私の口調は「聖職者」に対しては十分に「失礼」なものでしょう。修正することもできます、言葉を。しかし、そうしたくありません。何故なら、私はただおとなしく「意見陳述」したいのではないからです。
私の書くことに腹を立てるのは簡単です。私はあなたが腹を立てることを止めることはできません。しかし、腹を立てる前に、否、せめてそれと同時にでも、私の言っている事(内容)が嘘か本当か、或いは誇張かそうでないかを、ひとつじっくりと調べてみて下さい。
以下、論述に訓練されていない私ではありますが、努力します。
序
私は元々、池長大司教様にそれほど注目していなかった。彼に関しては、彼が、(1) 昔、大阪・阿倍野教会で主の祭壇の上にサンダルを置いたこと(参照1、参照2)と、(2) あの異形の教会、大阪梅田教会を少なくとも "承認" したこと、この二つがあったばかりである。勿論、この二つは大きかった。この二つによって、彼は私にとって大いに「変な聖職者」になった。或いは「冒涜的な聖職者」に。しかしそれでも、特にそれ以上の関心は続かなかったのである。
しかし、ごく最近、私は彼と「憂慮する会」との一件を知るに至った(参照3)。私はそこで初めて彼自身の "言葉" に触れた。そして私はそこに「変な聖職者」という以前の「変な人」を見た。その人は理念的・道義的のことが分からないようだった。物事の "全体" ということが目に入らないようだった。それでいて「常識」という言葉を振りかざし、相手を叩くことのできる人だった。私はそこにほとんど──率直に言います──「神経のおかしさ」を見た。そして、恐らくはそこから来ているのだろうところの*彼の大いなる「傲慢」を見た。
* そこから来ている: 彼の傲慢さが「そこ」から来ている場合、彼は自分が傲慢だとは露ほども思っていない。何故なら、彼の自意識世界はそっくり "幻想交響曲" だから。
私は、彼と「憂慮する会」との一件の中に、彼の「異様」を感じ、彼の言葉を少し調べ始めた。
私の得た結論を先に言えば、「やっぱり」というものだった。
人間というものに於いては、こうである。
ここに一人の人があったとする。その人は世俗の事柄の処理に於いて非常におかしな、神経を疑うような振る舞いをする。しかしそれにも拘わらず、その同じ人が、信仰の事柄に関しては非常に正しく振る舞う。──ということは〈不可能〉なのである。
私は、彼が「憂慮する会」との一件でしたのと全く同じ事を「信仰」の世界の中でもしているのを見た。