2013.11.18

池長大司教様と「基本的人権」「人間の尊厳」  5/8

「善」に目を奪われるな

 「善」を指向してやまないカトリック教徒の前に差し出す記事の表題としては、物騒なものですよね。「善」に目を奪われるなとは。

 しかし、私は冗談を言っているつもりはありません。
 と云うか、言いたいのは、以前のページで既に確認したことです。「目の前に差し出された一つの善だけを見てはならないよ」と云うことです。「常に "全体" を見なければならないよ」と云うことです。

 しかし、人間はとかく忘れっぽいものです。そして「善人」は、善人だけに善に感じやすく、何か一つ「善いこと」を見せられると、「わぁ、素晴らしい」となります。そして他の事が見えなくなります。

 しかし「善」は、決して〈それ自体〉で済むものではありません。〈それ一つ〉を見てどうこう言えるものではありません。

注)天主様は〈それ一つ〉〈それ自体〉で「善」であられます。しかし、ここで話している「善」とは、「言葉」という気の抜けないものによって表現されるところのものです。

 再確認。例3は新しいですが。

例 1 「人に迷惑をかけてはならない」

 「人に迷惑をかけてはならない」という言葉〈それ一つ〉を机の上に置いて、それを隅から隅まで仔細に調べて下さい。ただし〈それ自体〉を。そこに悪の "影" 程度のものでも見えますか? 見えるわけがありません。〈それ自体〉を見たならば。しかし、その言葉を「全体」の中で間違った置き方をするならば、それ全体が「善とは言いかねるもの」になるのでした。(参照「絵で解説」)

例 2 「基本的人権」「人間の尊厳」

 「基本的人権」や「人間の尊厳」と云った理念は素晴らしい?
 確かに、そんなには悪い言葉ではありません。いや、それどころか、世俗の世界ではほとんど最高に良い言葉かも知れません。しかし、これらの言葉が私達の「信仰」の世界に無思慮に置かれた場合に発生し得る危険というものを、「二つの『言わない』」でもう一度確認して下さい。
 「共通善」の強調の陰に「信仰の善」を後退させるならば、如何に「基本的人権」や「人間の尊厳」と云った「いい言葉」が並んでいようと、それ「全体」はカトリック信仰としては「異形」であり、神の御目からすれば「悪」であることでしょう。

例 3 「社会の悲惨に向き合う」

2013年2月21日・読売新聞大阪版・夕刊(PDF

 「社会の悲惨に向き合う」
 これも、これだけ聞けば、いかにも良さげな言葉です。
 しかし、これだって、もし「全体」の中で不当な置かれ方、或いは不当な強調のされ方をするならば、それ「全体」としては致命的な問題となります。

 ここで考えられるべき「全体」とは何か?
 それは「人間の悲惨」ということです。「社会の悲惨」というものを考える前に、少し目を広く持ち、「人間の悲惨」というものを考えてみなければならない。で、その「人間の悲惨」の内訳は何かと云えば、「地上の悲惨」+「霊的な悲惨」と云うことになります。「人間の悲惨」はこの二つをもって「全体」とします。

 で、もし「カトリック聖職者」の身にして「地上の悲惨」について語ること多く「霊的な悲惨」について語ること少ないならば、それは致命的な問題です。

 先日、浦川和三郎司教様の御本の中から幾つかを転載しましたが、中にこんな言葉がありました。
 「終には救霊までも失うような始末に立至らぬにも限らない参照
 「救霊までも失う様な事になりはしまいかと恐るべきである参照

 「滅んだ霊魂(Lost Soul)」に成るという「霊的な悲惨」こそ、人間にとって最大の「悲惨事」です。それは取り返しがつきません。

 イエズス様もこう仰せられています。
 「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい

マタイ 10:28 〔ルカ 12:4-5〕

 ですから私達は、「社会の悲惨に向き合う」と云った言葉〈それ一つ〉を見て、〈それ自体〉を見て、「それは善だから」というので安心することはできない。

 もし「カトリック聖職者」の身にして「地上の悲惨」「社会の悲惨」について人々に呼びかけること多く、それに比して「霊的な悲惨」(心理的・精神的な悲惨ではなく、霊魂の滅び)について人々に警告すること極端に少ない人が居たならば、それは悪い牧者です。これははっきりしています。

 そして、私の考えでは、イエズス様は人間の「霊的な悲惨」のためにこそ──人間が何とかその取り返しのつかない破滅を回避できるようにと──血を絞り、十字架に掛かられ、且つ、それと分かちがたく結ばれた「ミサ聖祭」をもたらして下さいました。それは人類の「救霊」のためです。「社会を善くするため」ではありません。
 社会に「救霊」された人が増えれば、社会は必然的に善くなります。が、その逆ではありません。

 大司教様、「全体」とか「順序」とかを気にして下さい。

 追加)まして「ウワ〜〜〜ッ」のためなどでは絶対にありません。

殆ど「共通善」だけを強調して終いにするような打ち出し方、殆ど「共通善」だけで十分であるかのような、或いは殆ど「共通善」だけが「キリストの教えの核心」を成しているかのような口振り──これらは全くもって「フリーメイソン的」と言われるべきです。

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