余 談
たかが被造物の感じとり
まあ、「余談」としておく。
しかし、語義矛盾のようだが、「重要な余談」と言いたい。
前回、こう書いた。
この遠藤氏の「感じとり」、つまり「感じ方」について、一つの例を挙げたい。或る対談に於ける彼の発言である。
復活祭のまえ、ローマに行ったことがあるんだけれど、裏道を歩いていたら娼婦に誘われました。それを断って、しばらくして復活祭のベネディクションを見ようと教会に入ったんですよ。そしたら、さっきの娼婦がいちばん前の席でいっしょうけんめいお祈りしてるじゃないですか。これなんか私にはとてもうれしかった。カトリックって清濁併わせのむ感じでいいと思いました。
遠藤氏のこの発言──というより「感じ方」──のおかしさは、彼がその娼婦の姿を教会の中に見て咄嗟に「うれしく」感じた、しかも「とてもうれしく」感じたというところにある。
私も、どのような場合も「うれしく」思ってはならないとは思わない。その娼婦の中に「悔い改め」の気持ちを確認したなら、カトリック信者は「うれしく」思うべきだし、実際「うれしく」思うだろう。
しかし、人というものは、実際のところ、どのような気持ちで教会の中で「いっしょうけんめいお祈り」するか分からないものである。
私はこれを、特に意地悪な気持ちで言っているつもりはない。ただ実際、人というものは、たとえ「カトリック教徒」であっても、かなり "いい加減" なところがあったりすることも多々あるからである。
そして第一、「娼婦」という稼業は罪である。私達は「罪を憎んで人を憎まず」的なことも考えなければならないけれども、またこれも忘れるわけにはいかない。
聖ヨハネの福音書の8章に「姦淫の女」についての話がある。
それについて「心のともしび」が正しく解説している。
勿論イエズス様は姦通の罪を軽くお考えになったのではありません。その罪の重さを認めながらも、その女の人にあわれみをおかけになりました。ですから、彼女の罪をおゆるしになってから、「これからはもう罪を犯してはいけない」とおっしゃったのです。
カトリック信者の基本的な姿勢はこれでなければならない。
注)私は、本当は、上の「心のともしび」の解説も "言葉足らず" だと思う。イエズス様はどちらにせよその女性をその残酷な刑からお救いになっただろう。しかしそれは、その女性の「罪」までを赦すということとは別である。イエズス様がその女性の罪までをお赦しになったということは、イエズス様はその時、人の心を見抜く御能力によって、その女性の心の中に "悔悛の情" が萌え出るのをご覧になった、ということである。謂わばそのような内情があった。
もう一度言う。イエズス様はどちらにせよその女性をその残酷な刑からお救いになっただろう。しかし、"悔悛の情" がない者に関しては、イエズス様と雖も、その罪をお赦しになることは出来ないのである(罪を悪いと思っていない者をどうして「赦す」ことができるのか。これは天地の道理である)。しかし、その女性には実際、"悔悛の情" があっただろう。最初はただこんな事(あわや石打ち)になってしまったことへの "後悔" でしかなかったものが、天主に会って急に照らされ、"悔悛の情" にまで一変せしめられた、それが "引き出された"、ということかも知れない。彼女は「主よ」と呼びかけている。
ところが、遠藤周作氏の心は、そういう通常のカトリックの基本姿勢から離れているのである。彼はただ教会の中にそれを見て、かなりアッケラカンと、「とてもうれしかった」のである。そしてそれを「清濁併わせのむ」と結ぶのである。
似たような言い方に「カトリックは "懐が深い"」というのがある。しかし、そうだとして、どのように "懐が深い" のかを、カトリック信者はよく考えるべきだと思う。
だから、結論を簡単に言えば──
たかが被造物の「感じとり」にそこまで重きを置いている池長大司教様はおかしい。賢明でない。
──と云う事である。
そして、私達の "理性" の前に「聖書」が開かれている。
遠藤周作氏は「たかが被造物」なのである。しかし誤解なく、私は遠藤氏を貶めているつもりはない。私もまた「たかが被造物」なのである。
そして、私は遠藤氏が上のような変な事ばかり言っていると言うつもりもない。作家というものは多くの事を考えるものである。だから、中には、私達がなかなか気づかない視点というものを出すこともあるだろう。しかし、それが私達の信仰にとってどうであるかということは、別問題である。私達は物事にあまり他愛なく感心しない方がいい。