全ての司祭がこの考え方に引っかかった。
カトリックの教えは変わっていません。
変わったのは教え方だけです。
池長大司教様も、この考え方に従い、安心して「伝統的カトリシズム」を非難できるのである。彼にとっては「伝統的カトリシズム」は「教え方」の問題でしかないからだ。
とは云え、私は、彼が「伝統的カトリシズム」(という言葉、イメージ)を否定していることに第一に憤慨しているのではない。
勿論、それにも憤慨している。しかし、それは第二である。
私が第一に憤慨しているのは、彼が、その「伝統的カトリシズム」を否定する時に、「厳罰の神」のイメージなり強調なりと「伝統的カトリシズム」との結び付きには盛んに触れ、しかし同じそれらと「聖書」との結び付きに関しては素知らぬ顔を決め込んでいるという、その、謂わば「汚い手」に関してである!
そんなことで彼は「真理の教師」になれるだろうか?
なれるわけがない。その反対の教師になれるだけである。
とにかく・・・世の神父様方、もういい加減、上の枠内のような「鵺的論法」の犠牲者であることはやめて下さい。以下に掲げるは、天主イエズス様の「教え」であり「教え方」です。
池長大司教様、あなたは今夜、一晩中、これらの聖言[みことば]の前に立って下さい。どんなごまかしができますか?
主の聖言
体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい。
また、わたしを信じるこの小さな者の一人に罪を犯させる人は、その首にろばのひきうすをはめられ、海に投げ入れられたほうがましである。もし手があなたに罪を犯させるならば、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手がそろったままで地獄の消えることのない火の中に落ち込むよりはましである。(…)地獄にはうじがつきず、火も消えることがない。
多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につくが、国の子らは外の闇に投げ出されるであろう。そこには嘆きと歯ぎしりがある。
この役に立たないしもべを外の闇に投げ出せ。そこには嘆きと歯ぎしりがある。
その後で、あのほかの乙女たちが来て、「主よ、主よ、どうぞ開けてください」と言った。すると、主人は、「あなたがたによく言っておく。わたしはあなたがたを知らない」と答えた。
こうして、この者たちは永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠のいのちに入るのである。
あなたは熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
池長大司教様、あなたがキリスト教から厳しい要素を排除したいのだとしても、あなたはまず次のように認めなければならない。「旧約聖書の中に、またイエス様の言葉の中にさえ、幾つか大変厳しいものがあります」と。あなたは天主の司祭として、どうしてもここから始めなければならない。然るに、あなたはそうしない。あなたは聖書から始めない。上のような聖言を参照しない。あなたは「聖書」を飛び越し、省略し*、いきなり「伝統的カトリシズム」を論評し出すのである。そして「厳罰の神 = ヨーロッパの伝統」というインチキな等式と「ヨーロッパ文化 vs. 日本文化」という単純過ぎる対立軸を使いながら、「よって日本は如何なる厳罰の神のイメージからも自由になることができる」と云うかのような結論を導くのである。──なんと「詐欺的」であることか!
* ご自分に都合のよい箇所は取り上げるようだが。
しかし、その仕方さえおかしい。次へ。