大司教様の信仰が "異形" であることの強い徴候
二つの「言わない」
御書簡を更に検討させて頂きます。
「それらの言葉が前に立ち過ぎている」ということをより具体的に言えば、次のようになります。
引用 (全文はこちら)
他者に対する支配力を手にした人達が、基本的人権、人間の尊厳、そして個々人のアイデンティティと云ったものが何であるかと云ったような、基礎的な問題についてすら知らない時、このような途方もなく非人道的な行いが起こるのです。
彼は「世界がイエズス・キリストを知らないから非人道的な行いが起こる(絶えない)」と言わない。
彼は、世界から「非人道的な行い」を無くすために、人々に「イエズス・キリスト」を宣べ伝えるよりも、人々に「基本的人権、人間の尊厳、そして個々人のアイデンティティと云ったものが何であるかと云ったような基礎的な問題」について教える事の方が「効果的」であり「優先」される、と思っているのかも知れない。
現代世界の人々にとって、基本的人権と人間の尊厳についての適切な理解を持つことが重要です。その理解に基づき、私達は他者に対する私達の振る舞いをコントロールしなければなりません。
彼は「現代世界の人々にとってイエズス・キリストを知ることが重要です」と言わない。
ハイ、大司教様がこう↓であることの証明、終わり。
物分りのいい(?)人達に於いてはどうか知りませんが、私にとっては証明は本当にこれで終わりです。
前々回に言ったことを繰り返せば、私は、教会暦の重要な折々には大司教様も「信仰」そのものについてお話しになることを知っています。しかし、信仰指導者というものは、その言行にチラホラ良いものが見えるというだけでは足りません。右手で良い事をしていても左手で変な事をしていたら駄目です。上の二つの「言わない」をもう一度観察して下さい。
このように考える人も居るかも知れません。
「この書簡は既に『キリスト教徒』となっている人々を読者に想定して書かれたものだから、特に『イエズス・キリスト』を強調する必要はない。従って、あのような言い方であってもおかしくない」と。
しかし、それは違います。もう一度読んで下さい。
一言で云えば、ここに出ているのは彼の "世界観" なのです。戦争と平和をめぐる世界観。人間の社会をめぐる世界観。彼は聖職者であるから、勿論、何らかの形で、彼の話の中には信仰の事も出て来ます。しかし、それは "中心" に置かれていません。"中心" に置かれているのは共通善、ヒューマニズム──無神論者や共産主義者とも共有できるかも知れないもの──の方です。信仰はそれと "関連付けられて" 登場します。どっちが主役か分からないくらい。
そのような彼の世界観が、あの書簡に顕れているのです。
「キリスト教風」の話をすることは簡単なこと
上のような池長大司教様の言葉の運びがおかしなものだということに関してこれ以上の検討なり "斟酌" なりに努めるならば、あなたは「まやかし」の世界に入ることになります。例えば──
「確かに大司教様は『基本的人権』や『人間の尊厳』について御熱心です。でも、決してそれだけを言っておられるのでありません。必ずイエズス様のことにも言及なさいます。」
しかし、そこが「騙されポイント」です。
注)「騙され」とは人聞きが悪い。しかし、大司教様御自身が、悪意がない場合(ないのでしょうが)、「一つのまがいものの宗教──カトリックに似てはいるが本物ではない宗教」を教える神学によって「騙されて」いるということになります。
もともと、そのような話を展開するのは容易です。何故なら、天主様は「善」の大王であられるから。全ての「善」の源泉であられるから。全ての「善」が天主様に属しているから。この故に、それがどのようなものであれ「善」であるなら、それと天主様の御事の某かを結び付けて話を展開することは容易です。本田哲郎神父だって、ホアン・マシア神父だって、浜崎眞実神父だって、そうしています。
「基本的人権」や「人間の尊厳」と云った理念が「善」であるなら*、それらと天主様の御事の某か、幾つかの選ばれた断片(あの逸話、この聖句)を結び付けて話を展開することは容易です。
* 世俗の世界ではこれらの言葉は一も二もなく善の言葉と思われるだろうけれども、信仰の世界に於いてはそうではありません、「一も二もなく」ではありません。これらの言葉が信仰の世界で善となるも悪となるも、使われ方次第、その意味内容次第です。しかし注意深く意味が限定されるならば、これらの言葉も〈共通善〉の言葉とはなるかも知れません。議論のし易さの為に、以降これらの言葉を〈共通善〉の言葉とします。
しかし、或る文章なり講話なりが単に「キリスト教風」のものであるに留まらず真に「キリスト教」のものであるためには、その文章なり講話なりの中に〈信仰の善〉が十分に認められなければならない。
上に挙げた三人の神父様方の文章だって、一見「キリスト教風」ではあるかも知れません。けれど、目のあるカトリック信者から見れば、彼らは〈信仰の善〉を酷く破壊しています。
本田, マシア, 浜崎, 本田 [外部サイト]
池長大司教様は彼らほどは酷くないに違いありません。しかし、私はハッキリ言って、そこには「酷さの程度の差」しかないと思っています。上の二つの「言わない」をもう一度確認して下さい。
或る聖職者が実のところ殆ど〈共通善〉にしか生きていなくても、自分のその地上的な関心を聖書中の何かと関連付けて話す事は容易です。私だってやれます。
しかし、それなりに長く人間をやっている者にとっては「文は人なり」です。彼らの文章がいかにキリストの逸話を引いていようと、聖句の二、三を引いていようと、書き手が本当は何に「傾いて」いる人であるかは、文章を見れば分かります。
大阪梅田教会に申し訳程度の磔刑像しかない(今も変わっていなければ)のと同じように、「基本的人権」「人間の尊厳」という共通善の二本の大きなトーテムポールの足元に小さく十字架を配しても駄目です。
そして、もしどうしても二本の柱を立てたいと言うなら、断然こちらにすべきです。
当り前ではないですか。
「そんなことも分かりませんか」と言われなければならないのは誰なんですか。
殆ど「共通善」だけを強調して終いにするような打ち出し方、殆ど「共通善」だけで十分であるかのような、或いは殆ど「共通善」だけが「キリストの教えの核心」を成しているかのような口振り──これらは全くもって「フリーメイソン的」と言われるべきです。