「nos」@unspiritualized(以下、nos)という人物が私の金明秀論考への批判とその後の抗議に関連して、金光翔氏による「続・金明秀の弁明について(1)」という記事を批判した。私としては、金光翔氏によるnosへの批判に付け加えるものはなく、また、金明秀の弁明への批判も的確なものであると考える。nosの、私が金明秀の記事を誤読している、という指摘も著しく説得力を欠くものであるため、付け加えて反論することはない。
ただ、私は、このnosという人物の一見「良心的」でありながら、決して問題を自らのことと受け止めようとしない姿勢、そして平然と朝鮮人の主体性を横領しておきながらそれに気づかない鈍感さには、憤りを禁じえない。おそらくnosにとって、こうした断定は不本意であろう。何より、nos自身が「ほんらい僕らが考えねばならない」と繰り返しているのであるから。しかしその「僕らが考えねばならない」が問題なのだ。 nosは、金明秀と私の主張は「どちらも正しい」という。しかし、私と金の主張は相互に排他的である。もし金の主張が正しいならば、私の主張は誤っている。例えば、金の「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ、という主張は誤っている、朝鮮学校側はこうした主張(戦略?)を採用すべきでない、と私は主張した。もし金が私の批判を正しいと考え受け容れるならば自説を修正せざるを得ないし、逆ならば私の批判が誤っていることになる。つまり、両者が「どちらも正しい」ということはありえない。そもそも私はそのような中途半端な形で問題を提出していない。 また、nosは「原理的な正しさでそれをなくせるのか。短期的かつ即効的に苦しみを取り除く手段が是でないと言えるのか。悩んだ。」と書き、私と金の対立構図を「原理的な正しさ / 短期的・即効的に苦しみを取り除く手段を是とすること」として描く。そもそも「原理的な」とわざわざ限定をつけるところに違和感を抱くが、それは措こう。私の記事を読めばわかるように、私は金の主張は有効性すらない、と書いた。つまり金の主張は誤っているだけでなく、「短期的かつ即効的に苦しみを取り除く手段」、すなわち、朝鮮高校生への即時無償化を勝ち取るための有効な手段ですらない、と主張したのである。これは私にとって非常に重要なポイントである。つまり私は金の主張のすべてが間違っている、と主張したのである。 *金明秀の「戦略」の問題点についてはブログ「lmnopqrstuの日記」の記事「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について」がさらに精緻な批判を加えている。 にもかかわらず、nosは私と金の対立を「原理的な正しさ/短期的・即効的に苦しみを取り除く手段を是とすること」として捉えた。これは、金の主張には有効性すらない、という私の批判が妥当しないことを前提にしなければ成り立たない構図である。この点を理解せず、nosは私と金の「どちらも正しい」という。しかし、以上見たとおり、私と金が「どちらも正しい」ことはありえない。よって、nosは金光翔氏のいうように、「公共的な議論に必要な最低限の論理性」を欠いていると思う。実際には、nosは金の主張が「正しい」ことを前提に議論しているにもかかわらず、それに気づいていないからだ。 そもそもnosは、私も引用したように、当初金に「お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは」というまっとうな問いを投げかけた。これに対する金の返答は、著しく論理性を欠くものであり、端から見ていても私にはnosが何に納得しているのか全く理解できなかったが、nosによれば、納得した理由は「マジョリティー(日本人)として、かくあるべきという理念を優先させるべきだという考えは、いままさに被害を受けているマイノリティー(「現実に犠牲となっている人々」)からすればおかしいものではないか、という点に気付かされたからだ」という。しかし、もしこの言明どおりだとするならば、nosは主張の妥当性の問題を、マジョリティー/マイノリティーという立場性の問題にすりかえていると言わざるを得ない。 ここで問題となっているのは、マイノリティ一般ではなく、金明秀個人の主張である。言うまでも無く、金の主張の責任を負うのはマイノリティ全体ではなく、金明秀個人である。nosによる疑問は、「マジョリティー(日本人)」の立場からは言うのをはばかられるような性質のものでもない。また、nosは勝手に金に「いままさに被害を受けているマイノリティー(「現実に犠牲となっている人々」)」を代理させているが、これもおかしい。こういった一見相手の立場性を尊重しているような態度をとり、また、自らがマジョリティであるという立場性を理解していることを装いながら、その実相手の主張そのものにまともに向き合おうとしない姿勢というのは、極めて問題である。本来なら、こうした「納得」の仕方は金明秀に対しても失礼なのであるが、金自身はむしろnosの失礼さ・鈍感さに救われているため、その問題点は決して暴かれることはない。nosは金光翔氏による「金明秀と日本人馬鹿左翼の馴れ合い」という批判にいたく立腹しているようだが、こうした関係性は「馴れ合い」以外の何者でもない。 何より私は、nosのこうした一見立場性を尊重しているように見せかけながら、その実、朝鮮人の主体性を横領していることに全く気づかない鈍感さに、心底憤りを感じる。nosは私と金の「分断と衝突の責任は、日本人にある。ほんらい僕らが考えねばならない」「そして、これら二つの「正しさ」に分断を強いているのは、他ならぬマジョリティーの自分自身である。」と述べているが、冗談ではない。確かに朝鮮学校「無償化」排除問題の責任は日本政府とそれを許容する日本人にある。しかし、私の金への批判の責任を負うのは私である。そして、金は金の責任において反批判を避け、支離滅裂な弁明を繰り返し、私を不当にも罵倒しているのである。それともnosはこうした論争は、何らかの抑圧が存在すれば「マイノリティ」のなかで自然発生的に起こるものだとでも思っているのか? そもそもnosは「外からえらそうに、青い意見だとわれながら思うが、両者の交点が見いだされることを願わずにはおられない。」などと述べているが、この間一度もまともに「意見」を述べていない。私は、nosが「青い意見」を言っていることに憤っているのではない。「考えなければならない」ばかりを連呼して、「考えている私」アピールに終始し、その実まともな「意見」を一度も表明しておらず、責任を負おうとしていない。にもかかわらず、勝手に対立構図を作り上げて仲裁者ぶった振る舞いを繰り返していることに憤っているのである。 なぜ「交点」など見出さなければいけないのか?上にも書いたが「交点」など存在しない。問題は明瞭に提出してこそ意味がある。私は金が自らの誤りを認め自説を取り下げたとしても、それをもって直ちに金の全人格が否定されるとも、全言論活動が誤っているとも、その研究内容が信用できないものとなるとも思わない。逆もまた然りである。当たり前のことではないか。ただでさえ今般のやり取りは、金の対応のために「論争」の体をなしていないというのに、nosの仲裁者気取りの振る舞いは迷惑以外の何者でもない。仲裁者などいらないので、やめていただきたい。 ■
[PR] by kscykscy | 2012-05-04 00:00 | 抗議
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