2013.12.18

池長ワールド Part 3

池長大司教様の言葉

 私が見出した彼の言葉は非常に少量だから、人は言うかも知れない──「この管理人はこんなに少量の資料をもって大袈裟に騒ぎ立てる」と。しかし、私は再び次の見方を主張したい。"物事の判断がしっかりした人というのは、どんなに短い何気ない瞬間でも、そんなには変な事は言わず、そんなには変な論の運び方はしないものである。"

 池長大司教様のお考えがよく出ている文章を幾つか掲げる。
 どれも抜粋である。

 最初、文中の注目箇所に下線を引いた。が、削除した。
 御自分の目で読んでみて頂きたい。

新聞記事(2013年)

日本のカトリック 目指すものは

作家の遠藤周作が述べた、「神」をめぐる感性の違いもある。
罪を罰する「父なる神」を強調するのが西洋なら、日本人が求めるのは、罪人も限りなく許す「母なる神」だという。

「私自身、日本人の感性に合った宣教が必要と考え、東京・聖イグナチオ教会の改築の際、天に向かうゴシック建築でなく、低い円筒形にしました。訪れる人を温かく迎える神を表現したのです」

阪神大震災後に建てた神戸中央教会の建築にも、同じ思いがこめられている。

新聞記事(2013年)

「踏むがいい」──。カトリック作家の遠藤周作は代表作「沈黙」で、キリシタン禁制の江戸時代、踏み絵を迫られた宣教師にそう促すイエス・キリストの姿を描いた。キリスト教と日本風土の相克をテーマとした遠藤の心中にあったのは日本的な「母なる神」だろう。

池長潤・大阪大司教(76)は「土地が変われば、新しいキリスト教の顔が出てくる。欧州では罪と罰の『厳しさの神』が前面に出すぎ、罪を許す(神の)寛大さが薄れていた」と指摘する。

この記事の前半魚拓にも、記者の言葉としてだが、「父なる神」「母なる神」というのが出て来る。

池長大司教様の書き物(おそらく2012年)から

これからの教会に望むこと

このほかに、罪を罰する「父なる神」を強調するヨーロッパのキリスト教と合わない感性の違いもある。遠藤周作が指摘するように、日本人は罪を許す「母なる神」のほうにひかれる。

大司教様の談話(2012年)から (対談の相手は山折哲雄氏)

池長 まさに遠藤さんが感じとり、『沈黙』で表現された点と同様なことを、私も感じたことがあります。
 ご説明のために、私の入信の経緯をお話ししましょう。私は一九五二年、中学から高校へ進学する春に洗礼にあずかりまして、それから長くカトリック教会の中で暮らしてきました。洗礼を受けた理由は簡単なもので、たまたまカトリック系の六甲学院に入学したからです。とはいえ入学当初は、カトリックの研究会に誘われても参加していませんでした。
 ところが中学二年のとき、宗教の授業の中でドイツ人の先生が「悪人は地獄へ行く」と、おっしゃった瞬間、無限の神の存在がまるで目に見えるかのごとくに感じられたのです。明らかな宗教体験でした。以降、この神の存在が揺らいだことは一度もありません。
 それで洗礼を受けることを決意したのですが、教義の勉強を深めていく過程で、次第に伝統的なカトリシズムにしっくりこないものを感じるようになったのです。

山折 違和感を覚えた、と。

池長 それは「罪」の考え方についてでした。伝統的な教えでは、罪の悪性が強調されます。たしかに罪が悪であることは間違いない。では罪に対する神の態度はどういったものなのか。伝統的なカトリシズムでは、許すよりも、むしろ裁くほうを強調しすぎてきました。そうした教えに私はなじめなかったのです。罪を犯す弱い人間であっても、それを赦し、母のように包み込んで一人一人を救い上げるのが神ではないか、と思うようになったのです。

山折 まさに遠藤さんの描く「母なる神」ですね。

池長 それから私は聖書を研究するようになりましたが、はたして「ヨハネの福音書」の5章24節の箇所では、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」、また6章40節に、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と、私が感じていた通りに書かれているのです。神は向こうから裁くような方ではなく、人間を救うほうに強烈に傾いていらっしゃる。罪が悪性であるのは確かですが、それを乗り越えて、神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。
 カトリックの信仰内容の大半は完全に肯定できますが、まさに遠藤さんが感じとった部分では、ある意味において伝統的なカトリックの教えは間違いだ、と感じました。(…)日本人が宗教を持つための大きな条件は、その宗教が日本の文化と一体化することで、そうならなければ嘘だと思います。
 西洋と日本のキリスト教観の違いは教会建築にも表れています。西洋の教会は、基本的に天を衝くような尖塔を持つゴシック建築です。これは神が無限の彼方におられることを意味し、その神を拝むという礼拝心を表現している建築構造です。
 しかし日本人建築家が教会を設計すれば、あのような表現にはならないでしょう。お御堂にいるすべての人を包み込むような建築こそ、日本人が親しめる神の空間だと思います。私は自分が設計と建築の責任者を務めた東京・四ツ谷にある聖イグナチオ教会で、そうした空間の実現に努めました。

山折 ああ、上智大学の横にある教会ですね。楕円形で、たしかに教会としては変わった外観です。

池長 ええ、そうです。もともとは伝統的な様式だった教会が老朽化したために改築し、九九年に完成したのですが、当初は、不格好だと言われたこともありました(笑)。設計を依頼した建築事務所の方には、神学的に高度な内容の講義をしました。その結果、丸みをおびた外観になったのです。内部は祭壇を取り囲むように円形に信徒席が設けられ、あれこそ日本人がなじめる聖堂だと思っています。

文藝春秋 2012年12月号(amazon)pp. 327-328

 文藝春秋のバックナンバーは図書館で読むことができるかも知れません。また管理人のWeb領域のどこかにも落ちているかも知れません。

言葉の "姿" は人を表わす

 私は感覚人間であるから、まず、私の感覚が受けたところから。

土地が変われば、新しいキリスト教の顔が出てくる

 この言葉遣いは何なのか、と思った。
 私が気になるのは "意味内容" ではない。だから「大司教様の言わんとするところをもう少しお読みになっては」などと言わないで欲しい。読む時は読む。私が気になるのは "言葉遣い"、言葉の "姿" である。"意味内容" にはその人の頭の内容物が出るが、言葉の "姿" にはその人の人間が出る。
 この、大司教様の言葉の選び方、言語感覚は、記者が間違って書き留めたのでない限り、大司教様の人間の或る種の "非慎重性" とでも云ったものを表わしていると思う。
 「土地が変われば、新しいキリスト教の顔が出てくる」... 大司教様、天主の宗教は西洋料理ではないのです、と言いたくなる。

合わない」「しっくりこない

 これも、「お口に合いませんか?」と返したくなる。

日本の文化と一体化

 せめて「調和」と言ってくれませんか。「調和」でも危険を孕んでいる。その言葉からでも毒の芽が出得る。そこを「一体化」とは。

西洋と日本のキリスト教観の違い

 これも「普遍の教会」に仕えている筈の高位聖職者としては余りに "軽薄" な言葉遣いである。

 しかし、これだけでは済まない。
 彼にはもっと遙かに重大な問題がある。

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