くくるの乙女総集編

2010年10月~2013年11月頃までのカフエくくるのブログを家族 ろう者のくくるの乙女バンド  心の病とくくるの乙女にまとめました。 日常の会話はこちらです。http://kukurucafe.ti-da.net/

家族

11月18日結婚記念日

今日は9回目の結婚記念日です。
いい奥さんもらえてよかったなと思うこの頃です。

結婚は親は反対していました。妻が障害者であるからでした。

義母も耳が聞こえないけど本当にいいの?と疑っていました。
本人も耳の障害で辛いことがあったようです。


私は逆に手話が覚えられていいと思いました。
親は耳が聞こえない子供を心配していましたがメチャクチャ元喜な息子が生まれました。
息子のことはここをクリックhttp://kukuruno.ti-da.net/e5495991.html

耳が聞こえなければ一緒に手話を勉強しようと思いました。

結婚して彼女で良かったと思ったときは7年前の出来事でした。
ある平和団体の盲ろうの友人から、そこの団体の会合での手話通訳を頼まれましたが迷惑と断られました。
そのことを妻に話しました。
妻はいいました。「テレビの音を消して。口がパクパクしているだけで楽しい?これが私の世界。盲ろうの人は、映像も見れないのよ」
大粒の涙を浮かべ怒りで震えていました。
耳が聞こえない人が身近にいながら、耳が聞こえない人の気持ちを知ら無さ過ぎる自分が情けなくなりました。
そのことが、理不尽なこと、ぶん殴りたくなることも堪え手話通訳設置をお願いし続ける力となり、7年目で実現しました。
妻の大粒の涙を見なければ健常者中心の社会に慣れていた私は罵倒されてまでお願いし続けることはアホらしいと思ったと思います。


妻はケントミフアミリーのメンバーとして手話の普及と障害ある人ない人の垣根を払う
バンド活動を続けています。 私は微力ながらサポートしています。
真弓、今日まで本当にありがとう。師匠と誓った耳が聞こえない人聞こえる人の橋になる人生を歩んでいきたいね。これからもよろしくお願いします。

妻の体験談です。
http://kukuruno.ti-da.net/e5496017.html

心の病とくくるの乙女

マイケル後編

マイケル全偏http://kukuruno.ti-da.net/e5496211.htmlです。


2012年2月 ~2013年 10月 マイケルを中心にまとめてみました。
2月1日

マイケルとSさん、一時期うまくいかないことがありました。
人の三倍働くSさん、マイケルのスローな仕事にイライラしました。
心の病は理解し難く なまけものにみえたのでしょう。
作業を分断したらSさんは自分のペースで仕事ができるのでイライラがなくなりました。
ですが若干、二人には不協和音がありました。しかし、Sさん、マイケルが仕事を彼なりに頑張っていることを理解するようになり話をすることがなかった二人でしたがマイケルに料理を教え始めました。
心を開いたSさんも偉い、わだかまりなく、素直に料理を習ったマイケルも偉いと思いました。


2月8日 

うるとらまんとマイケルはくくるで音楽を教えてくれているCさんが経営する居酒屋でお酒を飲んでいます。
Cさん、自分にとって音楽とは何かを語ってくれました。
離婚し何もかもいやになった時期がありました。自殺未遂を2回しました。人と会うことができませんでした。精神病院にぶち込まれました。
金網の中にいました。ふと見るとギターがありました。私は看護士にギターを貸してくれと頼みました。イルカのなごり雪を歌いました。
歌っているとき一人の女性が私に近づいて私のそばで歌を聞いてくれました。看護士さんが驚きの顔で私に問いかけました。
看護士 「なにがあったんですか」
Cさん 「なにがって、ただギターを弾いていただけですよ」
看護士 「彼女は17年間、この病院で食事のとき以外は、ずっと歩いているだけで立ち止まったことがないのですよ」
それから、この病院では音楽の力に着目し毎週土曜日はカラオケ大会をするようになりました。
ただ自分の心の隙間を埋めるための音楽から人に喜んでもらう音楽をと考えるようになりました。
子供達が離婚しても、世界でお父さんはひとりだけだよ。の一言に心に何かがはじけました。
やがて退院しました。有名になりたいとかCDを売りたいとかの気持ちは消えました。
人に喜んでもらえる音楽、自分が楽しむ音楽をもとめるようになりました。

4月3日

マイケル、神響さんが一曲一曲に真剣に歌っているのに驚いた様子です。
 マイケル
   神響さん、3曲あんなに力こめて歌ったたら疲れちゃうよ。  俺は疲れないように省エネギターだけど。
 神響さん 
   聞いてくている人に感謝の思いで歌っている。    
 マイケル
   ケントミのトミさんもすごい!ガンで体がきついのに、太鼓のバッシが 飛び散るほど太鼓をたたいている。
   あんな小さな体のどこにパワーがあるのだろう。


6月5日
ある行政の関係者Tさんが、マイケルに会いにきた。

 心の病を抱えている人の応援をしているTさんはマイケルがくくるのスタッフとして頑張っていることを大変喜んでくれた。
 そんなマイケルに、同じ心の病を持ち家から出れない方々の家庭訪問してほしいとお願いした。
 音楽の話ならできる。くくるではライブしているので誘うことはできる。いっしょにギターでもひいて遊ぶことなら いいよと社会復帰への手助けになるのなら と答えた。自分ができることで少しでも人が喜んでもらえるならの気持ち、とてもすばらしいことだとおもいます。







彼が元喜になったのは音楽と仲間の力だ。
毎週火曜日はかんちゃんのフオークライブの日だ。マイケルはかんちゃんとギターを演奏しているときは輝いている。
公的機関の職員とは世話している、指導している、世話されている、指導されている関係になりがちだ。
かんちゃんにはそれがない。同じ音楽を愛する仲間と同一に接してくれている。普天間高校時代の仲間と楽しむマイケルです。




12月8日

マイケルは元気がありませんでした。そんなマイケルに宮城さんは激励ライブスケジュールのメールを送っていました。
宮城さんのメールは頑なに閉ざしていたマイケルの心にヤル気を与えてくれました。
首から下が全く動かない宮城さんは口にストローのようなものをくわえパソコンを操作します。自分ができることを精一杯、誠実にする宮城さんにマイケルは確かなものを感じたと思います。


マイケルは宮城さんに 「いつも連絡のメールありがとう」とお礼を言いました。
長年、心の病を患っているマイケルにとって「ありがとう」の一言を言うことは簡単ではありません。




昨日,かんちゃんのスナックなごり雪でライブありました。マイケル初の有料ライブです。それは彼の夢でした。


普天間でくくるの乙女と神響ライブしました。マイケルも一緒に参加しました。
神響さんのギターと歌声にお客様はお大喜びです。
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トップノートでライブで耳の聞こえない家内にがキーホードを教えています。人に喜んでもらえることしている時は命の輝きを感じます。



心の病ある人たちの音楽祭がありました。マイケルはデイケア仲間とドラムで参加し最優秀賞頂きました。数年前まで引きこもりだったとは誰も信じられない彼でした。



現在は
マイケルは音楽活動で社会参加しています。ミラクル ユンケルはデイケアで調整中です。

石さんはうつ病で辛いことありますが正社員になりました。
バルさんは(次回紹介します)2年間の入院生活、自殺未遂を乗り越え今年の2月より就労A型で頑張っています。




2013年

11月5日
Tさん、Oさん、Mさんが私の家にやってきた。
3人とは社会貢献を考えている仲間でマイケルの家を何度も訪問するが
なかなか会えないとのことであった。

マイケルは居留守を使っている。
しかし、「何度も来てくれるから悪いなと思うけど、ドアを開けることができないんだ、メモが玄関に挟まれている。来てくれているんだ。悪いとは思うけど・・」
マイケルは感謝しているが長年居留守を使っていて、会えない気まずさがあるマイケルの気持ちを伝えた。

それから心の病の病気のことで理解が深まり意気投合してきた。
心の病ある仲間に何ができるか、話しした。まずは目の前の人 マイケルを応援していこうとなった。

彼らは社会貢献で忙しい仲間だ。ひざ詰めで対話したいと言い続けて10年目でやっとできた。

最終的に次の三点で合意した。
一つ  マイケルに会うこと(会わなければ何も始まらない)
二つ  14日 S文化会館でのイベントに一緒に参加(音楽好きな仲間との交流、社会参加促進)
三つ  身近に音楽が楽しめる場の提供(マイケルの近所で継続的に音楽を楽しめる場)
となった。とても楽しくなった。3人が私の友人のために悩み共に行動してくれるとはありがたいことだ。


11月12日

今日はマイケルと夢の話をした。
  うるとらまん
  「元喜か」
マイケル
  「まあまあだな」

うるとらまん
  「デイケアに毎日通えるようになったな。朝おきて夜は寝るとの生活はどうだ」

マイケル
  「まあまあだな」
うるとらまん
  「マイケルは先ずは生活のリズムを作ることが大事だからな。いつ寝ていつ起きているかわからない生活から脱皮したね。よう頑張ったな」

マイケル
  「そうだな。まあまあだな」
うるとらまん
  「そろそろ、仕事とか夢のことは考えてみてはどうか?趣味の音楽を生かしてみては?」

マイケル
  「最近は病院ではイベントがないから練習してない」

うるとらまん
  「そういえばマイケルの近所で毎年12月にミニライブしているところがあるだろう。そこに出演してみるてのはどうだ。バルさんも一緒に
  どうだ」
マイケル
  「そうだね。バルさんも最近は少し元気ないからな。何か目標がないとダラケてしまうな」
うるとらまん
  「まずはそんな事からはじめてみようか。私のほうでかけあってみるから、マイケルは練習しておいてくれ」

マイケル
  「そうだね。わかった。昨日も今日も明日も病院で将棋、ゲームだけの生活には飽きてきたよ
そういえば置き手紙があったな。14日、浦添で何かあるからとか」
うるとらまん
  「マイケル、一緒に参加しよう。6時半にアパートくるよ」
マイケル
  「そうだな。わかった。6時半待っているよ」



11月14日

(左から私 Kさん、マイケル、Tさん、Oさん)

今日は浦添にあるS文化会館にいきました。3人の仲間と合流しました。

Kさん、何度もマイケルのアパートを訪問してくれました。
彼はガンで闘病中です。
マイケルのアパートは三階です。彼にとっては三階はきついと思います。
マイケル、いつも置き手紙をしていた人がKさんとわかり、Kさんの真心に心を打たれていました。

初対面でしたが居留守を使っていたとは思えないぐらい打ち解けていました。
マイケルの心に確かな灯火が点灯していることを感じたのは私だけではなかったと思います。
車中では音楽の話で盛り上がりました。
12月でのミニライブに向けて話が進んでいます。
やっぱり、仲間は最高だ!



ろう者のくくるの乙女バンド

仕合わせて何?

2013年 10月30日

今日はウルトラハッピーでした。
一度はお会いしたいと思っていた名倉さんがなんと訪ねてくれたんです。
正直お会いできることは半分諦めていたので涙がでるくらい嬉しかったです。
夢のことを語りました。彼女もすこし乗り気でした。


    11月3日




今日はケントミファミリーライブが西原町でありました。
名倉さん、10年前の脳内溢血で半身不随となり、人間関係の問題から心が病んでいました。どうしてもケンさんにあって欲しくて今日実現しました。
ケンさんは若い頃は相撲部屋からスカウトされるぐらい柔道が強かったですが30代で筋繊維が衰えていく進行性の病となりました。
最初は生きる力は萎えていましたが、好きな歌で人に喜んでもらえることが幸せと年に60回のライブを小中学校で行ってきました。
名倉さん、涙ぐみながらケンさんと話していました。

ケンさんから名倉さんへ仕合わせのウムイ唄 がプレゼントされました。ケンさんの思いは伝わったと思います。
仕合わせのウムイ唄

 私の足は動きません でも私の夢はまだ動きます

 愛車に乗って 太鼓をのせて
 
 あなたに唄を届けます

 三線の音と 太鼓の響き 島のリズムを体に受けて

 みんなのお思いを受け止めて 熱い心の唄を届けます

 あなたに勇気を少しだけ 仕あわせのウムイ唄
          

 ハイサイおじーおばーチャーガンジュですか
 いつもても皆さん 元気ですね~

 おじーとおばーの笑顔で私も幸せもらえます

 座ってしか 三味線弾けない私ですけど グブリーサビン
 あなたーがいたから 私達もこの世にうまれてこれました
 暖かな心を繫ぎとめる仕あわせのウムイ唄



 私達も頑張りますから あきらめることだけはしないでください
 私の唄で少しだけでも 元気になれたら幸せです


 短い人生 こんなところで 立ち止まるなんて つまらない

 あなたが生きているだけで 意味のあることだと思います

 あなたの幸せを願って仕あわせのウムイ唄



幸地さんの空手演舞冴えています。




くくるの乙女は今までは耳が聞こえない二人のためにサポーターがいてリズムを伝えていました。ところが今日はサポーターがいなくてもキーボード、ジャンベをえ演奏し手話歌をしました。ケンさん、二人とは目で主に合図を三味線を奏でる手の動きでリズムを伝えています。くくるの乙女とケンさんとの阿吽の呼吸は圧巻でした。







名倉さん、最後はカチャーシーを踊っていました。こんなに明るくなりました。
音楽はすごい!人の真心は素晴らしいと思いました。

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ライブ終了後は喜屋武さんの自宅でご馳走になりました。喜屋武さん、ありがとう。名倉さん、今日はいい出会いがあったと喜んでいました。

ケンさんのブログからの転載です。


西原町図書館でのケントミFのライブをさせていただきました!

神謝!

観客はお母さんやお子様が中心で…

観客のお一人に凄く人生に落ち込んだ方がいて
(ライブ前に挨拶にいらして…現在は大丈夫…)

30分から40分ぐらいのライブ予定でしたが

その方に語るようなト〜クで進行してたら

あっという間に50分が経過…

でもライブ終了後に…元気いただきましたとのお言葉をもらい…

結果オ〜ライのライブだったのではと…


これからもケントミF…

みんなに勇気と希望と感動を与えられるような演奏目指し頑張っていきます!


やっぱりそうだったんですね。ケンさん、名倉さんに語りかけるようにライブしてくれたんですね。
名倉さんにはケンさんの思いがビンビン伝わっていました。
そんな場面の出愛に仕合わせを感じました。



ケンさんの話は心の病ある人にはストレート過ぎていました。
ケンさんは淡々と話ていましたが言葉の一言一言に思いと真心、 元喜になって欲しいとのメッセージがありました。
私がケンさんと同じ内容を話したら反感されていたと思います。

ケンさん、2年半前の沖縄市民会館でのコンサートを最後に大きな会場でのライブではなく10人から100人程度の小規模なライブを福祉施設を中心に行ってきました。

それは一人一人と語りかけたいとの思いがあることが今回の名倉さんとの出愛でわかりました。


つい最近まで「こんな体で痛みに耐え何もいいことがないと死にたい」と叫んでいた彼女がケントミファミリーのオリジナル曲 大丈夫よではカチャーシーを踊っていました。

私はものすごく仕合わせを感じました。
私はケンさんのように人の心に響く話も歌もできません。でも繋げる事はできます。

そんなささやかな仕合わせも悪くないと思いました。



   11月24日


私は最近、腰痛で辛かった。寝ても何しても痛くて仕方がない。湯船に入りストレッチで痛みの半分は取れた。
半身不随の名倉さんが時折、痛みがあるという。少し、名倉さんの辛さがわかるような気がした。
名倉さんと電話で話をした。
元喜な声で安心した。
名倉さんは、医者のアドバイスを守り、前向きに取り組んでいたが転換性からうつ病となり仕事ができなくなっていた。

悩み苦しみながらも前へ前え向かおうとしている名倉さんんと話していくと元喜になってきた。
健康な人も障害ある人も、皆んな悩みや葛藤はあるとおもう。
自分に負けないこと 昨日の自分より今日の自分が大事だと教えてもらいました。
   
    日々新たに 
         また日々新たに
             
              武者小路実篤

家族

息子と家族

息子を中心に家族のことをまとめてみました。


息子が八ヶ月ぐらいでの出来事です。

 今までいくら泣き叫んでも、振り向かない母親にお母さんは、耳が聞こえないのかな?と感じはじめてきました。どうして????お父さんは、ちゃんと聞こえるのに????自分も聞こえるのに???息子は、頭を抱えます。
耳が聞こえないて何だろう・・・・どうしてだろう・・・・
 ある朝の朝食です。
オーブンがチーンと音が鳴りました。気づかないお母さん。息子は、じーと母親を無言でみています。いつもと違う息子に私は興味津々でした。
母親と息子の目があった瞬間、息子は黙って、右手でオーブンを指して、チーンしたこと教えてくれました。
息子は、お母さんの耳になることを覚えていきました。

息子が一歳ぐらいのときの話です。

息子は保育園で歌を覚え楽しそうに歌います。家内は、自分にできない事ができる息子をたくましく思えたのか、ただ微笑んで息子を見つめていました。
家内は学校の音楽の時間でのいじめの後遺症で音楽は嫌いです。
今の歌は何?聞いてきます。「赤とんぼだよ」と答えました。私は、耳が聞こえないから仕方がないと思いました。 息子が楽しそうに歌っていることを喜んでいる家内をみているだけで幸せを感じていました。
こんなやりとりがしばらく続いたある日、家内は息子が歌う、こいのぼりの歌に合わせて歌いだしました。リズムは滅茶苦茶でした。
でも一生懸命歌っていました。息子の唇の動き、身体の振動で音楽を感じていました。息子は今まで黙って聞いていた母親が突然、一緒に歌いだしたのが嬉しかったのでしょう。
大喜びで段々声が大きくなりました。 何度も歌っていました。
耳が聞こえないから音楽は嫌いと言っていましたが子供の素直な心に何かがはじけたように思いました。


2歳の頃です。

妻が耳が聞こえなくて困ったことは、家に鍵がかかり、中に入れないことです。
窓の外から妻が本を読んでいる姿がみえるのですが、いくら大きな声で呼んでも、気づいてくれません。光で知らせる装置があるのですが自分は困らないので必要ないとの返事です。そんな日は朝まで車で寝ています。
ある晩の日のことです。
その日も鍵がかかり、妻は寝ているようでした。今日は車で寝るのかと思った瞬間、靴の音で、お父さんが帰ってきたことを知った息子が「お父さんだ」と私のことを気づいてくれ、ドアが開きました。靴の音で誰なのかがわかるんですね。

息子が三歳ごろの話です。

息子はお母さんの補聴器に興味を抱き始めます。補聴器はお母さんの必需品であることがわかったようです。
息子は悪さをしてひどく母親から怒られました。息子は反省している様子でした。これで一件落着と思っていました。
ところが次の日の朝、補聴器がないのです。
仕方なく、そのまま職場へ。息子を問い詰めると、してやったりの顔をして補聴器を隠した場所に案内しました。やったという満足した顔をしていた。

ろう者の友人が小学生の長男の家庭訪問の話をしてくれた。
息子は先生に両親がろう者であることを教えていなかった。
親が障害者であることに後ろめたさみたいなものがあったのだろうか、息子は両親がろう者であることをいえなかった。
先生は、障害がありながら子供を育てるにはどれだけの苦労があったか、それを乗り越えてきた親を誇りに持ちなさいと担任の先生が激怒した。
子供が、小さい頃はよく熱をだす。手話のできる看護婦、医者は少ないくコミニケーションには苦労した。
寝ていて子供が泣いてもわからないので、タオルでまいて腕枕にして泣き叫んだときの振動でわかるようにしたりと工夫して育ててきた。
それ以来、息子は両親がろう者であることを隠すことはなくなった。
医者との対話、夜泣きは私が担当でした。



息子が幼稚園生の頃です。

耳が聞こえないくくるの乙女のバンドを結成し家内はピアノを担当することになり音を息子と確認しながら練習しています。
音楽は親子の絆を深めてくれています。




息子が小学1年生の頃です。

入学式での写真です。



息子は小学一年生ですが小学3年生ぐらいの漢字力があります。
どうしてなのか不思議に思っていました。息子との何気ない会話でわかりました。
妻は耳が聞こえないのでテレビは字幕でみれるテレビをよく見ます。息子はその字幕をみて漢字をおぼえたそうです。

家内が風邪で病院にいます。家内は耳が聞こえないのでアナウンスが聞こえません。息子は家内の名前がアナウンスされると家内に伝えてくれました。相変わらず動き回り落ち着きがないけど、ちゃんとお母さんの耳になってくれる息子です。



明けましておめでとう!親戚の家でくわっちーしています。



チラシが出来上がりポステイングしました。「太翔もやる」と一緒にポステイングしてくれました。汗びっしょりの息子でした。



今日は私の誕生日です。義母も一緒にお食事しました。




家族
  10月17日
太田さんと謝花さんのライブ家族で見に行きました。

11月11日
今日は息子の誕生日です。8歳になりました。義母の介護で4月から妻息子が義母宅へ引越し。それ以来久しぶりの我が家での食事です。健康であることが何よりの幸せ。

 

 11月10日
息子の運動会はじまりました。暑いです。いい天気です。

運動会です。昼飯は妻の妹の家で食べました。暑い。日焼けしました

家族

夫婦のこと

   
婦人の主張大会で県知事賞を頂きました。


[原文]

私は、今言葉を話しています。
それは、私を支えてきてくれた方々のお陰です。私が母のお腹にいた頃、風疹が流行し聾唖の赤ちゃんが約400名生まれました。
その中の一人です。私の耳はまったく聞こえず補聴器をつければ音は聞こえますが、高低音が聞こえません。

3歳から聾学校に通い唇の動きから話を読みとる訓練、舌が丸くならないように皿を舐める練習、顎に風船をくっつけた時の喉の振動で[音とは何か]教えてくれました。
健康な赤ちゃんは自然に言葉を増やしていきますが、私にはできません。
母は[ミルク]の単語を教えるために、私がミルクと言えるまで与えてくれませんでした。周りから虐待しているように見えたのか[かわいそうにそれでも親か]と言われました。

私が6歳の頃母がいつの日か待っていた言葉[お母さん]が言えるようになったのです。
普通の小学校へ入学しましたが、耳の障害のためにいじめられました。
父の仕事が失敗し生活が苦しくなりました。
心配した母の友人は桜が冬の間耐えて春になるときれいな花を咲かせる、人生も負けなければ[冬は必ず春となる]と激励してくれました。
その言葉は母を奮い立たせ一生懸命働きました。
私がいじめに耐える事ができたのは、貧乏に負けず働く母の姿があったからです。
ある日、先生は[なぜ、私の耳が聞こえないのか]授業で話してくれました。すると信じられない事が起きました。
同級生が次々と謝ってくれたのです。
嬉しかったです。

中学校では、友達の会話の中に入る事ができず孤独でした。
そんな私に近所のお姉さんが[夢を持つこと]の素晴らしさを教えてくれました。私の夢は学校の先生になること。
幼い頃口に入れて舌の使い方を教えてくれた先生の音に報いたかったからです。お姉さんは難聴の私が先生になれるわけがないとの思いに打ち勝つ勇気を与えてくれました。教科書を毎日何回も読み返しました。
成績は学年で一番ビリから少しずつ上がり希望の高校へ合格できました。

高校ではNHK杯青年の主張大会に出場する事になりました。
私は自分の声が聞こえないので、正しいアクセントが分かりません。
不安な私に先生はヘレンケラーの話をして激励してくれました。
大会では力の限り話しました。先生は泣いていました。
私がどれだけの勇気を振り絞って舞台に立っているのか、わかってくれていました。
「これからの人生悔しいことが一杯あるだろう。目の前の厳しさから逃げないで乗越えてほしいよく頑張った」と喜んでくれました。
最優秀賞の発表に驚きました。
私の名前が呼ばれたのです。言葉はどんなに努力して健常者に追いつくことは無いと思っていました。
先生の恩かみ締めました。

大学に合格しましたが「前例がない。耳の不自由な生徒では、先生は無理諦めなさい」と言われました。
それでもやってみなければわからない」と何度もお願いし大学は一切援助はしないとの条件で認めてくれました。
大学では黒板に字を書きながら講義が進められます。
先生の唇が読めず授業についていけません。
耳が聞こえる人を羨んでも仕方ありません。耳が聞こえない現実を受け入れるしかないと分かっていても「耳さえ聞こえれば」と愚痴が出て悔し涙がでました。そんな時、先輩の激励で自分はベストを尽くしていない事に気づきました。教授は分かるまで筆談で教えてくれました。
教授の誠意のお陰で卒業論文が学科最優秀賞の評価を頂き、難聴者として初めて教員免許を取得し卒業できたのです。

その後、臨時教員をしながら本採用を目指したのですが、集団面接で落ちました。私には他の受験者の意見を聞き取ることは困難で頑張り抜いた教員には悔いはありません。
新たな気持ちで仕事を探しましたが電話の応対が出来ないので断られました。そんな時、定時制高校の生徒達の姿が心の支えになりました。
昼間の仕事の疲れに負けず勉強に打ち込む生徒、戦後の貧しさから勉強できなかった年配の生徒さんが繰り返し教科書を読む姿を思い浮かべ、私も負けないと勉強し平成10年県職員の採用試験に合格しました。

人生の素晴らしさは人と人の出会い支えあう事です。
その中で人生のパートナーにめぐり合いやがて長男が生まれました。
息子にミルクを上げている時思うのは母の事です。
泣き叫ぶわが子にミルクと言えるまでミルクを与えなかった母、胸が張り裂けるような毎日だったと思います。
母のお陰で皆さんの前で話をしている自分がいます。

最近母を東北旅行に招待しました。日本一の露天風呂で孫を抱きながら「
かわいい、かわいい、こんな幸せがくると思っても見なかった」と喜んでくれました。
娘の耳が聞こえないと分かった時の驚き、これからどうやって育てていけばいいのか迷いながら、わが子だけの幸せを願い無我夢中で人生を駆け抜けてきた母に一児の母になった今、感謝の思いが湧いてきます。
母の喜ぶ姿に幼い頃教えてもらった「冬は必ず春となる」との言葉が重なり幸せをかみ締めました。

主人の亡き父母は村の老人会長、民生委員として地域に貢献してきました。今度は私たちの出番です。
現在主人は体協理事、私は婦人会活動を通して父母の村を愛する心を受け継ぎ、婦人会の先輩から村を誇りとする心を教えてもらいました。
これからもめぐる季節のように【感謝」の気持ちを結いまーるにして人生を楽しみたいと思います。


NHKテレビ番組ろうを生きる難聴を生きるに妻の事が紹介されました。
2012年9月2日(日)夜
あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 前編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
風疹児の数が多かったことから、聴覚障害児を教えた経験がない、手話も知らない教員が、ことばの指導にあたることになった。比嘉真弓さんも、きびしい発声指導を経験した。地域の学校に通った真弓さんは、聞こえないことでいじめにあったが、「自分がくよくよしていては前に進めない」と頑張った。高校生のとき、担任から勧めめられたのは、「NHK青年の主張」に出場すること。母親から「挑戦しなさい」を言われた真弓さんは、自分の生き方を熱く語り、県大会で優勝した。

2012年9月9日(日)夜

あきらめない -沖縄“風疹児”比嘉真弓さん- 後編

<シリーズ趣旨>
沖縄では、アメリカの統治下にあった1960年代半ば、風疹が大流行した。アメリカ本土の風疹の流行が沖縄に伝わったとも言われている。妊娠中の母親が風疹に感染したことにより、およそ400人の障害児が生まれた。そのほとんどは聴覚障害がある子どもたちだった。
いま、風疹児たちは40代半ば。その一人、「あきらめない」ことを信条に生きてきた比嘉真弓さん(46歳)に、2回にわたって話を聞く。

<この回の内容>
比嘉真弓さんは、現在、県立病院で事務の仕事をしている。周囲に自分の障害のことを説明し、「口元を見せてはっきり話して」と伝えることで、スムースに仕事を進めるている。
最近は、「音楽」に挑戦。夫が始めた手話カフェで、車いすの歌手・我如古盛健(がねこせいけん)さんに出会ってから、苦手だった音楽が「こころに響く」と感じ始めた。我如古さんの詩を手話で歌うほか、自分の書いた詩を、自分のリズムとメロディーで、自分の声と手話で歌うことに挑戦し始めた。



家内と結婚して良かったこと困った事。
 
良かった事 は安眠妨害と言われずにすんだ事です。 私のいびきはメチャクチャうるさいらしい。彼女は文句もいわずにスヤスヤ僕のそばで寝ています。  困った事は夫婦喧嘩はいつもぼくが負ける事。喧嘩して不利になると彼女は補聴器をとり「聞こえないもん」で押しとうします。
手話をすると顔を横に向いてしまいます。結局は私が疲れ果てて喧嘩は終わります。

体内時計
     
家内は朝6時なら6時に必ず起きる(目覚まし時計は使えない)仕事に遅れないようにしてたら自然にそうなったらしい。
          
     
読唇術

相手の唇読んで、話の内容を理解することですが 家内は読唇術と話の内容を予測して耳の不自由をカバーしている。
その読唇術と予測を間違えると誤解が生じる。例えば沖縄のアメリカの基地問題とかの話をしていたとします。そこへ、突然、アフリカの話が持ち込まれると混乱することがあります。アメリカとアフリカの区別の仕方は、アメリカのメとアフリカのフです。
メは唇を閉じフは唇が開いています。速い口調で話しをされると、唇が閉じているのか、閉じていないのか見落とし 話の流れからアメリカの話をしていると思ってしまいます。
友人との食事などでは、そのことを説明します。初めは、みなさん、家内と顔をあわせて、ゆっくり話してくれますが、話が盛り上がると、家内が耳が聞こえないことを忘れてしまいます。

 ある集会での出来事です。
中心者が下を向きながら話をしていたので口の動きを読み取れるように顔を上げて話をしてほしいとお願いしました。 わかりましたと返事をしましたが、また、下を向いて話をしていました。 話の内容は、相手の立場になって考えようでした。
 別の集会での話しです。中心者が本を抱え、唇が読み取れません。上と同じく願いしました。返事は、ハイでしたが、やはり、本が邪魔で家内は話の内容がわかりませんでした。 集会が終わり、次回から、耳の不自由な人にも配慮してほしいとお願いしました。
返事は、あんたが、通訳すればいいでしょでした。話の内容は弱い立場の人を応援でした。  
多くのろう者は、こんなことに慣れています。
不便であること、辛いことに慣れ、ある意味では、そう、割り切っていかなければ、生きていけないとのことです。
   

家族

     


慰霊の日 学童疎開

太平洋戦争末期、学童疎開船対馬丸が魚雷攻撃で沈没し1400人余りの命が犠牲となりました。父はその一週間後に那覇の港を出港しました。留まるも地獄、出るも地獄とはこの事です。
疎開先は熊本県の山鹿町でした。沖縄を発ときの荷物制限で冬物がなく寒さと飢えに苦しみました。帽子を落とし、拾うふりをしてみかんの皮を食べていました。満足に風呂も入れずシラミが発生して空腹を忘れようと早く寝床に就いても、かゆくて眠れない日々もありました。
親元はなれた寂しさ、空腹、寒さに耐え忍んでいることを知った鹿本郡の婦人会が、食料、古着、布団などを届けてくれ父は生前涙ぐみながら感謝していました。

 初めて見る雪に感動し見とれてしまい掃除をしなかった罰として沖縄の生徒全員、冷たい土の上に正座を命じられました。それを2階から見ていた高等科の女生徒が「これを足の下に敷きなさい」とつぎつぎと頭を守る大切な防空頭巾を投げ落としてくれました。霜焼けで素足で汚れた足の下に敷きなさいと防空頭巾を渡してくれた女生徒のやさしさを父は生涯忘れる事はありませんでした。

 遠足のときの事です。弁当がなく木陰で休んでいる沖縄の生徒に気づいた同級生の渕上淳一さんが 皆に呼びかけ弁当を分けてもらいました。父はよっぽどうれしかったのでしょう。慰霊の日には涙を浮かべながら、このことを何度も話してくれました。渕上さんに会いたがっていました。きっと、お礼をしたかったと思います。

 お金を払わず入浴しても見て見ぬふりしてくれたさくら湯の番頭さん、いつも援助してくれた森本商店の森本勝馬さん,紀さん、三玉校長高本義彦さん、引率していただいた照喜納先生、熊本の皆様、父が大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。 有難うございました。

父は熊本の人に感謝していました。高校野球は熊本の代表がでると一生懸命応援していました。

慰霊の日には必ず、学童疎開のことを話していました。私は父の遺言との思いで語り続けたいと思います。




父の闘病生活

76歳で父が亡くなった。
トラック運転手を50年間続けた。80歳まで続けることが父の目標であった。村のサトウキビを50年、製糖工場に運んだ。
村の農家で父を知らない人はいない。
幼い頃からトラックに乗り父の働く姿を見て育った。子供の頃はクーラーもなく夏はトラックは暑かった。父は日焼けで真っ黒であった。

そんな父がガンに侵された。最初は大腸ガンで手術した。2回目な肺がんであった。手術はしたものの完全にガンを取り除くことはできなかった。
父は死なないと思った。死なせてたまるかと思った。しかし、ガンは父の体を蝕んでいった。
抗がん治療は効果はなかった。
病院に呼ばれた。厳しい現実を聞かされた。それでも私は父は死なないと思った。奇跡をおこしてやると思った。しかし、酸素ボンベが必要な状態になった。今しかないと思い、父の願いであった弟のいる福島に家族全員で旅行にいった。
弟も良く頑張ってくれた。仕事を休んで観光案内し、おいしい手料理で精一杯の親孝行してくれた。弟には心から感謝している。

旅行から帰り、家で父と過ごす時間を作った。5月頃、父が高熱で病院に入院した。
「延命治療しますか」医者にいわれた。
「家族と相談します」というと医者は、「今決めてくれ、今日か明日かもしれない」と言われた。
私は父の生前の約束、延命治療はしないことを告げた。苦渋の選択だった。
父は肺炎を乗り越えて危篤状態を脱した。

6月頃、病院に呼ばれた。ガンは全身に移転している。痛みが激しくなる。ここでは、これ以上の痛み止めの治療はできない。自宅では無理だ。ターミナルケアーの病院をと勧められた。
痛みが激しくなり、どうしょうもなくなれば先生の指示に従います。それまでは自宅に帰してくださいとお願いした。無理だ。痛みが激しくなる。自宅では無理だと医者は最初は私の願いを拒んだが自宅に帰ることの許可をもらった。

父は車椅子となり、病気が治っていないのに自宅に帰ることの意味をわかっているようだった。
病院からの帰り、大西ゴルフ場から見える自分の生まれ育った村をみて「村はいいな」の一言を私は忘れることはできない。
妹が父の看病に来てくれた。妹が父に聞いたそうだ。「思い残すこと何?」父は何もないと答えたそうだ。
我が人生、悔いはないと言い切れる人生を送った父を私は誇りに思う。
近くの病院で父を毎日見てもらった。痛み止めの薬は準備されていた。しかし、父は体はだるいものの、痛みは訴えなかった。
亡くなる三日前、父の長年の老人会長としての感謝状が届けられた。父はそれを固く胸に抱きしめていた。
そして、7月13日の朝5時ごろ、父の体が急変した。「だいじょうぶ」との問いに{うん」とうなずく父。
これが私と父との最後の会話となった。

医者を呼んだ。医者は病院に搬送したら2日3日生きながらえます。どうしますかといわれた。
私は、畳の上でお願いしたいと告げた。
ちょうど、そのときは台風で妹家族、私の家族、親戚も家にいた。みんなきてもらった。1時頃、父はなんの痛みもなくフーと息をはいて寝るようにして亡くなった。

医者が用意したモルヒネは一度も使うことはなかった。
医者は「こんな安らぎある死相は初めてです。生前の行いが良かったんでしょうね」
親戚から「よく頑張った。親孝行したね」といってくれた。
しかし、心のどこかに、ひっかかるものが在った。もっと、他にやることがあったのではないか。もっと親孝行したかった。生きていてほしかった。
医者は「どんなにやっても心残りはありと思います」といってくれた。

私はその一言に救われる思いがした。

、父が愛した生まれ育った北中城村字和仁屋に貢献することが父が喜んでくれることだと思った。

人にだまされ信用財産を失い、信頼していた人たちから罵倒されていた私を村の区長は公民館建設員に推薦してくれた。
村の人の温かさ、そして、父への村人々の信頼のおかげだとおもった。
私は喜喜として公民館建設に汗を流した。
やがて公民館が完成して公民館の玄関に飾られた村に貢献してきた方々の写真をみて思わず涙が流れた。
そこには、私のおじいゃん、そして、青年会で活躍したいた父、私の写真が飾られていた。
馬鹿な私ではあるが、子供、孫に自慢できると思った。
おじいちゃん、親父、地域貢献する幸せ教えてくれてありがとう。


ハワイの親戚

兄は米兵、弟は学徒兵として沖縄戦で戦う事実に基づいての映画を見た。
その映画をみておじいちゃんのことを思い出した。
私のおじいちゃんは若い頃、ハワイに移民しパイナップルで成功し、第二次世界大戦前に沖縄に帰ってきた。
おじいちゃんには二人の娘がいたがハワイに渡った。
二人の娘、私のおばさんはハワイでお会いしたことがあった。
真珠湾攻撃のとき、ワイキキから、花火と思って楽しんでみていたという。
日系一世は収容所に連行され 2世、3世が呼ばれ日本と闘うか、闘わないかの2者選択を迫られた。
従わないものは収容所、従うものは、徴兵された。
日本語、英語のできる彼らは壕に逃げて出てこない住民に出てくるよう呼びかけるのが彼らの仕事でもあった。

ウチナンチュを一人でも助けたいと激戦地沖縄にきた2世、3世。
ハワイでお会いしたおばさん、多くは語らなかった。いや、語りきれなかった。
両親、兄弟いる沖繩に戦争に向かった日系人のことを、どんな思いだったのだろうか。





2013年7月

今日は両親のお墓参りいきました。ひさしぶりの、従兄弟との再会に喜んでいた息子でした。福島から弟家族がきてくれました。

ろう者のくくるの乙女バンド

くくるの乙女のバンドを結成したきっかけ



一つ
  過去のブログから転載します。息子は保育園で歌を覚え楽しそうに歌います。家内は、自分にできない事ができる息子をたくましく思えたのか、ただ   微笑んで息子を見つめていました。
  家内は学校の音楽の時間でのいじめの後遺症で音楽は嫌いです。
  今の歌は何?聞いてきます。
  「赤とんぼだよ」と答えました。耳が聞こえないから仕方がないと思いました。息子が楽しそうに歌っていることを喜んでいる家内をみているだけで幸せを  感じていました。
  こんなやりとりがしばらく続いたある日、家内は息子が歌う、こいのぼりの歌に合わせて歌いだしました。リズムは滅茶苦茶でした。
  でも一生懸命歌っていました。息子の唇の動き、身体の振動で音楽を感じていました。息子は今まで黙って聞いていた母親が突然、一緒に歌いだし    たのが嬉しかったのでしょう。大喜びで段々声が大きくなりました。 何度も歌っていました。
  命の底では音楽を求めているとおもいました。

二つ
  お客さん、ピアノの演奏にうっとりしていました。純子さんが言いました。「健聴者は音楽を聞いて泣いたり笑ったりするけど、どうして?」
  好奇心旺盛な純子さんは、それが知りたくて、感じたいようでした。  
  

  耳が聞こえないからできるわけがない、無理だ、だけど、やれるものならやってみたいとのくくるの乙女達の心の葛藤が3ヶ月ほど続き悩みぬいた末    2011年2月2日くくるバンドが結成。テレビで紹介されていました。

  http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wYXUrdZdRRI   

    
  くくるの乙女結成の頃の様子がいくちゃんのブログで紹介されています。
2011年2月6日

 
  聴覚に障害をもった人 四人がダンスの主人公です  いいね~ どういうダンスを見せてくれるか楽しみ  ワクワク
  初めてのダンスをするにあたって 手にしたテキストは…
  なんと ヒップホップのマニュアル本でした~

  私はテキストをめくる前にこんな早いテンポで大丈夫かいな…

  なんてことない DVDを手本にすばらしい踊りを見せてくれました
  聴こえてないはずなのに なんて リズムののりがいいんだろう
  ここで持ち上がったのが ダンスは なんとか 踊れそうだ
  では 演奏する曲の リズムをどうつたえるか
  ウルトラマンさん簡単に太鼓たたけば 振動や音でなんとかつたわるんじゃないかって思ってました 私も 太鼓の 「どんどん」という音や 振動なら     分かる気がしたんだけど

  太鼓の皮を普通にたたくと 音がにぶく広がり
  つながってしまうようで区切りがわからないとか
  きっと「 ぼぉ~んぼぉ~んぼぉ~ん 」って感じなのかな

  それならと
  太鼓の角をバチでたたくと
  カツン カツンという少し高い音がするが
  その音が聞こえないという
  これなら聞こえるだろうと取り出した
  シンバルをバチでたたく甲高い音は 意外にもきこえない人の方がおおかった
  結局三人揃ってきちんと聞こえる音を見つけることが出来ないままスタート
  ダンスのDVDでだいたいの動きはつかめた

  一緒にダンスに参加するよう誘われて とりあえず後ろのほうで真似てみるiku…あらら 難しすぎて私には無理だわ
  しょうがないんで太鼓をたたくマイケルの隣で手拍子をたたいて「見る」リズムをとってみた
  ありゃりゃ
  みんなから遅いって…突っ込まれてしまいました 
                 お恥ずかしい・・(///ω///)

  聞こえる私のリズム感が 聞こえない皆のリズムを狂わせるかもしれない…なんて怖いことでしょう
  みんなの邪魔になることのないように 
  キッチンに入って山積みの 食器洗いをこなしたんで 少しは お役にたてたと満足してますが・・・笑
  


2011年3月10日     

  4月25日のケントミコンサートに出演させてもらえることになりましたが耳が聞こえないから無理だと言い出しました。
  吉澤直美さんに相談しました。
  彼女は、凄まじいパワーで一度決めた目標はあきらめるなとものすごい気迫で一喝!!
  あの細い体のどこにこんなパワーがあるんだと圧倒されました。
  それがトミさんに似ているんです。
  お二人とも体は小さいのですが、ここが勝負との時の集中力、爆発力は圧巻です。
  そして、厳しいことをいいますが相手を思う真心も似ています。
  吉澤さんの叱咤激励に、もう一度彼女達と話し合いくくるの乙女は猛練習をしました。

  <



  2011年1月18日琉球新報の流流(希望あふれる人々 青い鳥を探して)にほぼ1ページカラーでくくるのことくくるの乙女がバンド活動に挑戦している  ことが紹介されました。

   
  チケットを買ってきてくれるお客さんに
  に知名度〇のくくるバンドが出演するのはお客さんに失礼だとのっことで
   出演中止を言われました。
  大会3週間前、すべてのスケージュールが決定される最終日がきました。     
  関係者にくくるの乙女の演技を見てもらうようお願いし了承されました。
  関係者は、手話歌を見たことある人はいません。演技が披露される前は、退屈そうな顔をしていましたが 演技が始まった瞬間、手の動き、顔の表情に  歌の思いがビンビン伝わってきたことに関係者全員が驚嘆しGOサインでした。
          
 
 
 
2011年4月頃のことです。
  
  うちの家内が、時をみつめての曲は、補聴器を頼りに音を拾えることができるようになった。
  補聴器をつけると音は聞こえるが、音を認識するには訓練が必要だ。周波数の合わないラジオを聴いているようなも
  ので聞こえる音(家内は低音と高音は聞こえない)をつなぎ合わせて それを音楽にしていかなければならない。忍耐の要る作業である。
 
  CDを聞いて音を拾い出すことができた家内だが沖縄市民会館でのリハーサルでは音を拾えることは、まったくできなかった。
  4人とも顔が真っ青になってしまった。
  音響担当のかたと相談した。彼ら音響のプロといえども困惑していた。、  
  くくるの乙女はすごい、それでも諦めなかった。できる方法、練習を最後の最後まで模索した。

  いよいよ本番!先日、友人からコメントを届けてくれた。紹介したい。

  直美さんのブログからの転載です。
 
  沖縄市民会館大ホールを満員にし、立ち見まででていました。

  さらには 耳の聞こえないくくるの乙女4人(ろうあの方)が
  ハンディを感じさせずに リズムをとりダンスを披露しました
  素晴らしかった!
  その熱心な練習の繰り返しは出番直前まで
  1秒でもおしいかのように
   繰り返し繰り返し、もう休んだらということもせずに
  それは頭が下がるほどに練習していました

  そして見事に成功させました
  これは大奇跡なのです(^^)
  4人の女性たちは耳が聞こえないことを
  感じさせずに
  舞台に立ちダンスでコラボレーションしました

 
歌い終わるまで
私は舞台のすぐそばで
涙ぐるぐるしてました

あまりの感動にのどもひっくひっくと泣きそうでした。

これはカフェくくるのみなさんが
ケントミコンサートで歴史を創ったメモリアル

これから
さまざまな形で
多くの人に新しい希望をつなぎました

彼女たちが楽屋でも
出番直前までも
繰り返し繰り返し休むのを惜しむように
練習していた姿を忘れません

そして大きな喜びの世界を
多くの人と心から結びました

ありがとう!感謝感激感動をにふぇーでーびる♪

ろう者のくくるの乙女バンド

くくるの乙女はろう者に喜んでもらえる音楽を追求してきました。
それを試す機会がありました。2012年度2013年度に東京都立ろう学校、奈良県立ろう学校が修学旅行で来てくれたこと、2012年度に九州ろうあ者大会に出演したことでした。

その様子をブログから拾ってみました。

聾学校の先生とメール電話で何度も話し合いしました。

話し合いしていくなかで盲ろうの生徒さんは沖縄の盲ろう者との交流を望んでいるのではないだろうかと思いました。
くくるにご来店していただいた他府県のろう者のお客様のくくるの魅力は沖縄のろう者に会えることでした。

そんな他府県のろう者と地元のろう者との交流は手話が飛び交い楽しそうです。
それが沖縄と奈良県の盲ろう者で交流できればとおもうと胸がはずみました。
盲ろう者の通訳介助に理解のない方々にどれだけ、盲ろう者にとって通訳が必要であり生きる喜びにつながっているかを知ってもらえるいい機会だと思いました。

ろう者ならダンスなど見て楽しみことはできますが盲ろう者にはそうはいきません。
ならば振動で音楽を楽しんでもらおうかと思いました。
その実験のため4人のくくるの乙女を和太鼓のライブに誘いました。
ものすごい迫力と振動でした。
これなら喜んでくれていると思っていましたが純子はつまらないと言いました。
シッヨックでした。確かに振動は感じますが音楽を楽しむほどまでには至りませんでした。

ダンスもダメ、振動もダメです。くくるの乙女とサポーターで話しあいました。
Yさんが言いました。打楽器は人類が誕生して最初のコミニケーションの手段であり、楽器の始まりです。
打楽器を実際に体験してもらうのはどうだろうか!

純子
「見るよりやるほうが楽しい。一緒にやるともっと楽しい」

音楽は受身ではなく実際に演奏するほうがもっと楽しいようだ。

確かにくくるの乙女は音楽は大嫌いと言っていたが今は音楽を楽しんでいる。

押し付けにならないだろうかとの意見もあった。私も自信はなかった。

恐る恐るろう学校の先生に電話してみた。

驚きの返事だった。
生徒は皆、好奇心旺盛でなんでもやりたがるとのことで大賛成とのことでした。
手話歌、打楽器も得意とのこと。

先生はくくるでは食事だけと考えていたようです。

くくるも好奇心旺盛だ。
やっと方向性がみえてきた。
生徒にライブ体験してもらうことにした。
くくるバンドの演奏で生徒が手話歌をやる
サポーターと生徒で演奏してくくるの乙女がダンス、手話歌をやることにした。
打楽器は沖縄特有のパーランクーを使ってもらい沖縄の文化芸能に触れ合う機会にしたいと思う。

耳の不自由な生徒、盲ろうの生徒を喜んでもらえるにはどうしたらいいか真剣な討議しました。

町田さんから以前、盲と知的の2重障害ある他府県の生徒さんに太鼓を叩いてもらったところ、とても喜んでもらえたと太鼓のすばらしさと一緒に何かを体験することの素晴らしさを語ってくれました。

わくがみさんから、まず、テンポとリズムを理解してもらい、振動で体に感じる体感、盲ろうの生徒の場合は肩を叩くなどしてテンポを感じてもらうなど意見がありました。
実際に肩を叩きながらリズムよく打楽器を叩くことができるかなと疑似体験しながらの練習でした。
 
いよいよ来週の水曜日25日、奈良県立聾学校の生徒さんが修学旅行でくくるにきます
奈良県立ろう学校の生徒さんと、一緒にコラボでミニライブを想定して練習しました。
わからないことは、ろう学校の先生に確認して、一つ一つ問題点を克服してきました。



交流の様子は新聞テレビで紹介されました。






http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-05-04_33308/沖縄タイムに掲載されました。

紹介します。
【北中城】聴覚障がい者と健常者が共に働き、心通わす場づくりを提供している村和仁屋区の手話カフェくくる(真心)で4月25日、奈良県立ろう学校3年生の森松奏(かな)さん、榎本知奈美さん、森口友香子さん、尾崎雅君、水野達斗君らが、同店と同サポーターや地域住民、利用者が開いた触れ合いパーティーに参加。手話ダンスや民踊、エイサーなどを体験、修学旅行の楽しい思い出をつくった。

 オーナーの比嘉隆夫さん(52)の妻真弓さん(46)は風疹児で聴覚障がい者。ブログを通して全国の障がい者と交流や情報交換を行っている隆夫さんに同校から修学旅行の昼食の依頼があり、思い出に残る昼食会を開きたいと隆夫さんはサポーターたちと企画を練ったという。

 村渡口区のマジシャン喜納一巳さん(61)も賛助出演を快諾した。同店の「くくるバンド」と「ケントミファミリー」とのセッション、三線と太鼓の振動を感じながら「上を向いて歩こう」「朝まで踊ろう」などを手話で、盲ろう者には触手話で歌い、踊り、エイサーのパーランクーをたたいた。

 フィナーレは全員がカチャーシーを踊り、躍動のリズムが一つになった。生徒らは「沖縄の方々のフレンドリーな雰囲気で楽しい時間を過ごせた。この思い出は生涯忘れない」と感想を語り、4人いる引率の一人、柳田智子教諭は「2月に下見に来て食事だけでも十分と思ったが比嘉さんやサポーター、そして地域の方々のぬくもりに感動でいっぱいです」と謝辞を述べた。(翁長良勝通信員)




先日、奈良県立ろう学校の生徒さん、先生から真心の手紙が届きました。


担任の先生の手紙を代表して紹介します。
奈良もずいぶん暑く感じるこの頃です。最高気温が那覇を上回る日があります。天気予報を見ても、沖縄を気になるようになりました。
さて、修学旅行では大変お世話になりました。あんなに大歓迎してくださって、十分なお礼を申し上げるより、ただただびっくりしてしまいました。

沖縄の皆様の温かさと、お店に集っていただいた方々の思いに触れ、本当に心に残る思い出になりました。障害のあるなしに関係なく、同じ空間に共有させていただいたこと、一緒に楽しく過ごせたことに感謝しています。
あの時間のために多くの方々が時間や労力を使ってくださったことも、生徒にしっかり伝えていきます。

生徒も先生も長く心に残るひとときでした。重ねて御礼申し上げます。

お礼が遅くなって申し訳ありません。生徒さんが作った色紙をご笑納ください。修学旅行から帰って、二名の生徒が職場実習にいきました。
幼稚部の前の早期教育部から、その人生のほとんどを一緒に過ごしてきた生徒たちですが、いよいよ卒業後の居場所を探し始めました。
就職に大学にとチャレンジしていきます。これからが正念場です。どうぞ進路が確保ができますように祈ってください。
これからも時々ブログを拝見させてください。
皆様のご活躍を糧に私たちもがんばっていきます。どうぞお身体にご自愛ください。

 
         奈良県立ろう学校 高3担任Y先生
                
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201603-storytopic-5.html

東京のろう学校生 和仁屋公民館で住民と交流2013年1月20日


ケントミファミリーの演奏に合わせリズムを取る東京都立中央ろう学校の生徒ら=16日、北中城村の和仁屋公民館

 【北中城】修学旅行で来県した東京都立中央ろう学校(久保井礼校長)高等部2年の生徒14人が16日、北中城村の和仁屋公民館で地域住民や手話カフェ「くくる」のメンバーと交流した。同校が昨年、和仁屋にある「くくる」を訪れたことがきっかけとなり、交流が続いている。
 頸椎(けいつい)損傷や聴覚障がいなどを抱えながらも音楽活動に取り組んでいる「ケントミファミリー」の演奏が始まると、生徒たちは積極的に舞台に上がり、手話をまねたり、リズムを取ったりして演奏を楽しんだ。地域の老人会のメンバーも交じり、最後はオリジナル曲「だいじょうぶよ~」で全員がカチャーシーを踊って盛り上がった。
 生徒らは15日に沖縄入りし、初日はひめゆりの塔などの南部戦跡を巡った。同行した久保井校長は「悲しく、つらいことがあったことは、子どもたちや職員にしっかり伝えたい」と話し、交流について「心のこもったおもてなしだった。素晴らしい思い出になった」と感謝した。
 最後に生徒を代表し、奥村泰人君と土岐航太郎君が「大勢の人が集まり、踊って楽しかった。東京に帰っても忘れない」とあいさつした。
 「くくる」のオーナー比嘉隆夫さんは「障がいがある人もない人も、問題なくやっていけるモデルケースを地域からつくっていきたい」と語った。









沖縄テレビで紹介された動画です(未公開映像あります)2012年度東京都立ろう学校の生徒さんとの交流の様子です。


http://www.youtube.com/watch?v=9ZEhvNVeWak

8月




いよいよ来週の千九州ろうあ者大会で披露します。数百人のろうあ者の前での演奏です。

純子さんが言いました。

ろうあ者は音楽には興味ないからおしゃべり(手話でのおしゃべり)ばかりしているだろうな。

Yさんがいいました。
みんなが音楽を楽しんでもらっている姿でみんなに喜んでもらおうよ。
Yさんの一言でふっきれた純子さんでした。




今日は九州ろうあ者大会前夜祭でライブしました。
前夜祭では沖縄県ろうあ協会の女子部が華麗なダンスを披露しました。この日のために数ヶ月間、練習してきていました。
みなさん、とても輝いていました。

次にケントミファミリーの出演です。

サポーターのみなさん、数百人のろうあ者の前で演奏するのは初めてであり、手話の世界に面食らった様子でした。
今回はサポーターがろうあ者の世界に入りました。何か感じるものがあったようです。

ろう者のくくるの乙女バンド

サポーター 

<strong>湧上さん、参上>です。くくるの乙女に楽器の指導をしてくれました。


2011年
6月 くくるにブログ仲間のわくがみさんランチにきてくれました。





素敵なコメですので紹介します。ブログ仲間のわくがみさんです。

無謀と夢望』素敵な言葉です!!

正に、それを目指して活動中なので(笑)
楽譜やコードを知らない自分…(^_^;)
感覚のみで『ボンベ君のうた』等の音楽・『もののけ姫』の米良さん等の音響・全国放送のナレーション・映画音楽や編集をさせて頂いておりますf^_^;

『渇望』があり、継続する事により『無謀』が『夢望』として具現化して叶って来ました。
諦めなければ・信じ続ければ、よっぽど『無謀』な事と『怠惰』で無い限り、努力に見当たった報いはあると信じています(≧∇≦)
金曜日、僕の『夢望』にお付き合い頂きますが…
ボーカルを31年間目指してコンピューターミュージックを始め、声楽の先生に『貴方には無理』と言われ、諦めず続けたからこそ今があります。
共に『夢望』を未来へと繋いで参りましょう!!
 わくがみ 


7月

純子(ろう者)さん
  うるとらまん、健聴者は音楽をきいいて感動したりするよね。
  それて、どんな感じなの?
うるとらまん
  健聴者は、みんな音楽を楽しんでいるよ。
純子さん
  音楽で楽しいの?
英子(ろう者)さん 
  私にはわからない。音を知らない。
わくがみさん
 音楽はリズムです。心臓の鼓動、走る時のリズム、野菜を包丁で切るときのリズム、リズムのあるところ、それは音楽です。
 逆にリズムがなければ音楽ではない。音を聞くことが音楽ではない。体で感じるものです。

純子さん、英子さん
 私も健聴者のように音楽を楽しんでみたい。
わくがみさん
 できますよ。やりましよう。

こんな会話から ろう者の音楽への挑戦が始りました。

わくがみさん
 では実際にドラムをたたいてみましょう。  
純子さん
 振動が伝わる。みるより、やるほうがおもしろい。
英子さん
 小学校のころ、運動会の練習でたたいたことある。
うるとらまん
 そうなんだ。耳がきこえないけど、どうしてやったの?
英子さん
 健聴者の真似をしているだけだよ。何も楽しくなかった。
わくがみさん
 音楽はリズムですよ。リズムは聞くものではなく体で感じるものです。
 1,2,3,4の4拍子でいきましよう。
純子さん
 これでいいの?
わくがみさん
 そう、それでいいんです。この4拍子でいいんです。
英子さん
 これなら私にもできる。
わくがみさん
 では、私もドラムをたたきます。私は、みなさんのリズムに合わせて、ドラムをたたきます。
純子さん
 え! 健聴者がろう者にあわすの?そんなことできるの?
わくがみさん
 やってみましよう。そう、それでいいんです。
英子さん
  おもしろい!おもしろい!」
うるとらまん  
  英子さん、小学校でもドラムしていたんでしょ。
  小学校のころは、ドラムはつまらない、でも今は、何で楽しいの!

英子さん
  でもおもしろい。

うるとらまん
  ドラムを叩く行為は小学校のときと今は同じ。
   だけど、今は楽しいという。
  それは、なぜ?私なりの解釈です。
  ボートこぎでいつも船酔いしていた人が自分がボートを漕がなくてはならなくなったとき船酔いはしなくなったそうです。
  音楽も同じで、だれがに合わせればいい(健聴者にあわす)から自分にあわすと主体者になったとき、音楽の楽しさを体感したのではと思い

8月

わくがみさんhttp://waku7777.ti-da.net/がフエイスで募った
ドラムをくくるに届けてくれました。
感謝感激です。

わくがみさん、ろう者が楽器を演奏し、健聴者がろう者にリズムをあわす音楽をしたいとの思いに多くの人々が賛同し協力していただき、くくるへのドラムの贈呈となりました。心より感謝申し上げます。
贈呈されたドラム、太鼓、メトロノーム、うどんちゃん、わくがみさんです。




先日わくがみさんから贈呈してもらったメトロノームでテンポの練習頑張る純子さんです。
彼女はまったく音は聞こえない(1級)です。音の代わりに振動でテンポの練習です。

振動でテンポを感じ、体でテンポを感じられるようになるためにメトノロームで練習です。










過去のブログから屋富祖さんのことを拾いました。

2012年2月
ドラマー屋富祖さんがきました

Yさん、手話での会話に戸惑っていましたが、手話は慣れると楽しいですよ。



英子さん、アフリカの民族楽器ジャンベに挑戦です。
屋富祖さん、アマチュアバンドで3年連続横浜代表です。

耳が聞こえないから音楽は無理との発想は彼女達にはありません(ときどき弱音をはきますけどね)

屋富祖さん、聾者へ音楽を教えることは初めてです。メトロノームを使ってテンポの確認したり試行錯誤しながらも音楽を教えることを楽しんでいます。





練習風景7月
  

8月

耳の聞こえない乙女が新たな挑戦です。

いよいよ来週の千九州ろうあ者大会で披露します。およそ500人のろうあ者の前での演奏です。



ろうあ者は音楽には興味ないからおしゃべり(手話でのおしゃべり)ばかりしているだろうな。

屋富祖さんがいいました。
みんなが音楽を楽しんでもらっている姿でみんなに喜んでもらおうよ。
屋富祖さんの一言でふっきれた純子さんでした。

11月11日は屋富祖さんの誕生日でした。屋富祖さん、いつもくくるの乙女に音楽を教えてくれてありがとう。




今日はくくるバンドの練習日です。ドラムの屋富祖さんは足でジヤンベ、スティックでドラム、首の振りでビアノにリズムを伝えています。耳が聞こえない三人の乙女は見事に音が合いました。屋富祖さん、格好いい。




真弓に合いの手でリズムを伝えている屋富祖さんです。真弓は鏡を使い屋富祖さんの合図を確認しながらピアノをひく練習しています。それにしてもドラムを叩きながら耳が聞こえない真弓、英子の音を合わすとは凄い。




ドラムの屋富祖さんが首のふりと目で曲の始まり、リズムをドラムの純子さん、ジヤンベの英子さんに伝えています。ピアノの真弓に鏡を使って屋富祖さんの首のふりと目で曲の始まり、リズムを感じとる練習をしました。鏡を使って曲の始まりは伝えることはできました。しかし、途中でつまずくと、どこなのかわからなくなりました。




手話ダンスを屋富祖さんが指導しています。手でどう歌い手の思いを伝えるには?リズム良い手話ダンスとは?。




先日沖縄ろう学校の音楽のT先生がくくるの乙女と交流しました。
純子さん、英子さんのドラムジャンベに驚き、指導している屋富祖さんに感嘆していました。
先生の話によると現在のろう学校の生徒さんは打楽器などを好んで演奏するそうです。
授業は手話も交えて行われています。
純子さんたちの時代は学校では手話は禁止されていました。ほとんどの時間を発声練習などに使われていました。
授業も口話で生徒のほとんどは先生の話を理解することはできませんでした。

大人のろう者が音楽が嫌いな人が多いのは手話禁止により生徒が十分に
音楽の楽しさを理解していなかったのではないかと思います。
実際に純子さんたちは音楽の時間はつまらなかったと話しています。


(写真右)


先日、ろう学校中学生の平田さんの三日間の職場体験が終了しました。音楽教師の棚原さんは家内が大学生で教員過程実習の時の先生です。実習先もろう学校でした。不思議な巡り合わせです。屋富祖さんと棚原先生は耳が聞こえない生徒への音楽のアプローチに意見を交わしていました。







かんちゃんがくくるでライブしだしたのは2011年の秋でした。
その頃からのかんちゃんとの軌跡をブログから拾ってみました。(2011年秋~2013年夏)









毎週火曜日はかんちゃんのフオークライブの日だ。マイケルはかんちゃんとセッションしてギターを演奏しているときはひときわ輝いている。
とにかく楽しそうなのだ。かんちゃんのなにげないやさしさは彼の心を穏やかにしてくれている。
病院関係者、公的機関の職員とは、どうしても、世話している、指導している、世話されている、指導されている関係になりがちだ。
かんちゃんにはそれがない。同じ音楽を愛する仲間と同一に接してくれている。

昨日はバンドの練習日でした。
そこに高校時代の同級生Sさん、かんちゃんが応援にきてくれました。先週からYさんが加わりました。

実は私、マイケル、3人の応援者は普天間高校の先輩同級生後輩の間柄です。
好きな音楽、同じ高校の共通項だけで意気投合です。







昨日,かんちゃんのスナックなごり雪でライブありました。
マイケルのとって始めての有料ライブです。
それは彼の夢でした。

先週は心の病ある人たちの音楽祭がありました。マイケルはデイケア仲間と参加し最優秀賞をいただきました。マイケルは楽しそうにドラムを叩いていました。数年前まで引きこもりだったとは誰も信じられない彼でした。
今日はオトラクでかんちゃんライブありました。








先日のミニライブの後反省会があlった。

真弓
  「私たち、本当は音楽は大嫌い。主人から無理やりいわれて仕方なくやった」

かんちゃん
  「音楽きらいなの?」

真弓
  「そう。聾者はほとんど音楽嫌い!だけど、やっていくうちに音楽が好きになった。おしえてくれてありがとう」

かんちゃん
  「それを聞いて安心した。嫌いならどうしょうかなとおもった」

マイケル
   「指揮の4拍子があわない。どうしてかなと思っていたら最初の振りを1と数えているからとわかった。健聴者では当たり前のことがそうでないことが最近わかった」


音楽を通じて互いの価値観を超えて、感動を与える音楽がんばります。 

ミニライブ反省会の続きです。

 かんちゃん
    今日は私が出だしで失敗しました。あがりました。すみません。

 うるとらまん
    かんちゃんでもあがるんだ。やっぱり、練習と本番は違うね。
    こんなミニライブに機会あれば挑戦して慣れていくことが必要だね。
 純子さん
     どきどきした。緊張した。終わったらほっとした。楽しかった。

 とったん
     とっても楽しかった。
 屋富祖さん
     楽しかったです。練習の成果は出し切ったと思います。レベルアップしていきたいです。
    
 うるとらまん
    4月25日に奈良県立聾学校の生徒さんがくくるに修学旅行でくる。生徒さんに盲ろうの生徒が一 人いる。その生徒に沖縄きてよか た。くくるにきてよかったと喜んでもらいたい。どうしたらい いかな。
   純子さん
    音楽はろう者はきいてもおもいしろくない。ダンスとかみてたのしむのがいい。
うるとらまん
   ろう者はそれでいいけど盲ろうの人は見えないよ。
Yさん
   実際に音楽を体験してもらうのはどうだろうか!打楽器のリズムを肩 を叩いて感じてもらうとか!
マイケル
   それでよろこんでくれるならいいけど?押し付けにならないかな?

かんちゃん
   どうだろうね。喜んでくれるかな?
うるとらまん
  一月の東京都立聾学校の時にもくくるの演奏喜んでくれるか不安だったよね。4人のくくるの乙女は音楽はきらいだった。でもやっていくうちに音楽に魅力を感じてきた。くくるのライブに実際に打楽器で演奏してもらおうよ。

屋富祖さん
    曲は上を向いて歩こうよがいいと思うよ。どうしたら盲ろうの生徒さん、奈良県立聾学校の生徒さ んが音楽を楽しめるか研究しようよ。

とったん
   おもしろい。くくるはいろんなことに挑戦するね!

うるとらまん
  次は4月25日の奈良県立聾学校の生徒さんが沖縄きてよかったとおもえるよう練習がんばろう。

みなさん
  イエー!




ミーテング中です。

 純子
   「 つぎの祭りのイベントでは屋富祖さんがいないんでしょ。耳が聞こえないから
    ダンスできない」
     (純子はドラマー(屋富祖)さんのステイックの動きとドラムの振動でダンスを踊っていました。)
かんちゃん
  「心配ない。バックがくくるの乙女に合わす。好きに踊っていいよ」

純子 真弓
 「そんなことができるの・すごい、かんちゃん、プロ!」

うるとらまん
 「かんちゃん、大丈夫?」


かんちゃん
 「乙女のダンスに合わす曲をまず選定して、最初と最後を合わすことができればどうてことないよ」



でも実際には簡単ではないのです。
工夫が必要です。
かなり悩んでいます。それを楽しそうに悩むかんちゃんです。
かんちゃん、舞台の設定
など、誰が見ていないところで汗を流してくれています。

そんなかんちゃんはくくるの乙女は大好きです。
かんちゃんの頑張りに答えようとくくるの乙女は燃えます。

そんなくくるの乙女にかんちゃんも燃えます。





こうちゃん、野に咲く花を練習しています。
くくるの乙女、なんど床に伝わるリズムトラックの振動でリズムを感じて踊っています。
足に伝わる振動を感じて踊るてどんな感覚なんでしょうね。
私は聞こえるので耳に頼ってしまいます。

かんちゃん、今日も汗だくになって楽しそうに教えています。
かんちゃんのこの笑顔は素敵です。








かんちゃんとのリズムが一秒ほどずれています。
今までは耳が聞こえいから仕方がないと思っていました。
今回は違います。合うまで練習です。
明日、あさって、北中城村中央公民館で商工会主催のイベント参加します。




北中城中学校のストリートダンスのメンバーと記念撮影。イベントでは見事なダンス披露してくれました。具志堅さんも出演しました。ケントミファミリーはメンバーがふえ楽しそう。くくるの乙女は本番に強い。
練習では三回に一回しかリズムにあいませんでしたが、本番では100%の力を出し切りました。





くくるの乙女は3年間で100回ちかくのライブを学校地域で行ってきました。音楽仲間が増えセッションでライブをすることが多くなりました。
その様子の一部をブログから拾ってみました。

2011年5月
 


沖縄タイムスにくくるでのチャリテイライブの様子が掲載されています。
うどんちゃんの熱唱かっこいいです。







2011年7月にyou & Iのチャリテイコンサート


手話ダンスチャリテイコンサートは超満員の大成功でした(東北大震災被災地応援)。




友情出演していただしたゲンちゃんと砂川さんです。
ゲンちゃんの手話歌、砂川さんの一粒の種には感動でした。


ゲンちゃんとくくるの乙女のメンバーです。




まじゅん音楽祭、憧れの古謝美佐子さん、嘉手苅さんです。
2013年2月





神響ライブしました。2013年5月
ケントミファミリーです。2013年5月













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