詐術的話法
目のあるカトリック信者は分かったでしょう。要するに彼はこの二つの公式(あくまで彼にとっての)── 一つの等式と一つの対立軸──を使いながらインチキな話法を展開しています。以下に説明します。
前回のあれらの記事を読みながら彼の考えの流れを追ううちに、私の中に一つの大きな奇異の念が生じた。それを書いてみたい。
彼の考えの流れ、或いは "話法" を分解・整理してみれば、こうなるだろう。
(1) |
私は「厳罰の神」の強調は良くないと思う。 |
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(2) |
では、その強調傾向は何処から来たのか。 |
(3) |
「ヨーロッパの文化」は必ずしも日本に合うものではない。 |
(4) |
ところで、「ヨーロッパの文化」と「日本の文化」は、当然のことながら、"対等関係" にある。そこに "上下関係" はない。"権威" の問題はない。 |
(5) |
だから、「日本文化」を持する日本人が自分の領域内で「ヨーロッパ文化」を退けたとしても、何ら問題とはならない。 |
(6) |
従って、「ヨーロッパの文化」の果[み]である「厳罰の神」の強調傾向を日本の教会が退けたとしても、何ら問題とはならない。 |
(7) |
だから私は、日本の教会に対して、「厳罰の神」の強調は避けられるべきことを呼びかけることができる。 |
注)御父のお厳しい側面が争点となっているから、議論を分かり易くするために「厳罰の神」という言い方をする。しかし、イエズス様が教え給うたように、また旧約聖書の中にも観察されるように、御父は本当は「裁く」ことのみされる御方ではない。「憐れみ」をかける御方でもある。
もちろん単純化して書いた。しかし兎も角、これが彼の主張の骨子であることは間違いない。
このようにして彼は、実際、前回見たように、事あるごとに、ごく小さな取材を受けた時にさえ、「厳罰の神」のイメージなり強調なりを "取り除く" ことをアピールしているのである。
さて、ここの小題を「詐術的話法」とした。私は「詐術」というものには二種類あると思っている。一つは「嘘をつく」ということである*。そしてもう一つは「言わない」ということである。当然触れるべき事に触れない、それについて「黙っておく」ということである。
* 本当は、ごく単純な嘘は「詐術」という語感にはそぐわないけれども。
後者のそれによって何が起きるか。
聴衆が、与えられて然るべき全体図を与えられない、ということが起きる。重要な一角が欠けた全体図を与えられる、ということが起きる。もちろんそれは「全体図」の名に値しない。しかしその時、聴衆はそのようなものを与えられ、勧められ、押し付けられるのである。
「厳罰の神」の強調ということをめぐって池長大司教様が展開しているのが、まさにそのようなことである。彼が取っているのは非常に欺瞞的な話法である。その欺瞞性は集中的にここにある。↓
(2) |
では、その強調傾向は何処から来たのか。 |
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注)彼がこのような話し方をしていないと思う人はもう一度前回に戻って確認して下さい。
どういうことかと云えば、賢明な読者は既に気づいているが──
彼は「厳罰の神」の強調を「ヨーロッパの文化」と結び付けて、ひたすらそれのみと結び付けて、他のどんなものとも一切結び付けていない、ということである。「厳罰の神」のイメージまたその強調の問題と結び付けて俎上に載せて当然(少なくとも自然)である或る事柄について、見事に一切「口をつぐんで」いる、ということである!
しかし、あまりに周知の通り、「厳罰の神」のイメージというものは、「ヨーロッパの教会」に先立ち、まず「旧約聖書」の中に多く立ち現われ、次いで「新約聖書」の中にも確実に継承されているものである。
だから、もし人が「厳罰の神」について話そうとするなら、あまりに当然・自然に、「聖書」のことに〈も〉触れる筈である。「厳罰の神」と「聖書」の〈何らかの〉結び付きに〈も〉、必ず触れる筈である。
注)今の〈も〉とか〈何らかの〉とかいうのは彼への譲歩である。このように譲歩的に言うことによって、かえって彼を彼の「不自然さ」の前に立たすための。
しかし、池長大司教様は「聖書」と言わない。
「ヨーロッパの教会の伝統」とだけ言う。
「欧州では」とだけ言う。
即ち、池長大司教様のお姿はこの絵の如し。
注)私は「如し」と言ったのである。実際は、彼は「ほかの結び付きはありません」とは言っていない。しかし、実質的に、彼はほとんどそんな口振りなのである。
彼は「ある」とも「ない」とも言えない
ジレンマ |
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(詐術 |
は苦境を |
内包する) |
彼は、「厳罰の神」と「聖書」の間に〈結び付き〉が「ある」とも「ない」とも、そのどちらも "言えない" のである。明確化できない。
その問題には一切「触れず」、ご自分お気に入りの展望を繰り返し繰り返し披瀝するというのが、彼の唯一の道である。
どういう事か説明する。
まず、「ない」の方から見てみよう。
彼は、例えば、次のように言えるだろうか?
では、その強調傾向は何処から来たのか。
「ヨーロッパの教会の伝統」からである。
然るに、この場合、それはただ「ヨーロッパ文化」である。
それは「ヨーロッパ文化」から来た。
<ここまでは現に彼が言っている事である>
聖書との関係? それは無い。
「厳罰の神」の強調の問題は、如何なる意味と程度に於いても、聖書との結び付きを持っていない。
聖書の中には、確かに「厳罰の神」の "イメージ" はある。
しかし、「厳罰の神」を強く打ち出した "強調表現" は無い。
それと聖書はまったく〈無関係〉である。
このように言えたなら、彼は或る意味、大したものである。私は感心し、そして逃げる。
注)上の二箇所に下線を引いたのは、彼はそのへんを明確にすることを避けたがるだろうからである。彼は、もし問われれば、聖書の中に厳罰の神の "イメージ" があることは認めるだろう(渋々であれ)。しかし、聖書と厳罰の神の "強調表現" の結び付きについては、またもや「触れる」ことを嫌がるだろう。そして話を別の方向に持っていくだろう。彼はそのような不実な話法を採る人であるだろう。
しかし、彼はそのように言わない。
言えたら言ったであろう。何故なら、彼は「厳罰の神」を遠ざけたいのだから。もし上のように言うことができたなら、その目的に大いに役立つ筈だから。
しかし、彼は言わない、言えない。
何故なら彼は、「厳罰の神」と「聖書」の間に、また「厳罰の神の強調表現」と「聖書」の間にさえ、〈結び付き〉があることを*ちゃんと知っているからである。
* 再び彼に譲歩的に言えば──少なくとも何らかの〈結び付き〉があることを。
誰だって知っている。「ない」なんて言ったら笑われる。
次に、「ある」の方を見てみよう。
彼は、「厳罰の神」と「聖書」の間に、たとえ「何らかの」と云う程度でも、〈結び付き〉が「ある」と言うことができるだろうか?
まず言えないだろう。何故なら彼は──
聖書の権威を害うことなしに、或いは少なくともその危険を犯すことなしに、厳罰の神のイメージなり強調なりを排斥することは不可能である。或いは少なくともかなり難しい。
──ということを、本当は分かっているからである。
分かっているくせに、それを "おくび" にも出さない。
そして、上の観点を、いわば "地下潜行" させる。
あえて人々の前に提示しない。
しかし、もし彼が聖書の言葉を真に大事にする人なら、上の観点こそ、大事なものとして人々の前に提示する筈である。そうしない彼は、従って、聖書の言葉を大事にしていないのである。
カトリック教徒は勘違いしてはならない。彼は、彼言う所の「厳罰の神の過度な強調」を全て「ヨーロッパの教会の伝統」のせいにしている。しかしこれは、そうすることで「聖書」に味方しているわけではないのである。むしろその反対である。
と云うのは──
(1) 「厳罰の神の強調」は、「過度」であるか「適度」であるかは別として、いわゆる "多かれ少なかれ"、「聖書」と結び付いているのは確かである。
(2) だから、「厳罰の神の強調」を叩く時に、「ヨーロッパの教会の伝統」だけを叩き、「聖書」については素知らぬ顔をしているなどというのは、むしろ、彼が聖書の言葉とまともに向き合っていない、それと正常なアクセスを持っていないということの強力な証しである。
──ということだからである。
彼は、このようなことが人々の目に判明しないためにも、あえて「聖書」には触れないのだろう。彼が聖書に触れるとすれば、それは彼にとって無害な箇所だけだろう。