国家資格の落とし穴〜【眼鏡技術者のナマの声】
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◇ [評論] 眼鏡士法制資格化における二つの落とし穴
                                         
岡本 隆博

 はじめに

  眼鏡技術者の法制資格化を図ることは良いことだ、ということはもはや自明の理である、
  という空気でこの業界(の小売部門)が満たされているようだが、はたして本当に我国の
  眼鏡技術者は法律で裏付けられた公的資格を持つべきなのかということ、そして、持つ
  ならどんな資格が良いのかということについて考えてみよう。


                           ●

  なお、ここでは世界各国のオプトメトリストやオプティシャンの制度を見回して「だから
  我国も……」という話の持っていき方はしない。

  その結論は言わずとも知れている。「先進諸国では皆それは法制化されている。
  我が国も一刻も早く……」というものである。

  しかし、では私がもし「世界の先進大国はみな核武装した国軍を持っている。我が国も
  一刻も早く憲法を改正して核武装をすべきだ」と言ったとしたら、どれだけのかたが賛成
  されるだろうか。

  いや、外国は外国、日本は特別だ、とおっしゃるかたが多いのではないかと思う。
  
  そう、制度は文化である

  文化はその民族や国家に固有の歴史と伝統によって育まれるのである。
  たとえば、憲法を持つ国家は多いが、それが正常に機能していない国家も少なくない。
  
  ウワベは法治国家だが中身は人治国家という所では憲法や法律は有名無実なものと
  なり、言論の自由や基本的人権なども権力によって蹂躙されるがまま、ということになり
  がちなのである。

  明治憲法は「天皇の大権」という架空のものを中心としたために「統帥権の独立」という
  危険なものをこしらえてしまった。それがために維新の元勲がいなくなったころから政府
  による軍部の抑えが効かなくなり、軍人官僚が実質的に我が国を支配するようになって
  しまったのである。

  法律というものは、それがひとたびできてしまうと、その立法の精神から離れて条文や
  判例が一人歩きをするようになり、ついには官僚の恣意的な解釈に委ねられるがママに
  なるという陥穽を持った、実に危ういものなのである。
                                                岡本隆博


 公的資格とは

  いま、国の法令に基づく資格は280,各省認定の民間資格は173あるという。
  我が国で「眼鏡技術者にも公的資格を!」という声が出始めてからもう1世紀近くになる
  だろう。

  では「公的資格」とは何か。それは、イコール国家資格、ではない。なぜなら地方自治体
  などによって認定される資格も公的資格だからである。

  カリスマ美容師が実は無免許だったというニュースが話題になった。
  理容師や美容師は、ご承知のように無資格では仕事ができないわけだが、少し前までは
  都道府県知事が認定していた。それが最近厚生大臣認可に変わったそうだ。そしてその
  ときにその専門学校の年限が1年から2年になったという。少子化の進む昨今、それらの
  専門学校は喜んでいるだろう。

  理容美容の学校関係者がそういう運動をしたのかどうかは知らないが、公的資格になれ
  ば自校が有利になることがわかっているのに眼鏡業界では専門学校がいまひとつ積極
  的に動こうとしないようだ。


 業務独占とは

  それで、法律に基づいた公的資格には、大きく分けて、業務独占と名称独占の
  2種類
がある。
 
  業務独占だと、読んで字のごとしで、資格を持つ人がその業務を独占する、つまり資格
  を持たない人はその行為を業としては行なえないわけである。

  例えば、医行為を業として行なえるのは医師だけである。非医師は医行為を行なうのが
  絶対に許されないわけではないが、業としてはできない。

  業とは何か。法的に言うと、それは職業とは限らない。職業上で行なうのはもちろん「業」
  だが、職業としていなくとも反復継続の意思を持って行なえば「業」なのである

  たとえば自家用車の運転は、その車の持ち主や家族であれば反復継続の意思をもって
  行なっているから、職業運転手ではなくとも「業として」運転していることになる。それで例
  えば事故を起こして同乗者を死なせてしまえば「業務上過失致死」の罪に問われるわけ
  である。

  逆に、例えば旅行先ですべってころんで骨折した友人に手当をして副木を当てて包帯を
  巻いてやる……なんていうのは立派な医行為なのであるが、それは反復継続の意思を
  持って行なったのではないから「業」ではない。だから、その医行為は、非医師に医業
  (医行為を業とすること)を禁じた医師法第17条には違反しないのである。

  逆に、職業としてではなく無報酬で行なったことであっても、たとえば非医師が医行為を
  反復継続して行なったというのであれば、それは医業であるとみなされ、医師法違反と
  なるのである。

  たとえば、ヒマな男が知り合いの医師に頼んで白衣を着て婦人科医になりすまし、連日
  診察らしきことを行なっていたというのであれば、非医師が医行為を業としていたことに
  なるから、医師法違反に問われようし、それを許した医師も共同正犯となる。

  また、フグの調理をやった場合に、その免許を持たない板前が客に出す料理で行なっ
  たのなら、たった1回でも反復継続の意思があると見なされるだろうから、無免許調理と
  なろうし、逆に家庭で反復継続の意思を持たずしてやったとみなされれば、それはフグ
  の調理免許を持たないものによる「無資格者の違法行為」ということにはならないので
  ある。(ただしそれで中毒死を招けば過失致死罪となる)

  そのように、あることを反復継続して行なうにあたって、それが知識や技術が不十分
  な者が行なうと世の中に著しく不利益や害を与える、という場合に、それに習熟した
  者にのみそれを行なうことを認めるというのが業務独占の公的資格なのである



                           ●

  日本国憲法では職業選択の自由を唱っている。
  すなわち、国民はどんな職業についても良いのだ。
  ただし、公共の福祉に反しない限りにおいて。

  ということは、逆に言えば、こういう仕事は誰でもかれでも勝手にやってもらっては困ると
  いう職種には公権力でもって制約をつけるのが、かえって公益のためになるのである。

  そういう「業」には、特定の人間に独占権を与えて、それ相応の責任も果たしてもらう。
  それが公的資格制度における「業務独占」の意義である。


  では、いったいどういう種類の「業」が有資格者だけに独占されるようになるのであろうか。

  答を言うと、それは国民の生命や財産に直接的に関わる「業」に関して、業務独占と
  いう強い権利を持つ法制資格が与えられるのである。


  例えば普通の飲食店は、試験により公的資格を得てからでないと開業できないわけでは
  ない。 保健所などの行政への届け出でOKである。

  調理士という公的資格もあるが、それは業務独占ではなく名称独占である。
  だから、調理士以外の人は客に出す料理を作れないわけではない。
  
  しかし、フグ料理はその他の料理に比べて生命に対する危険度が格段に高い。
  だからこれは業務独占の資格としてあるのだ。

  理容師や美容師が業務独占になっているのも、衛生上の面からの措置であり、技術云々
  はあまり関係がない。腕前は少々ヘタでも、それは生命財産に影響を及ぼすというもの
  ではないのだから。
 
  業務独占になっている国家資格として、例を挙げてみると、医師、看護婦、弁護士、公認
  会計士、税理士、建築士、等々である。
  これらはみな相応の専門性を有し、しかも生命や財産に直接的に関わってくるものである。
  そりゃそうだ。医師をやりたい人は誰でもやってよろしい、なんてことになったらコワいもの。

  ただし、コンピュータ技師などで、高度な専門性があっても、生命財産にさほど直接的に
  関わらなければ、業務独占の公的資格とはならない。

  以上のような考察から次のようなことがわかる。
  「相応の専門性と生命財産(特に他人の)に関わるということ、この二つが同時に
  満たされることが業務独占となる資格の要件である」


  ただし、現在、専門的なことで他人の生命に関わることでも、法の不備(行政の怠慢)の
  せいで公的資格がないものもある。
 
  たとえば労働省認定の「潜水士」というのがあるが、それは職業潜水夫のためのものだと
  されて、趣味的ダイバーに潜水を教える指導者の資格はいくつかの営利的民間団体の
  ものしかない。
  遊びのダイビングで、講習中の事故も含めて毎年20人以上の死者が出ているにも
  かかわらず。

  遊びとしてのダイビングには労働省は無関係ということだそうだが、そんな理屈を言わず
  に、現行の潜水士法(業務独占)の「潜水器を用いて行なうすべての潜水業務」は遊び
  の潜水の指導も含むと、お役所お得意の「通達」を指導業者にすべきだ。


 専門職とは

  ここで、専門職とサービス職の比較をしてみる

専門職 サービス職
利益を追求せず公益に奉仕
(結果としての利益は許容される)
営利的に行ってもよい
宣伝は制約される 宣伝は違法でない限り自由
行為責任(家庭責任・方法責任)
結果責任は負わない
評価は自分でする
顧客から評価される
主として結果で評価される
(結果に対して責を負う)
高度な専門性を持つ 専門性はいろいろ
生命財産に直接関与  生命財産に関与少
















  専門職とサービス職に関しては、大略上記のような違いがある。

  単に専門的な仕事だから専門職と呼ぶのではない。サービス職やいわゆる職人仕事に
  おいても専門的なものはいくらでもある。
  専門職とは上記のような要素を持った職業のことを指すのである

  たとえば、医師は手術や薬の処方などの治療行為を専門職の行なう業務として行なっ
  ている。だから、たとえその結果が芳しくなくとも、それ故に法的な責任を負うということは
  ない。
  行為にミスがない限り、(正確に言うとミスが立証されない限り)責任を追及されはしない。
  あとは道義的な責任であり、結局は自分でその責任ををどう感じるか(感じないか)という
  ことだ。

  眼科医は、薬や眼鏡の処方を専門職の行なう業務として行なっている。だからそれを誤っ
  た方法でなく行なえば、それを行なったことでもって専門職である医師としての責任は果た
  したことになる。
  その結果は患者次第、というわけだが「それは無責任だからイカン」とは一概に言えない。

  結果に責任を持たねばならないのであらば、医師はよほど軽い症状の患者しか引き受け
  ないことになる。だから、専門職の人間が結果責任を負わないということは合理的だとも
  言えるのである。

  ただし、普通の眼鏡の処方は結果責任を持つべきものだ。
  ということは、それはそもそも医師という専門職の人間がなすべき事ではないのだと言える。

  また、専門職だと営利を追求してはいけないというのは、当然のことである。

  一般の人には分らない高度な知識や技術を持ち、それで相手の生命や財産を預かると
  いうわけで、いわば相手の弱みにつけ込もうとすればそれが簡単にできるのが専門職だと
  言える。

  たとえば、悪徳医師であれば、「あんたの病気にはこの薬しか効かない。ただ、これは保険
  薬ではないので1回分が10万円で、10回位は飲まないと……」とか言って、ぼろ儲けを
  することだってできなくはない。

  専門職は営利を追求してはいけないとされている所以である。

  だから専門職の人間はその業務に直接関連のあることでは自ら営利企業を営むことは
  できない。 だから眼科医が併設眼鏡店を作るときは家族が代表者となる。
  しかしそれは医療法の精神には反する。

  法の精神とは「正義」である。


 「士」と「師」

  弁護士、公認会計士、消防士、などは「士」であり、医師、鍼灸師、あんま師、演歌師、
  詐欺師、などは「師」である。

  「士」は、もちろん「武士」の「士」である。江戸期の武士はもはや軍人ではなく役人であった。
  すなわち公僕である。

  私利私益を顧みずお家(藩)のため、すなわち世のため人のために奉仕的に働くのが
  公僕
である。 金儲けに精を出す武士なんてのは武士の風上にもおけぬヤカラである。

  そして、武士ならば覚悟がなければいけない。

  どういう覚悟か。言わずと知れた「切腹覚悟」である。いまの「士」は切腹などしなくとも
  よいが、職責を果たせなかった場合には、お役ご免、すなわち資格剥奪となる覚悟は
  しておかねばなるまい。

  一方、「師」は弟子を持つ人のことである。将棋のプロや寄席の芸人などはたいてい弟子
  を持っている。彼らは無償で弟子に教える。自分もそのようにして師匠に育ててもらった
  からである。

  医師も、昔は医学を教える専門学校も大学もなかったから、薬持ち(弟子)に無償で教え
  ていた。(特殊な例としてシーボルトの鳴滝塾は有名であるが、あれとておそらく授業料は
  なしであろう)

  その「お師匠さん」としての名残が「医師」の「師」の字に今も残っているわけである。
  (ただし、踊りの師匠やお茶の師匠などは無償ではない。彼らは月謝で食っているのだ
  から。○○師がみな弟子を無償で教えているわけではない)

  しかし、いまや専門職である「医師」は、実は、「医士」の方がふさわしい
  なぜならば、現在の医師は弟子を持つことはないので「医師」とは言えず、専門職なので
  あるから公益に奉仕するという性格にピッタリ当てはまるからである。

  以上のように見てくると、公的資格で業務独占にすべきなのは、「専門職」として行な
  われる業がふさわしい
ということが分ると思う。


 名称独占とは

  日本国憲法は国民に「表現の自由」を保証している。
  これは民主国家の根本原則だとも言える。

  表現の自由がない国、例えば政府批判をしたらいつの間にか離れ島に連れて行かれて
  いた、なんていう国は民主国家ではなく、たいていの場合、一党独裁となっており、その
  代表者の人物の顔写真が大きくあちこちに掲げられていたりするのである。

  我が国には表現の自由がある。だから「私は超A級の眼鏡士です」と言ってもかまわない。
  すなわち、違法ではない。
  ただし、実際には超D級だったということであれば、結局は本人が恥をかくだけのことで
  ある。
 
  ただ、職業選択の自由と同様に、この表現の自由も「公益の福祉に反しない限りに
  おいて」享受できる権利である
。すなわち、何でもかんでも言いたい放題に言っても
  何のトガメもないわけではない。
 
  好き勝手に言ったり書いたりしたら、場合によっては名誉毀損罪、侮辱罪、著作権の侵害、
  学歴詐称、等々で、違法行為として処罰されることもある。
 
  職名やそれに関する呼称に関しては、基本的には自分の好きに名乗ってよいのだが、
  公共のために必要と認められたものに関しては、特定の者だけに名乗ることを許して、
  その人物には誇りと責任感を持たせ、それに関わる国民にはその人物がその道での規準
  以上の能力を持った人間であることを知らしめるという施策がある。

  それが名称独占の国家資格なのである。


                           ●

  たとえば中小企業診断士は、名称独占の公的資格だし、樹木のケアーをする樹木医
  なども名称独占の国家資格である。それらの人が業として行なうことを資格を持たない
  ものが行なっても、少なくとも法律的には何も問題はないのである。

  また、たとえば、栄養士という国家資格があるが、これも名称独占であるから、栄養士が
  行なうカロリー計算などを業として誰がやっても違法ではない。

  しかし、例えば「給食センターには国家資格の栄養士を(規模に応じて)置くこと」という
  法的な規制または行政の指導などがあったとすれば、その範囲においては栄養士は
  業務独占的な性格を帯びてくるわけである。(それを必置資格と言う)


 「視能訓練士」の業務内容

  
業務独占資格は通常は名称独占でもあるが、20年以上前にできた国家資格の「視能
  訓練士(ORT)」 については「これは業務独占ではなく、名称独占の資格です」と、
  以前に、自身がその資格を持っておられる野矢正氏が言っておられた。

  視能訓練士法には「医師の指示の下に、眼科に係る検査(色素を点眼するもの以外の
  涙道通水色素検査を除く)を行うことを業とすることができる。(診療の補助としても可能)」
  とされている。
 
  視能訓練士法の中の省令において、その業務として下記のような具体例が列挙されて
  いる。

  1) 矯正訓練 抑制除去訓練法・異常対応矯正法・眩惑刺激法・残像法
  2) 検査 散瞳薬の使用・眼底写真検査・網膜電図検査・眼球電図検査・眼振電図検査・
    視覚誘発脳波検査

  もちろん、ORTはこれだけしか行えないというわけではない。たとえば、屈折検査・視野
  検査・眼圧の検査など、ここに示されていないものでORTが日常頻繁に行なっている
  検査はいろいろある。

  そしてこの省令に示された検査は、医師の指示のもとで、ORTだけではなく看護婦や
  保健婦・助産婦等の公的資格保持者も行なえるそうなのだが、では、たとえ医師の指示
  下であっても無資格者には禁じられているものなのか。

  視能訓練士である野矢氏にその点について尋ねると「それについては厚生省も解釈を
  示しておらず、現場でもアイマイで、個々の医師の解釈に振り回されている現状である。
  ただ、国公立病院などでは、ここに挙げられた検査は、無資格の者にはさせないように
  する傾向にある」とのことであった。

  平成7年1月の補聴器技能者の講習会において厚生省の役人が示した資料では[ORT
  は、ここに列挙された業務については医師の指示下で看護婦等他の有資格者とともに
  独占し、その他に名称独占で行なう業務も持つ]となっている。(以上[ ]内はその資料
  の一部を岡本が読解したものである)

  しかし、行政官のそういう解釈の詳細については、ORTである野矢氏もご存知ないようで
  ある。 ということは、役人はそういうことを積極的に医師やORTなどに伝えようとする気は
  ないらしい。 だから、医師でも知らない人が多いのだろう。(あるいは知っていてもそれに
  拘束されていない?)

  また、ORTはそれ単独で独立したものではなく医師の指示監督下でないと何事も
  なせないという点は眼鏡士との根本的な相違点である



                            ●

  なお、この省令で挙げられている検査例の中に「屈折検査」が入っていない。
  それはおそらく厚生省では、屈折検査は危険性が少ないので、医師の指示のもとに
  おいて有資格者が行なわなければならないというほどのものでもない、と判断しているから
  であろう。

  名称独占資格の場合、法理的には業務範囲について細かく定める必要性はないと言える
  から、それに関して細かい記述がもしなされていれば、それは純然たる名称独占の資格で
  はないのかもしれないという印象も受ける。

  そこで、ではその業務を行なえるのはその当該資格を有する者だけなのか、またはその者
  と他の資格を持つ者だけなのか、それとも誰でもOKなのかとなると、それは法源だけでは
  明確ではない。

  法制資格に関する○○法の条文の中に「この資格は業務独占である」とか「名称独占だけ
  である」とか、そんなことは書いていない。

  医師法17条のように「医師でないものは医業を行なってはならない」という書き方であれ
  ば、これは誰が読んでも業務独占だとわかる。

  しかし、「ナニナニができる」という書き方なら、その資格を持つ者の独占業務ではないの
  だとも解釈できなくはない。 なぜなら、もし業務独占なら、医師法17条のように、排他的
  に「○○でなければ○○をしてはならない」と書くはずではないか、とも言えそうだから。

  ともあれ、業務独占のような、という所に、行政官(≒立法者)は自己の解釈権や裁量権
  を残しておきたいのであろうが、法律の正統の解釈権を持つのは、もちろん行政官では
  なく裁判官である。


 眼鏡士は業務独占がよいか

  以上のことを踏まえて、主として眼鏡店において顧客の眼の測定をしたり、眼鏡の加工
  調整をしたりするところの眼鏡調製技術者においては、もし公的な資格を設けるとする
  ならば、業務独占まで行くのがよいのか、それとも名称独占のままがよいのかということを
  考えてみよう。


  答を先に言うと、私は名称独占でとどまるべきだと思う。その理由は次のごとし。
 
  1.生命に直接の関わりはない。

  眼鏡技術者は医師とは違って眼や体に疾患があるかどうかを診るのが務めなのではない。
  眼に合うレンズの度数の提案をし、眼鏡を調製するのがその役目である。だから、生命
  財産に直接関わるものではない。故に業務独占とするほどのものではない。
  名称独占で十分であると言えよう。

  しかし「眼鏡技術者の疾患見逃しで失明や死亡にいたることがあるから、それは大いに
  危険性を持つ業務だ」という意見もある。

  だが例えば、ときどき食中毒で死亡者を出す料理提供業でさえ、業務独占の国家資格を
  必要とはしない。

  また、自転車の運転でもヘタなことをすれば人をはねて死なせることもあろう。しかし、
  だからと言って自転車をなくそうとか、自転車も免許制にしようとか言う声は出ない。

  肥満は病気によることも あるから痩身指導者には医師の診察能力が必要だから医師
  に委ねるべきだと言う人もいない。

  こういうことは常識でもって、その程度(危険性の多寡)を考えに入れて論じるべきである。
  そうしないと非現実的な「過ぎた原理主義」に陥る。


  2.業務独占という強い権利を持つとすると、それ相応の重い義務が課せられ、
   しかも医師の領分を侵すことになる可能性が出てくる。

  
米国のオプトメトリストは、初めは疾患の発見は業務範囲に入っていなかったのに、
  ある裁判がきっかけでそれをやらざるを得なくなり、だんだんと疾患の見逃しに関して
  重い責を負わねばならないようになってきた。(本誌51号でその具体的なことについて
  は述べた)

  英国でも、サッチャーの行財政改革のときにオプトメトリストの検査を医療保険の対象
  から外そうという動きが出たが、オプトメトリスト達は「我々は国民の目の健康に貢献して
  いる。疾患が有れば必ず医師に紹介している」と抵抗し、何とか保険適用の継続を得た
  のだという。
  (木方伸一郎氏による)

  そうなると、米国でも英国でも、検眼者はまずは失策から逃れるということで、疾患の
  見逃しの方に気が行ってしまい、肝心の屈折の方がおろそかになってしまうという傾向
  が出て来がちである。

  ある日本人の米国O.D.のかたが「日本へ帰ってきたら、病気の診察をしなくていいので
  気楽になって、屈折の方に打ち込める」と言っておられた。

  英国のオプトメトリストが自ら叫んだ「疾患発見の義務」は、結果的には自縄自縛になって
  しまっているのではないかと私は思うのである。

  そして、言い換えれば、疾患発見の義務を課されないのなら、業務独占にするほど
  強い権利を持つ必要もないのだと言える
のである。


                           ○

  人間の、いや、動物の行動動機というのは、大きく分けると「不快や苦痛から逃れる」と
  いうことと「快を求めると」いうことに2つに分類される。

  そして、アメーバのような下等動物でも人間のような高等動物でも、みな共通するのだが、
  快を求めるよりも、不快や苦痛を避ける方が行動としては優先するのである。

  だからたとえば、同じ内容のことでも「IT革命に遅れを取ると負けますよ」という訴えの方
  が「この新しい方法で勝ってください」という呼びかけよりも効果が大きいのである。

  それはさておき、医師においても、ややもすれば、治療の成果を求めて積極的に良い
  ことをしてみようということよりも、まずミスをしないことに気が行ってしまうのである。

  たとえば眼科医ならば、眼疾患の見逃しや見立て違いをしないことに気が行ってしまって、
  彼らの意識においては、どう転んでもたいしたことはない眼鏡処方に力を入れるところまで
  はエネルギーが及ばないという傾向が否めないわけである。
 
  もし、眼鏡技術者が業務独占の国家資格とされ、疾患発見の義務を負うならば、結局は
  眼科医まがいの存在になってしまって、眼鏡処方のレベルが上がらないどころか、むしろ
  低下して、圧倒的多数の「疾患とは関係のない眼鏡ユーザー」のためには、望ましくない
  状態になってしまうということが大いにあり得るのだ。


                           ●

  なお、ドイツでも眼鏡技術者は国家資格であり、しかも業務独占である。それはヨーロッ
  パ中世の職人組合に端を発するところの「親方(マイスター)」の伝統から来るものであろう。

  そして、ドイツの眼鏡士の、英米と違うところは検眼士(アウゲンオプティカー)は疾患
  の見逃しに関しては責任を追及されるようにはなっていない
という点である。

  だから疾患を見逃してどうにかなってしまったから賠償せよという裁判があったとは聞いた
  ことはないそうだ。(辻一央氏による)

  ただ、現在はそうであっても、いずれ何かの弾みでそういう裁判が行なわれたならば、
  どんな判決が出るかは分らない。

  ただ、おそらくドイツでは我が国と同様に、眼鏡技術者は眼鏡を販売することを前提と
  して検査をするわけで、検査だけで料金を取るということはしていないはずなので、仮に
  疾患の見逃しがあって訴えられたとしても、おそらく有罪にはならないだろうと私は思う
  のである。

  なお、参考までに言うと、ドイツでは眼科が特定の眼鏡店を指定して眼鏡処方箋を発行
  することは、法律によって禁じられているそうだが、それは処方箋を受ける方のレベルが
  制度によって保証されているからこそ、眼科がその「指定禁止」に異議を差し挟めない
  わけである。

  もし、我が国でも、眼鏡技術者が業務独占の公的資格を持つようになれば同様の措置が
  執られるのが合理的である。

  あるいは、名称独占の資格ができれば、処方箋による眼鏡店の指定は減り、有資格者の
  いる店で作ってもらいなさいとのみ、患者に注文を付ける眼科が増えてきそうであるし、
  そうであってほしいものである。

  なぜなら、たとえ、業務独占でなくとも、公的にレベルが保証された技術者のいる店が
  増えてくれば、現在よく聞く「良い技術のメガネ店が少ないから指定店を設けている」と
  いう指定の理由に説得力がなくなってくるからである。


  3.眼鏡調製(処方を含む)は専門職というよりもサービス職であるから、業務独占
   よりも名称独占のほうがふさわしい。

  普通の眼鏡の処方や調製は、技術者が「自分の力の限り行なった。ミスはなかった」と
  言っても、ユーザーが納得しなければしかたがない。

  すなわち、それは行為責任ではなく結果責任を負うべき性格のものである。
  ただし、病気見逃しの結果、重篤なことになったという意味での「結果」ではない。

  あくまでその眼鏡を使用しての見え方や掛け心地の結果が、処方や購入決定の時点で
  期待していた結果が得られたかどうかという意味での「結果責任」である。

  だから、たとえば具体的には、どうしても満足できないとなれば、返品に応じるというのが
  最大の結果責任の取り方となる。(PL的なことは別として)

  そういう意味においても、眼鏡技術者に法制資格制度を作るとするならば、結果責任を
  負わず方法責任だけを負う専門職に適する「業務独占」よりも、仕事の成果は顧客が
  評価するというサービス職には「名称独占」がふさわしいと結論するのが妥当なのである。

  欧米先進国ではみな眼鏡技術者は業務独占になっている、我が国は遅れている、
  恥ずかしいことだ、などという主張は、ものの見方が浅いところから来るものではないかと、
  私には思える。

  業務独占というのは資格保持者にとっての権利であるが、逆に言うと当然ながら規制で
  あり、相応の責任を課してあるということだ。

  そうしなければ世の中が治まらないから、そうしたのだ、とも言える。

  ということは、そうしなくても特に社会的に指弾を受けるような大きな問題を引き起こして
  いるとは到底見えない、我国のこの業界の状態というものは、ある意味では非常に行儀
  の良い倫理的な技術商人が殆どだということである。
  (ちなみに、消費者センターへの苦情の多いのは、エステ、英会話、訪問販売だそうで
  ある)

  眼鏡小売の商売で儲けるだけなら技術の勉強はさほど必要ではないし、法的な義務でも
  ないのに、これだけいろいろな勉強を続けている眼鏡技術者の多い国、いくらやっても
  儲けにならない「疾患の発見」を「眼鏡店の使命」だとまで言う技術者のいる国は、我国
  の他にはまずないと私は思う。

  これは鈴木正三から石田梅岩の系譜に示される、我が国特有の「勤勉の精神」の発露と、
  狭い国土で互いに思いやりの心を持たないと生きて行きにくい国民性によるものではな
  いか。

  戦前は、楠正成(まさしげ)の「(国や天皇に対する)忠」とその子正行(まさつら)の「孝」が、
  日本人の2大徳目であった。
  戦後は「孝」が薄れ、「忠」が残ったのであるが、その「忠」の対象はもはや国でも天皇でも
  なく、会社や顧客になったわけである。

  また、たった3本の線による「士」という接尾語で、公益に奉仕べき有資格者の精神性を
  見事に表現できる、日本の資格名はすばらしいものだと、私は感嘆してもいるのである。


                           ●

  もし、アメリカのオプトメトリストやオプティシャンが日本の眼鏡技術者(眼鏡商人)から
  「日本では法的な規制がないし、国家資格もないのに、多くの眼鏡技術者はよく勉強して
  上手に処方をする。
  万一、再検査や再製作となればたいていは無料サービスである。そのために眼鏡の処方
  のまずさが社会的に大きな問題となることはない。

  そして、ユーザーは疾患は医師が診るものだと思っており、眼鏡処方技術者に見逃しの
  責任を負わせたりしない」と聞けば、おそらく「それはうらやましい。すばらしい国だ」と賞賛
  するのではないだろうか。

  それから、さらに言えば、業務独占の専門職的な有資格者になってしまえば、
  その人間が同時に商売もする、すなわちサービス職も兼ねるというのは原理的には
  二律背反なのである


  だから、欧米で眼鏡処方を法的に独占業務とする、眼科医はもちろんのこと、オプトメト
  リストにおいても、本来ならば物品販売は手がけるべきではないのだ。

  しかし、過去のいきさつ等の事情によりそれを禁じることもできないのであろう。そうすると、
  検査もしメガネやCLも売るというオプトメトリストの中で心ある人たちは、専門職とサービス
  職との基本的な性格の違いからくる葛藤に悩むはずだ。その葛藤は我国の眼鏡技術者
  でも、レベルの高い人ほど感じているはずだ、もしも彼らが業務独占の専門職的な人間
  になれば、その葛藤はより多くの人たちの中で増幅するに違いない。


 もう一つの落とし穴

  
以上に述べたように、眼鏡士の資格は業務独占にはせず、名称独占のままの方がよいと、
  私は思うのだが、例えば当初は名称独占のはずが、気がつけば業務独占になって
  いたということが起こり得る
と思う。

  それが先ず一つの落とし穴である。

  もう一つの落とし穴とは何か。
  それは眼鏡士法の条文の中に「医師の発行する眼鏡処方箋に従って眼鏡を調製する
  (できる)」という文言を入れることである。
  もし、それが業務独占の資格で、それに反したことを行なって資格剥奪となれば、
  実質的にその人の職業人生が終わってしまう。

  また、名称独占であっても、資格を失えばそのダメージは小さくなかろう。
  だから、業務独占の場合はもちろんのこと、名称独占のつもりであっても、法律文の中に
  「眼科の発行する処方箋云々」があれば、たとえ眼鏡ユーザーが自店での測定処方を
  希望したとしても、処方箋を見てしまえばそれができなくなってしまうかもしれない。
  それは国民にとって有益なこととは到底考えられない。

  なぜなら眼科の眼鏡処方レベルは全般的に見て決して高いとは言い難いし、今後も
  それは容易に改善されるとは考えにくい
からである。

  それに関して私はこれまでにいろいろ具体例やら、その構造的原因分析やらを述べて
  きたので、改めてここでもう一度書くまでもないと思う。

  眼科の発行する眼鏡処方箋は、法律的な裏付けがまったくないからこそ、我々が
  顧客と合意の上で顧客と我々の責任において、それに従わずに眼鏡を作っても
  少なくとも法律的に問題にされるということはない
のである。

  それが法律で禁止されるとなれば、これは国民にとって不幸不利益という他はない。

  眼科処方箋に従う旨の条文は眼鏡士法案の第一次案にはなかった。
  それが眼科医会側の押し返しで出てきた第二次法案に入ってきたのである。

  それを見たこの業界の首脳が「これはイカン」と感じなかったとすれば、それは現場を
  知らないか、あるいはタテマエで「まあ入れておいても良かろう」という程度に軽く考えた
  かのどちらかであろう。

  おそらく後者だと思うが、法律はタテマエだけで終わらせられない実質強制力を
  持ったこわいもの
なのである。

  あの第二次法案にあった「眼鏡士は医師の処方箋に基づき眼鏡を調製できる」という
  文言は、行政官の恣意により、「しなければならない」と解釈されてしまうということも絶対
  にないとは言えない。
  あるいはそれが解釈の範囲を超えているというのであれば、そのように法改正されること
  もないとはいえない。

  そもそも、純然たる名称独占の資格なら、「なになにができる」という表現自体がおかしい
  のである。 なぜなら、業務独占でない限り、誰でもその業務ができるのだから。

  そして、眼鏡士の公的資格が名称独占ではなく業務独占であったとすれば、なおのこと、
  医師の眼鏡処方箋云々の記述は入れるべきでないと、私は言いたい。

  また、第二次法案にある「眼鏡士は、眼鏡を調製するため、必要がある場合には、
  利用者の求めに応じ、厚生省令で定められるところにより、視力測定の補助を行なうこと
  ができる」とする文言も、解釈のしかたによってはコワい。

  たとえば「必要がある場合には」としてあるが、どんな場合に「必要」と見なされ、どんな
  場合に「必要ではない」と見なされるのかがわからない。

  半径500m以内の近隣に眼科があれば、そこへ行くべきで、その場合には眼鏡店での
  検査は必要とは言えない、とか、あるいは、眼科が休みの日でなければ眼鏡店での検査
  は必要とは言えない、なんて解釈も絶対に成り立たないとは言えまい。

  また「利用者の求めに応じ」というのを、「利用者の方から『ここで測定してほしい』と言わ
  れた場合に限る。そうでなければまず眼科での検査を勧めるべきだ」なんて解釈もでき
  ないとは言えまい。

                           ●

  ついでに言っておく。
  第二次法案の中に「検査は省令に基づいて」云々の記述がある。これも実は危ういもの
  なのだ。

  なぜなら、これはモロに立法権を、我々が選挙できる国会議員ではなく、国民の罷免権
  の届かない中央官庁の行政官に献上してしまっていることになるからである。

  昔から官僚が幅を利かす国家である我が国は、もうすでに行政による三権簒奪という
  横暴が蔓延している。
  それは実はゆゆしきことで、役人の恣意により、この国があちこち好きな方向に向けられ
  てしまうということなのであるが、その傾向を容認助長するような「省令により」などという
  条文は百害あって一利なしと言える。

  元の条文だけでは解釈が分かれ、ある行為が合法なのか違法なのかがハッキリしないと
  いうことが起きたら、それを役人に勝手に決めさせるのではなく、裁判で判決を得て判例
  を作るか、あるいは法律を改正すればいいのである。

  それが近代民主国家の根本なのだ。

  省令によって我々のしていいこととしてはいけないことが容易に決められてしまうという
  ことになれば、この国の全眼鏡技術者の鼻面を役人が自由に引きずり回せることになっ
  てしまうのだ。(なお、省令は国会の承認がないと法律の中に組み入れられないことにな
  っているが、実際にはそれは形式的なものであり、役人が決めてしまえば、それで決定
  だということになる)

                           ●

  大事なことを一つ言っておこう。

  業務独占でも名称独占でも、眼鏡士の資格を作るときには、眼鏡士には疾患を
  診察する責任はない旨を明記しておくのがよい
と思う。

  そうしないと、いずれ何かの拍子に実質的に疾患の発見が義務づけられて、見逃しの
  訴訟対策のために多大な保険金を負担しなければならないようになるかもしれないので
  ある。


 公的資格ができれば

  ここで少し趣を変えて、もし、主として眼鏡店において眼鏡を測定調製する技術者に関
  して公的資格が与えられるとどういうことになるか、我々や国民にとってどんな良いことが
  生じてくるのかということを考えてみよう。

  その本題に入る前に、「資格はそもそも誰のためのものか」ということを予め考えてみる。

  それは業務独占と名称独占とでは多少異なる。
  どちらも最終的には「国民のため」であることには違いがないのであるが、業務独占資格
  の方が「資格保持者のためでもある」という一面が強くなる。 

  なぜなら、そういう公益に奉仕する業務というものは、本来営利目的に行なわれてはなら
  ないのだから、経済的動機や余得に代わる何か、例えば本人が感じる誇りや名誉とか、
  資格者に国民が感じる社会的地位とかが付随しなければ、到底資格保有者が任務を全
  うする気持ちにならないと言った側面があるのだ。

  そうでなければ責任だけ重く、しかもたいして儲からない仕事(今後は医師も弁護士も
  以前のような高収入は得られ憎くなる)などに就こうとする人は、非常に少なくなるであろう。

  それはともかく、資格というものは、国民のためというのが第一であるが、第二は資格保持
  者のためであり、決してその資格に関わる教育産業や公益法人などの収入増のために
  資格が作られたり存在するのではない。

  たとえば公益法人に天下っている役人がその関連の資格のせいで潤うということがあっ
  ても、それはあくまで副産物に過ぎない。そういう人たちを養うために資格が存在するの
  ではない。

  そこのところを先ず、しっかりと認識をしていただきたい。
  なお、資格は本人のためでもあるというのは、もちろん、それによって勉強意欲、誇り、
  責任感、安定収入(生活の糧)などを得るということである。


                           ●

  では、この項の本題に入る。眼鏡士の公的資格ができれば、どういう良いことがあるか。

   「名称独占」ということで考えてみよう。
  なお、以下に列挙することのうち、1〜3については制度が発足してからかなりの年数が
  経ってから実際の効果が現れると思う。なぜなら制度発足時には既得権的な措置で、
  実力ではかなり劣る人でも「眼鏡士」になるであろうから。


                           ○

  1.ユーザーの判別性

  まず、顧客(眼鏡ユーザー)からは、相応以上の能力のある技術者を判別することが容易
  になる。
  いまでもプライベートな資格の「眼鏡士」や「眼鏡○○士」は大勢居るが、実際のところ
  それらは玉石混交であり、あまりアテにはならない。

  国家資格なら、ま、大丈夫だろう、というわけである。
  ただし、名称独占であれば資格がなくてもその業務をなし得るのだから、実力はあっても
  規制を嫌ってあえて有資格者にはならないという人や、営業力に自信のある大型店で、
  そんなのはなくてもドンドン売れるということで社員には資格を取らせないというところもある
  だろう。

  だから、資格がなければヘタな人、とは言い切れないのだが、資格を持ってればソコソコ
  の人、と言えるから、やはりユーザーが技術の良い店や人を選びたいというのなら、名称
  独占の国家資格は好ましいものであると言ってよかろう。


  2.資格取得による技術者のレベルアップ

  資格を取得する際の、技術者の勉強がより広く深いものになろう。眼鏡技術者全体の平均
  レベルは上昇するに違いない。

  そして、取得すれば、誇りと共にそれに伴う責任感が生じる。(中には誇りだけで責任感の
  ない人もいようが)

  また、資格を維持するために講習受講などが義務付けられれば、勉強も継続する。

  名称独占なら、無資格者でも有資格者とおなじことをしてよいのだが、有資格者の団体に
  よる国家資格の宣伝広報が行き渡ってくれば、無資格の人はうかうかしておられないという
  気分になってこよう。

  自営業者の子弟の場合も、無資格では肩身が狭いから、いまよりもずっと眼鏡学校へ行く
  率が高まり真剣に勉強をする人がもっと増えるだろう。

  自営でなく勤務技術者の場合には、国家資格は勉強への強烈なインセンティブ(誘導
  動機)となるし、それを取得すれば給料が上がるとなれば、本人の生活のためにもなる。


  3.技術者を雇用する場合の評価の容易性

  眼鏡店が技術者を雇用する場合に、国家資格の保持者であれば、一定のレベルに達して
  いることがわかりやすい。
  資格がなくても独自に試験をすればわかるのだが、そういう適切な試験を実施できる眼鏡
  店は少ないのが実状である。 現状ではほとんどの場合、経験年数だけで判断や推定を
  しているようである。


  4.眼科が患者に眼鏡店を選ぶ方法を示しやすい

  普通の眼鏡の処方は眼科は行なわないのがよい
、というのは私の持論である。

  その理由はこれまでに何度も本誌で述べているが、極く簡単に列挙しておく。
  
  ・ 普通の眼鏡の処方は病気の診断でも治療でもないから医行為ではない。
  ・ 眼科には眼鏡処方が上手になれない構造的な原因がいくつもある。
  ・ 再検査再調製の費用負担の問題。
  ・ 結果の不具合が起きた場合の、処方者と調製者の責任の不明確化。……などである。

  それで、眼科では屈折検査だけにとどめ、眼鏡処方値の決定は眼鏡店でということになっ
  た場合に眼鏡ユーザーの中には「どこの眼鏡店がいいのですか」とか「測定技術のよい
  眼鏡店を紹介してください」とか言う人もいよう。

  その場合に眼科が公益法人であることを考えると特定の店を指定することは望ましいとは
  言えない。

  そこで「国家資格の眼鏡士が測ってくれる店へ行きなさい」と言えばいわけである。
  あるいは、患者の方から聞かれなくとも、屈折検査を終えて患者が眼鏡を希望し、それが
  治療的なものでなければ、医師からこう言えばいいのである。 「あなたの場合は単なる
  老眼(近視etc,)で病気ではありません。ですから医療機関は関与しません。眼鏡店で
  測定処方調製をしてもらってください。その場合に、国家資格の眼鏡士が測ってくれる店
  の方が安心でしょう」

  あるいは、例えば「このメガネ調子が悪いのです。作った眼鏡店では慣れてくださいとしか
  言いません」と言って患者が来たら、一通りの検査をして疾患がないとわかり、なぜその
  眼鏡でうまくいかないのかも今ひとつ明確でなければ「国家資格の眼鏡士のいる眼鏡店
  でその眼鏡士に相談しなさい」と言えばいいのである。

  もっとも、そこへ行っても解決しないこともあろうが、何軒か眼鏡士のいる店を回っている
  間に解決するかもしれない。

  どんな社会でも、人間には常に誰にでも運不運はつきまとう。それを根絶することはでき
  ない。 ただ、場合によっては、保険や社会保障などの制度その他によってその不運に
  よるダメージを軽くすることができるだけである。


  5.教育機関の経営に寄与

  
国家資格があるのと無いのでは、眼鏡学校への学生の応募状況も大きく違ってくるし、
  学校に入ってからの勉強の熱の入り方も変わってくるだろう。


  6.業界のまとまりが良くなる。

  社団法人が行政機関に代わって国家資格を持つ技術者の管理をすることになれば、
  そこを中心として業界(特に小売業者)のまとまりが良くなることは確かだろう。

  ただし、もしかすると「国家資格派」と「反国家資格(社団法人)派」に大きく色分けがなさ
  れるかもしれない。

  いずれにしても、この業界における国家資格ができれば、それを運営する社団法人の
  権威と権力と金力は今よりも数段強くなりそうである。


  7.眼鏡技術者の違法性の排除

  現在でも眼鏡技術者の眼鏡処方が違法だとは考えられない。その理由については本誌で
  何度も述べているのでここには省略する。それでもさる方面などから「眼鏡技術者の検眼
  は違法だ」との声が挙がることもあろう。

  国家資格ができ、その業務範囲が明記されればそういう声は皆無になり、みな誇りを持っ
  て仕事に精励できる。


  8.ユーザーから技術者に対する信頼性が高まることによる余得

  
たとえば、精一杯やってもこの見え方しか見えない、しかたがないのかなあ、という場合に、
  測定処方した人間が国家資格の持ち主であれば、「あなたの場合はこれ以上どうにもなり
  ません」という言を聞き入れてもらいやすい。

  また、枠の直しのときに前もって「もし壊れた場合はあきらめてください」と断りを言うときも、
  国家資格保持者が言えば受け入れられやすいだろう。

  また、検査や処方や調整で料金をもらいたいときにも、それが通りやすくなりそうである。


                           ●

  ざっと以上のようなことだが、逆に、名称独占の国家資格(ただし、好ましい内容で)になる
  とどういうデメリットが出てくるかを考えてみると、それは特にこれと言って大きなものはなさ
  そうである。

  強いて挙げれば「コスト増」か。
  すなわち、有資格者を雇用する企業の人件費が増える、あるいは、自営業者の子弟でも、
  眼鏡学校へ行かねば資格はとれないとなれば、教育費が増す。
  また、社団法人に払う会費や講習料の金額も、いまよりも高くなることは必至であろう。
  そういうコスト負担を各業者で吸収できなければ、それがユーザーに跳ね返ってくることも
  あり得るわけである。


 「必須」と「望ましい」の違い

  たとえば、我々の行なう検査や眼鏡処方においては、次のような「程度」の違いがあるの
  ではないかと私は思う。

  1.必須
    正確な自覚的屈折検査・基本的な両眼視機能検 査・適切な処方度数の選定

  2.望ましい(しないよりもする方がよい)
    他覚的屈折検査・疾患に関する大ざっぱなスクリーニング・視力が出にくい場合の
    眼科受診の勧奨・定期検査

  3.許容される(してもよい)
    その他の危険性のない検査(視野・眼底他)、眼科処方箋を持参の顧客から要望が
    あった場合の自店での検査や処方

  4.望ましくない(しない方がよい)
    医師と紛らわしい服装

  5.禁止(してはならない)
    直接の危険性を持つ行為

  上記において私は「程度の段階」を言いたかったのであり、各程度において挙げた例は、
  あくまで「たとえば」の私見である。
  これは論者によって変わり得るし、場合によっても違ってこよう。

  また、法律的に捉えた場合と眼鏡技術者の職業倫理として考えた場合でも異なるかも
  しれない。 だから、上記の例示は固定的なものではないことを付言しておく。

  ここに挙げなかったことで、たとえば「視力が出にくい場合の眼鏡処方調製」などは、
  2か3か4かは一概に言えない。顧客の意向とか、顧客が眼科にすでに行っているのか
  どうかということによって大いに変わってくる。

  とにかく、たとえば単に「眼鏡士の法制資格化は必要なし」と言うだけは、2・3・4のどれ
  なのかが分らない。

  この種の叙述ではもっと明確に厳密に表現する必要がある。


                           ○

  それでは、眼鏡技術者の公的資格化は、この5段階のうちのどれだと、私は主張する
  のか。

  それは2である。すなわち「望ましい」とは思うが「必須」ではない。

  
なぜなら、いま無理にもそれを実現しようとすると、先の第二次法案のようにまずい内容
  のものになってしまいがちだからである。

  もちろん、その業務内容においていま我々が行なっていることから、多少の譲歩というか
  後退はあってもよいが。その譲歩なり後退の内容が問題なのだ。

  たとえば、6歳以下の幼少児には眼科処方による眼鏡調製に限るとか、屈折測定の場所
  に「眼鏡技術者には疾患の診察能力はない」と掲示する、などは特に問題はないと思う。
  しかし、たとえば眼科処方箋絶対遵守などという不合理な内容を含む法制資格化なら、
  やらない方がずっとマシである。

  兵に拙速なしと言われるが、立法に拙速はある。
 
  眼鏡士法がもしもあの第二次試案で成立していたら「拙速」のいい見本になるところだった。

  急がば回れ。
  業界全体で、どんな内容の資格にすべきなのか、もう一度一から検討し直すことが
  必要だ。

  なんとかの一つ覚えのように「現行業務」と言うばかりでは具体性が不足である。
  
  たとえば、実際のところ眼科の処方箋があっても場合によってはそれとは別に処方調製
  している実態も現行業務である。

  すると処方箋遵守を唱った第二次試案は現行業務から外れていることになるではないか。


 私の遺言

  眼鏡レンズは今もメーカーで製造販売をするのには認可を必要とする医療用具である。
  それが厚生省の管轄であったがために、この業界の首脳陣が厚生省やその族議員とつ
  ながりができてしまった。

  そこはまた医師の意見が強く反映されるところでもある。
  ゆえに望ましい内容での法制資格化がなかなかできない。

  通産省かどこかでやればよいのにと思うのだが、いまの業界首脳が全部入れ替わらない
  限りそれは無理だろう。
 
  だから、当分は良い内容での法制化は無理だし、ヘンな法制化ならしない方がよい。

  私は、あと5年で私の父が死んだ歳になる。
  私の友人は去年急病で亡くなった。
  私もいつまで生きられるかはわからない。

  私が死ぬまでに眼鏡士法ができるとは到底思えない。
  だから、後世の人に遺言として言っておこう。


 眼鏡士の法制資格化においては、二つの落とし穴に注意されたし。

  一、業務独占になってしまうこと。
  一、眼科の眼鏡処方箋云々は明記せぬこと。

  
それをすると、国民のためにも、眼鏡技術者のためにも好ましくないと考えるからである。


  それから、眼鏡士法の条文に、疾患発見の義務はないことを明記しておくのが望
  ましい



                                           (平成13年3月)


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