いま、全国の書店で、ひときわプッシュされている一冊の文庫がある。
『永遠の0』(講談社文庫)、2006年に刊行された百田尚樹氏のデビュー作だ。
敗色濃厚となっていく太平洋戦争の最前線において、「絶対に生きて妻子のもとへ帰る」と誓い戦いながら、特攻に散った一人のゼロ戦搭乗員。「なぜ祖父は死んだのか」現代に生きる青年が、祖父の戦友を訪ね、調べるうちに、凄惨な戦争の実相と、祖父の死の驚くべき真相が明らかになっていく――。
同書を読んだ多くの人々が、「これほど感動する小説を読んだのは初めて」「生きる勇気をもらった」などと絶賛。じわじわと評判が広まっていき、文庫化から約一年が経って売れ行きが爆発、2010年8月現在、55万部の大ベストセラーとなっている。
その作者、百田尚樹氏は、長年テレビの世界を仕事場としてきた。関西圏では知らぬ人のいない人気番組、『探偵! ナイトスクープ』の放送作家を20年以上に渡って務める。50歳のときに初めての小説『永遠の0』を執筆、それ以来、高校アマチュアボクシングの世界を描いた小説『ボックス!』や、オオスズメバチが主人公の『風の中のマリア』、本格時代小説『影法師』など、一作ごとにまったく異なるジャンルの作品を世に送り出し続けている。
このロングインタビューでは、百田氏が送り出す幅広いジャンルの小説世界が、いったいどのようなバックボーンから生まれてきたのか、じっくりと伺った。(大越裕)
第45回 ハッと気づいたら50歳だった(百田尚樹さん編)
2010.08.19更新
遊んでばかりの子ども時代
―― 今年の春先に、『永遠の0』を読ませていただきましたが、あまりの面白さと感動に、本当にびっくりしました。個人的に、映画『ロッキー』以来の感動でした。読み始めたら止まらず、特に最後の50ページは近所の定食屋で読んでいたのですが、涙と鼻水が止まらなくて店員さんに不審がられたくらいです。
百田ありがとうございます。
―― それから百田さんの本を次々に読ませていただきましたが、どの作品も非常に面白くて。
太平洋戦争の特攻隊員、高校のアマチュアボクシング、オオスズメバチの世界、美容整形、そして時代劇・・・、まだまだ書きたいテーマがあるそうですが、今日はその源泉がどんな読書体験から生まれてきたのかお聞きできればと思います。子どものころは、どんな本を読まれてきたんですか。
百田じつはそれほど本好きじゃなかったんです。ポプラ社の怪盗ルパンシリーズは面白くて、小学4年生か5年生のときに全部読んだ記憶がありますが、そんなに沢山本を読む子どもじゃなかったですね。ただ、父親が本好きで、僕にも本好きになってもらいたいと思ったのか、どこの出版社か覚えてませんけど、少年少女文学全集が家に買い揃えてありました。全部で50冊ぐらいあったかな。読んだのはそのうち一、二冊でしたけど(笑)。
―― へえ、本ばかり読んでいる子どもではなかったんですね。どんな子ども時代を過ごされたんですか。
百田毎日、遅くまで外で遊んでました。大阪の東淀川区、駅でいうと阪急の南方、地下鉄御堂筋線の西中島南方のあたりに住んでました。僕が子どものとき、40年ぐらい前ですが、淀川を挟んで反対側の天神橋筋六丁目が当時とても栄えていて、買い物に行くといえば梅田か天六でした。
―― ずっとそこで少年時代をお過ごしに。
『ボックス!』(太田出版) |
百田いえ、中学生のときに奈良に引っ越して、高校を卒業するまでは奈良にいました。でも僕の原点は大阪の下町ですね。『ボックス!』の主人公の一人、木樽くんが東淀川区に住んでいて、淀川をランニングするという設定にしたのも、そのためです。
―― では、本を本格的に読むようになったのは、いつぐらいからだったんですか。
百田じつは大学を卒業してからなんです。学生時代も、本棚にぜんぜん本が並んでいませんでした。奈良県の高校から同志社に進んだんですが、高校時代は、ぜんぜん勉強ができなかった。
うちの高校は奈良県でも一番か二番ぐらいに勉強ができない学校だったんです。大学に進学する子もほとんどいない。その中でも僕は成績が下の方で、落第の危機が常にあった。高校卒業したときは学力がゼロで、だからその年はどこも受験しなかったんですよ。
―― そうだったんですか。
百田高校を卒業しても、予備校に行って授業を聞くのに必要な学力もなかった。しゃあないから中学の参考書を買いなおして、そこから勉強を始めました。夏ぐらいにはとりあえず予備校の授業が理解できるぐらいの学力をつけようと思ったんですが、到底無理で、秋以降もひたすら家で独学していました。
―― しかしそれで同志社大学に合格するんですよね。すごいです。
百田いや、すごくないですよ。
大学ボクシング部に入部
―― 高校のとき、部活は何かやってたんですか。
百田いくつか入ってはみたんですが、どうもみんなと一緒に運動するというのは性に合わなくて、どれもこれもすぐ辞めてしまいました。でも体を動かすのは好きだったので、一人で走ってましたね。長距離走は、昔から早かったんですよ。
―― お父さんがボクシングを好きだったそうですが、百田さんご自身も子どもの頃からボクシングがお好きだったんでしょうか?
百田そうですね。ボクシングはとても好きでした。
―― 大学に入って、ご自身もボクシングを始められますね。
百田高校まではボクシングジムが近くにありませんでしたから、やりたくてもできなかった。普通のスポーツやったら高校のクラブでもできますけど、ボクシング部がある学校は珍しいですからね。で、大学に入って、たまたまボクシング部があるのを見つけて、こらおもろいと思って入ったんですよ。
―― では、大学時代はボクシングに打ち込まれたんでしょうか。
百田そうですね。三年ぐらい夢中になってやりましたね。戦績は、十七、八戦やって、ふたつぐらいの勝ち越しです。大学は3分3ラウンドで戦うんですが、当時はヘッドギアもなくて、グローブは8オンスでした(現在のアマチュアボクシングの試合は、ヘッドギア着用が義務、グローブは10オンスを使用する)。急所を守るファウルカップもちゃちで、ローブローくらって悶絶するシーンを何度も見ましたよ(笑)。
「ミジメアタッカー」としてテレビデビュー
―― 百田さんは、30年ほど前の人気バラエティ番組、『ラブアタック』の出場者だったと伺いました。どういう経緯で出演したんですか?
百田たまたま大学の友達の下宿に遊びに行ったら、「俺、明日テレビに出るねん」と言うんです。「どういうことやねん」「ラブアタックって番組や」「面白そうだから僕もついていくわ」ということになって。ラブアタックという番組は、男の出場者が女の子を射止めるために色んなゲームをやって、最後に愛を告白して、クス玉を割ってもらったらカップル成立という視聴者参加型のプロポーズ番組なんですね。
―― かなり人気がありましたよね。僕も子どもの頃に、父親と笑いながら見た記憶があります。
百田で、スタジオに行ったら、彼が女の子そっちのけでお客の笑いを取ってるのを見て、「これはおもろいなー、こんなおもろいものには僕も出なあかん」って思いましてね。それで朝日放送のディレクターに「僕も出してくれ」と頼んでみた。そしたら出場できることになって。
女の子には目もくれず、いかにお客さんの笑いをとるかに懸けたら、「アイツおもろい」ということになって、朝日放送からまた出てくれと言われまして。そこから朝日放送との縁ができたんです。何回か出場するうちに、ちょっと有名な出場者になったんですよ。そういう受け狙いの連中は、僕以外にも何人かいて、「ミジメアタッカー」という称号をつけられました。年に何回か、ミジメアタッカーだけを集めた大会も開催されて、それにも出ましたね。
お化け番組『探偵! ナイトスクープ』
―― ミジメアタッカー、覚えてます! 百田さんがそうだったとは。そこからテレビ業界に。
百田はい、もう30何年前ですが。そこでいろんなディレクターやプロデューサーと知り合いました。大学には結局5年いたんですが、中退して、ぶらぶらしているときに「遊んでるんやったら、テレビ番組作る手伝いやってみいへんか」と声をかけられました。「ほなやりますわ」とふたつ返事で、アルバイトがてら始めたのが、テレビの業界に入った最初ですね。
しかし働きつつも、「こんな仕事は正業じゃない」と当時から思っていて、「いずれちゃんとした職につかなあかんなあ」と思いながらずるずると続けていました。ハッと気づいたらもう20数年経ってしまった(笑)。
―― 最初はアルバイトだったんですね。
百田当時も放送作家っちゅう職業はあったんですけど、自分ではそれが正業という意識はまったくなかったですね。出社時間も決められてないし、ふらっと企画会議に出て、あとは全部自由時間ですから、こんなものが大人の仕事とは思えなかった。それが本職となってしまったわけですが。
―― しかし続けるうちに面白くなっていった。
百田当時、何もわからない20代の子どもといってもいい青年ですから、テレビ番組をつくること自体は、すごく楽しかったですね。やることなすこと面白かった。関西ローカルが多かったですが、バラエティからクイズ番組まで何でもやってました。放送作家として台本も書けば、ラジオで喋ったり人生相談に答えたり、クイズの問題を作ったり、調べ物もしたり、と。
―― そして『探偵ナイトスクープ』を作ることに。
百田はい、あの番組が始まったのは僕が32歳のときです。今から22年前ですね。最初からたまたま、僕がチーフをやることになって、中心となって作ってきました。始まったときは「この番組どれぐらい持つんかなあ。1年か、2年か」と思ってたんですが、まさか22年間も続くとはびっくりですね。
―― 最近では、東京でも放映されてますよね(東京メトロポリタンTV日曜午後7時)。
百田あれは自分で言うのもなんですが、非常にいい番組だと思います。22年間の平均視聴率が20%を超えてるんです。深夜11時過ぎに始まる番組で、ありえない数字ですよ。
―― よくあれだけのネタを見つけてくるな、といつも思います。
百田毎週、調査依頼のハガキやメールが500通ぐらい来ますから。それを僕らが全部読むんです。それはそれは面白いですよ。この500通を読むだけで、そこらの本を読むより、ずっと面白いですからね。
―― あの番組を見ると、「関西人ってみんな面白いのだろうか」と思いますね。
百田庶民の笑いのスキルがちゃいますからね。これまでに3000本以上作ってきたので、作る端から忘れていくんですが、その中でも忘れられない名作はあります。例えば「爆発たまご」というネタ。電子レンジに生卵を入れて、最高のタイミングに出したゆで卵は、口に入れて噛んだ瞬間に爆発するんです。その玉子をどうやって作るか、という壮大な実験は、ものすごく面白かった。
最近のものでは、一部男性に人気の「ブーメランパンツ」というタイプの小さいパンツがあるんですが、「それを冷凍庫でカチカチに凍らせて投げたらブーメランみたいに戻ってくるんじゃないか」と考えて、実験をやったのがおもろかった。日本にいるブーメランの世界チャンピオンを厳寒の北海道まで連れて行って、寒い中凍らせたパンツを投げてもらったら、ものすごくきれいな弧を描いて戻ってきた。あれは劇的な映像でしたね(笑)。
初めての小説を書いた理由
―― (笑)そうした面白い仕事をしながらも、いつか小説を書こうとは思っていたんでしょうか。
百田いやいや、ぜんぜん思ってなかったです。テレビの仕事が面白くて、ずっと続けていました。
しかしあるとき、ハッと気づいたら50歳になっていた。
「もう50か。楽しく面白く生きてきたけれど、やはり歳はとるなあ」と。昔、江戸時代や戦国時代の頃ならば、人生五十年と言われていた。昔だったら人生が終わっとるんやな、と思って、そのときに初めて自分の半生、五十年を振り返ってみた。楽しく生きてきたけれど、何かひとつでも「これは」ということをしたかいな、と。
テレビの仕事はそれなりに面白かったんですけれど、不満もあった。というのは、どんなにアイディアと知恵を振り絞って番組を作り上げても、一回放送してしまったらそれでオシマイでしょう。今ではDVDがあるけれど、その前は放送したら本当に終わりだったですから。
あとひとつの理由は、僕らはテレビを作る前にいつも台本を書くんですが、それを演出するのはディレクターですし、演じるのはタレントで、編集する編集マンがいて、さらに音声や舞台美術などのスタッフもいる。自分がやった仕事は、番組全体の中の一部でしかない。果たして番組作りにおいて、自分の仕事が何%反映されているのか、数値化できないんですね。
だから、何かしら「自分がこれをした」ということをやり遂げたかった。それで自分に何ができるかな、と考えてみたときに、放送作家を長いことやってきたので、字は書ける。それじゃあ、小説の世界に一回、足を踏み入れてみるかと思って50歳のときに書いたのが、『永遠の0』でした。
『永遠の0』(講談社文庫) |
―― 『永遠の0』がデビュー作というのが、信じられないです。いきなりあれだけの小説を書こうと思って、書けるものなんでしょうか。
百田ありがとうございます。書き始めて最初の3カ月ぐらいは、どうやって書いたらいいか試行錯誤しましたが、その後の3カ月ぐらいで、ばーっと一気にまとめてしまった感じでしたね。自分でも小説を書いてみて、「あ、そんなに難しいものでもないんやな」と思いましたから、多分、誰でも本気で書こうと思ったら、書けるんじゃないでしょうか。
―― 百田さんの叔父様の戦争体験を聞いたことが、元になっているそうですね。
百田はい。私には4人の叔父がおるんですけれど、そのうち3人が戦争に行っていて、うちの親父も兵隊に行ってます。『永遠の0』を書き始めるちょっと前に叔父の一人が亡くなって、また親父もかなり重い病気で、あまり長くないな、という状況でした。そのときに、「戦争体験者がこうやって日本から消えていこうとしているんやな」と実感したんです。書くなら今しかない、と思って、戦争というテーマを選びました。これだけマニアックな本が売れるとは、正直予想外でしたね。
(次週、後編に続きます!)