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【グラニュース】


13年グランパス検証 ピクシー現象の果て<中> 届かなかった不満

2013年12月18日 紙面から

 ドラガン・ストイコビッチ監督(48)は2008年の就任当時、監督どころか指導経験すらほとんどなかった。JリーグのS級に相当する欧州サッカー連盟のプロライセンスも、グランパスからのオファーを受け、間に合わせで取得したにすぎない。グランパスはピクシーを監督として育て上げなければならなかった。

 そのための“教育係”が、ボスコ・ジュロヴスキーコーチ(51)だった。最初はピクシー自身も経験不足を認識しており、ボスコが考案した戦術や練習メニュー通りに旗を振っていればよかった。久米GMら首脳陣と現場とのパイプ役となったのもボスコ。2人の良好な関係をベースにチームは成長し、2010年に初優勝を果たした。

 だが、先日マケドニア代表監督に就任したボスコが「最大の後悔は11年」と振り返ったように、この年、連覇を逃したことがターニングポイントとなる。12年からピクシーは独自色を出そうとし始め、13年にはボスコの意見にほとんど耳を貸すことがなくなった。その結果、キャンプで導入した新システムをわずか第2節で投げ出すなど、采配は迷走。5連敗、14位で前半戦を終えた。

 J2降格を現実的な危機と捉えたクラブは、6月の飛騨古川キャンプを前に、ボスコを中心にチームを立て直すように要請。ピクシーもこれを受け入れ、夏場の巻き返しに成功した。成績が波打った13年シーズン。MF藤本は「しっかり練習した時期は良くて、していない時期は悪い。それがはっきりと出た」と指導の差を要因に挙げた。「来季もピクシーなら移籍する」と言った選手は1人や2人ではなかった。

 ピクシーは「私は質の高い練習を提供してきた。その証拠に選手からは一度も不満は聞こえてこなかった」と胸を張っていたが、それは選手の声が届かなかっただけにすぎない。コーチ陣やチーム統括部が選手の不満を吸い上げ、苦言を呈することができていれば、ピクシーは監督として成長できたはず。選手たちから後ろ指差される「裸の王様」になることはなかったのかもしれない。

  (宮崎厚志)

 

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