聖イグナチオ教会
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神戸中央教会
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池長大司教様が作った教会だけが復活のキリスト像を掲げているわけではないけれども。
単純な話をする。
私は未信者の時、求める心はあってもまだ教会の具体的な導きに与っていない頃、夜の暗い御聖堂で主の磔刑像を見上げて、心慰められたものです。
それは、「神の御独り子がこんなに苦しまれた。私達のために」と考えたからでした。
またそれ以前、夏の奥多摩でのプロテスタントの学生達によるバイブル・キャンプにただ一人の未信者として参加した時も、何度も聞かされました。「イエス様は私達の罪のために十字架に掛かられた」と。
プロテスタントと云えどもキリスト教なのだから、これは「当り前」です。
「当り前」なのです、大司教様。(そして、他の神父様方。)
「イエズス様は私達の罪のために十字架に掛かられた。このことに私達は感謝し、この故に彼に栄光を帰さなければならない」
これは「当り前」のことです。
しかし、池長大司教様というお方は意外とこの「当り前」ということを大切になさらない。ご自分の脳髄から気の利いた "新機軸" を出したがる。しかし大司教様、それ全体「浅薄」なことです。
何故、「イエズス様は私達の罪のために十字架に掛かられた」──この、天主の宗教にとってまさに核心的であるところのものを隠したがるのですか。神の愛も救いも全部、御子のその御業から、その御功徳から来ているのではないですか。キリスト教のまさに核心が、本質が、それではないですか。それを何故、あなたは隠したがる。
確かに、主の磔刑像や十字架の道行きのプレートを見て怖がる人もあるにはあるでしょう。しかし、そこを「教える」のが聖職者の役目ではないですか。「ええ、あなたが吃驚なさるのは分かります。しかし、これはこうこうこう云うわけなのですよ」と、要するに「受け止め方」を教えるというのが、聖職者の役目である筈ではありませんか。そこを「多くの人の目には辛く映るから」という理由で磔刑像を外してしまうなら、あなたは何と「教師的熱心」の薄い人であることか。(あなたは「天主から派遣された教師」です。)
そして第一、主に呼ばれた人というものは、「イエズス様は私達の罪のために十字架に掛かられた」、この正道を通ってちゃんとやって来るものではありませんか。
あなた様方が「国民性・民族性」と云うものに目を取られて「日本人にはどうしたらよかんべー」と、無い頭(神と比べて)をこねこねしながら考えるようなことではないのです。
小智才覚のインテリの皆さん(池長大司教様ばかりでなく)、あなた方はどこか根本的に自惚れておられるのではないですか。
私達は「国民」であるより先に「人間」です。天主様がお作りになった「霊魂」です。生まれ落ちた瞬間に於いては、私達は「日本人」でも「アメリカ人」でもありません。生まれ落ちた次の瞬間から──1秒後からか数年後からか知りませんが──初めて「文化的影響」を受け始めます。その意味では、「国民性・民族性」は確かに私達の "外皮" です。その奥にはちゃんと「普遍性」の "核" があります。人間としての普遍的な性質が。桃の種のように。
あなた方の使命は、物事を「国民性・民族性」に合わせることと云うよりは、その人間の「普遍性」を "掘る" ことである筈ではありませんか。
例えば、何度も言うようですが──
「崇敬」に於いて、"跪く" という「より身を低くした姿勢」は、"立つ" という「より身を起こした姿勢」よりも、比較的に、しかしはっきりと、より目的(崇敬)に適っているだろう。
──という "感じ方" は、ほとんど万国共通であり、人間にとって普遍的なものです。これは "核" にあると云うより、ほとんど "外皮近く" にあるものです。観察し、見出すのに、ほとんど苦労は要らないものです。"掘る" などと云った必要がないほど普遍的です。参照
それなのにあなた方は、観察とも言えぬ、ごくごく浅い瞥見をしただけで、もう「日本的、日本的」と走るのです。走ったのです。
遠藤周作がしてみせた霊性の類型対照としての "西洋 vs. 日本" という構図は、単に「一理ある」というに過ぎないものです。それをあまりに固定的に見るのは、人間の「普遍性」を "殺す" ことです。
カトリック(普遍的)の聖職者が普遍性を殺すのです。