全30巻ある。
『日本書紀』の神代2巻の特徴は、物語が一段落するごとに「一書に曰く」として多数の異伝を注記していることである。
もし『日本書紀』より前に『古事記』が出ていたら『古事記』も「一書」として引用されているはずだが、まったく引用されていない。
それは『古事記』の方が『日本書紀』より後からできたからである。
『古事記』の神話は『日本書紀』の中からもっとも内容豊富なものを取り入れて整理したものである。
『古事記』の方が『日本書紀』より面白くわかりやすいのはそのためである。
4. 『古事記』出版の翌年713年に「風土記」編纂の命が諸国に下った。
「風土記」を編纂することがどんなに大事業だったか想像にあまりある。
「風土記」を完成させた地方は少なく、今では『出雲国風土記』などの五風土記しか残っていない。
『出雲国風土記』の完成は733年で720年の『日本書紀』の完成に間に合わなかった。
だから『日本書紀』には出雲神話は載っていない。
ところが、『古事記』には出雲神話が豊富に登場する。
さらに『因幡国風土記』にあったらしい因幡の白ウサギの話もある。
したがって、『古事記』の成立は「風土記」編纂の命が下る前の712年であるはずがなく、720年に成立した『日本書記』よりもさらに後といえる。
5.奈良朝のどんな書物にも『古事記』の名前はなく、1つの引用もない。
815年に完成した『新撰姓氏録』は、多くの氏族の由来について『日本書記』から丹念に記事を拾い集めているが、『古事記』からの引用は1つもない。
これは平安朝の初めになっても『古事記』が世間に知られていなかったことを意味する。
6. 『日本書紀』では宮も陵も所在がはっきりしない応神天皇が、『古事記』はのちの『延喜式』で確定した場所を述べている。
7.『古事記』は漢字だけで書かれている。
仮名という発音記号をまだ持たない時代に、感じだけがあのように並んだ文章を稗田阿礼がどんなに頭が良くても、どうやって暗記して、それを太安万侶に今度は読んで伝えることが出来たのか。
『日本書紀』に比べて『古事記』の方が歌謡が圧倒的に多い。
『古事記』に和歌が多いということからも『古事記』の方が新しいことがわかる。
初めて『古事記』を取り上げて問題にしたのは、太安万侶の子孫の多人長(おおのひとなが)である。
多人長は『日本書紀』に精通した学者として有名である。
その多人長が『弘仁私記』という自分の講義録に、先祖の太安万侶が『古事記』を書いたこと、『日本書紀』の編纂にも参加したと書いている。
多人長の話はいろいろあるが、要は自分の氏族が偉大であったことを証明するために創り上げたのが先祖の氏族長の太安万侶の名前を語った『古事記』だったのである。
多人長はしかも『古事記』を『日本書紀』の完成より8年前のものとし、さらに『古事記』が『日本書紀』よりも権威あるように見せかけるため、太安万侶』が『日本書紀』の編纂にも参加したように『弘仁私記序』でほらを吹いたのだ。
以上が岡田英弘の『古事記』偽書説である。
次は三浦佑之『口語訳 古事記』に挑戦してみよう。


Posted by sho923utg at 10:47│Comments(0)TrackBack(0)

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