視覚効果
前回の「目を奪われるな」という言葉にちなんで「視覚効果」のことを少し。
「基本的人権」「人間の尊厳」「社会の悲惨に向き合う」などという言葉は、〈それ自体〉を見るなら確かに「善」の言葉に見えるので、あまり注意深くない、「全体」ということを考え慣れていない善人の心にスッと入って来ます。
これは「全体を見ないが故の錯覚」と言えるかも知れません。
人間の心に「錯覚」をもたらすものがもう一つあります。
それは、スタジオで照明係として働いている人が詳しいであろうところのもの──「視覚効果」です。(いや、私が差し出すものは実に単純なものですが。)
上の絵をご覧下さい。これらの松明は、「人間の悲惨事」の所に持って来られると、常よりも煌々と輝きます。つまり──歴史的事実・真実についての議論はここではしませんが兎に角──池長大司教様が「従軍慰安婦問題」や「南京」や今回の「正定事件」などの〈途方もなく非人道的な行い〉の所にそれらを持って来ると、それらは常よりも煌々と輝きます。また同様に、本田哲郎神父様が大阪の釜ヶ崎にそれらを持って来ると、それらは常よりも煌々と輝きます。浜崎眞実神父様が種々の差別問題の所にそれらを持って来ると、それらは常よりも煌々と輝きます。
別に "難癖" を付けたいわけではありません。それらの言葉の地位をなにか "闇雲に" 引き下げたいと云うのではありませんし、また「他者の悲惨には心を向けたくない。私は個室で神様だけを拝んでいたい」と云うのでもありません。また「非人道的な行い」を軽く見ているつもりもありません。そうではなく、今ここでは、信仰者の心に錯覚をもたらしかねない作用力を排除しようとしているだけです。
言いたい事は簡単です。
社会的・政治的方面に熱心な聖職者の幾らかは、「人間の悲惨事」の所にそれらの松明を持って来るかも知れません。すると、背景との関係で、それらは常よりも煌々と輝きます。つまりその時、「基本的人権」「人間の尊厳」「社会の悲惨に向き合う」などと云った言葉は、常よりも一層正しく、ハンパでなく正しく見え始めます。まるで〈絶対的正しさ〉をまとっているかのように見え始めます。全体や局面とは全く無関係に、全く〈それ自体〉として〈巌のように正しく〉見え始めます。
そうでしょう? 一体誰が、〈途方もなく非人道的な行い〉の横に置かれた「基本的人権」「人間の尊厳」と云った言葉に、十分抵抗できるでしょう。
しかし本当は、気の抜けない「言葉」というもので表わされた「善」というものは、決して〈それ自体〉で考えられるものではなく、常に「全体」や「局面」との関係に於いて検討されなければならない。しかし、上のような情景は、ややもすると(と云うか、ほとんど常に?)人を大いなる錯覚に陥らせてしまいます。
私は自分が大袈裟に騒ぎ過ぎているとは思いません。
むしろこう思います──
「これはほとんど『人心操作(Mind Control)』に使えそうなほどの視覚効果だ」。
Watch out!
殆ど「共通善」だけを強調して終いにするような打ち出し方、殆ど「共通善」だけで十分であるかのような、或いは殆ど「共通善」だけが「キリストの教えの核心」を成しているかのような口振り──これらは全くもって「フリーメイソン的」と言われるべきです。