個人的で感覚的な言い回しを採るのでなく
きちんと聖書に基づくべきである
細かいところまで吟味しておきます。
(…)私が感じていた通りに書かれているのです。神は向こうから裁くような方ではなく、人間を救うほうに強烈に傾いていらっしゃる。罪が悪性であるのは確かですが、それを乗り越えて、神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。
大司教様の言葉は不明瞭です。
この不明瞭さは、読む私達にとって問題である以前に、大司教様ご自身にとって問題だろうと思います。
つまり、この不明瞭さは、大司教様が物事をぼ〜〜〜っとお考えになっている証しだろうと思うのです。
つまり、大司教様はご自分の口から出ている言葉さえ具体的にイメージできていないのではないかと私は疑います。
イメージングの力の弱い人の言葉は危ういと思います。
その人自身をも欺くと思います。
「神は向こうから裁くような方ではない」
ご自分が何を言っているのかご存知なのでしょうか。
つまり、ご自分の口から出たこの言葉がどのような "現実" を意味することになるのかをちゃんとイメージしておられるのでしょうか。
「向こうから」とはどういう意味でしょう。
「好き好んで」という意味ですか? 私は大司教様のこの言葉を「神は人間を好き好んで裁くような方ではない」と言い換えることが出来ますか? もしそうなら、この言葉は「神は人間を裁きたくて裁くのではない」ということになり、神はやはり人間を裁かないことはない存在になります。
私はこのような曖昧な言葉遣いをする大司教様に率直にお訊きしたい。神は人間を「裁く」ことが「ある」のですか「ない」のですか?
「裁く」という言葉自体が、「向こうから」というような、或る種の "積極性" をイメージさせます。ならば、はっきりさせるために、別の言葉で考えてみましょう。
大司教様のお考えは、神は「出て行け」と "積極的に追放" することは「ない」ということですか。イエス? いいでしょう、では、「わたしはあなたがたを知らない」というかたちで "拒む" ことはどうですか。これも「ない」のですか? (マタイ 25:12)
そのへんのところをはっきりさせてください。
そして、真理を暗ませる勿れ、であります。
大司教様の言葉の「不明瞭さ」は、大司教様の判断の「不分明さ」の表われであるように思えてなりません。
「人間を救うほうに強烈に傾いていらっしゃる」
しかし、この「強烈に」というのは、「過度に」と同様、「程度」を表わす言葉です。この言葉を使う人間の主観が入るものです。
しかし、このような大司教様の曖昧で感覚的な言葉遣いも、ぼんやりした人々の胸には響くのです。私が大司教様の言葉遣いが嫌いなワケはそこにあります。それは人々の理性を曇らす言葉遣いです。
「伝統的カトリシズムは厳罰の神を過度に強調しすぎた」というフレーズを置けば、〈具体的に何を〉〈何を基準として〉〈何ゆえに〉「過度」と言うのか(参照「具体性と基準」)という問題が問われないまま、厳しいことが嫌いな人々(大半の人はそうですが)の胸に響くのです。
「神は人間を救うほうに強烈に傾いていらっしゃる」というフレーズを置けば、「では、神は人間を如何なるかたちでも裁くことはないのか」と問い返されることのないまま、神の愛を信じたい人々の胸に響くのです。
しかし、聖職者と信徒、一緒に愚かになっても仕方がありません。私達はそれらを問わなければなりません。
聖書に基づくべきである
私も、神は愛に強く傾いたお方だと思います。何故なら、例えば、聖書にこうあるからです。
神はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。
しかし同時に、神は「裁く」こともなさるお方だと思います。何故なら、例えば、聖書にこうあるからです。
こうして、この者たちは永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠のいのちに入るのである。
この聖言[みことば]は──(1)「刑罰」とある限り、神が「裁く」こともするお方であることを言っています。また、(2) 人間の行き先は「救われ」と「滅び」という二つに分かれる、ということを言っています。また、(3)「救われ」も「滅び」も共に「永遠」であるということを言っています。
この種の聖言はこれだけではありません。前々回を参照して下さい。
私達は聖書から「いいとこ取り」してはなりません。自分の気に入るところは取り、気に入らぬところはあたかも無きが如くに扱う、というのではなりません。
それなのに、大司教様の結論は何ですか。
罪が悪性であるのは確かですが、それを乗り越えて、神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。
これは「神は罪人をも結局は全て救いあげるものとして存在しておられる」ということでしょう? 違うなら「違う」と言い、その先に何か説明を続けてみて下さい。できますか?
この言葉は、「おられる」と、断定調で述べられています。
私は、この言葉が「書き物」ではなく「対談」でのものであることを考慮すべきですか? 大司教様はこれを全くの「断定」の意味で言ったのではない?(確かに、全く断定できる筈もないと思われます。常識では。)
しかし、それならそれで、いずれにせよ、大司教様はそこを明確になさるべきでした。明確に言うことが、「読む」人々に対する大司教様の責任でしょう。これは「神」についての話なのですから。
とにかく、大司教様がこの言葉を「断定」の意味で言ったのだとしたら、大問題です。
そして、この言葉を大司教様の「願い」として言ったのだとしても、やはり負けず劣らず大問題です。
何故なら、天主・御子は、普通に読めば、上に挙げた聖言や前々回に挙げた聖言によって、「全ての罪人が結局は救われる可能性」を排除しているからです。彼は、普通に読めば(どうも大司教様は普通ではないようですが)、「救われ」と「滅び」という二つの道を、「救われる者」と「滅ぶ者」という二種類の人間を、厳しく「分けて」います。
(大司教様はこの峻厳さ、過酷さを、決して「ヨーロッパの教会の伝統」に帰することは出来ません。)
それらの聖言ははっきりしているものです。それなのに何故、池長大司教様は、断定か願いかは知りませんが、あのような事を勝手に言うのでしょう。
大司教様は天主様の聖言を尻目に勝手なことをしています。
しり‐め【尻目/▽後目】
2 その場のようすをちらっと見てあとは構わず自分の行動を進めるさま。(辞書)
これそのものではありませんか。
私はこう思います。簡単に言って──
キリストの司祭は(平信徒も)キリストに「忠実」でなければならないので、キリストが「ある」と言っているものを「ない」と言うことは駄目だし、キリストが「ない」かのように言っているのでない限り、「ない」かのように言うことも駄目である。
そんなことをすれば、謂わば「信仰の偽作」になるからです。
そしてまた、御子イエズス様の人類に対する愛を裏切ることにもなります。何故なら、思うに、御父のお厳しさについての上のような峻厳なる御警告こそが、御子の人類に対する「愛」だからです。
結局、池長大司教様というお方は、自分の「願い」という飛行機に乗って気ままに飛んでいる人です。彼も時折は聖書を引用します。しかし私達は、今まで見て来たことに従えば、彼が聖書と正常な関係を持っていると期待することができません。
こんなようでは、或る意味、プロテスタントより悪いです。プロテスタントは聖書しか知りませんから、かえって、池長大司教様のような脱線はしないでしょう。
デルコル神父様
故ルイジ・デルコル神父様(お写真)。私は、彼が全く間違いのない司祭だったと言うつもりはありません。しかし、彼の次の言葉は正しいものです。
(…)聖ペトロがその第二の手紙(1・20-21)で忠告していることを決して忘れてはならない。では次にその個所をかかげよう。
「まず、聖書のどんな予言*も自分勝手に解釈してはならないことを知らなければならない。予言は、かつて人間の意志から出たことはなく、聖霊にみちびかれたある人が神によって話したものだからである」と、そこには記されている。
したがって、自己流の解釈にならないためには、すなわち、その解釈に個人的な見解をさしはさまないためには、ここと関連のある聖書の他の個所によって解釈しなければならないのは当然である。
*「予言」は「預言」とすべきだと思うが、それは兎も角──
文中に「関連」という言葉があります。つまり、デルコル神父様は、聖書の理解というものは「全的」でなければならないよ、池長大司教様がしているような、「いいとこ取り」「得手勝手な選択」というものを、決してしてはならないよ、とおっしゃっているのです。