結 論
まだ続けるつもりですが、一回締めておきます。
私は結論を次のように置こうと思います。
池長大司教様は、「伝統的カトリシズム」を否定しているので、もはやそこに根を張っていません。
それに加えて、今まで見て来たように、彼は「聖書」にも根を張っていないのです。
何が残りますか。
彼の「夢」が残るのです。少し「キリスト教風味」の。
「彼は伝統的カトリシズムの全てを否定しているわけではないだろう」という、擁護、或いは希望的観測が出て来そうです。
しかし、彼が聖書とさえまともに付き合えないのであれば、そのように言ってみることに何か意味でもあるのでしょうか。
聖書とさえまともに付き合えない人が、「私も伝統的カトリシズムの全てを否定しているわけではありません。伝統的カトリシズムが含む、これと、これと、これは、もちろんいいものです」とか、正しい選択(というものがあるとすれば)ができると思いますか。
否、聖書とあのような勝手な付き合い方をする人には、そんなことはハナから無理であります。