二本のトーテムポール
大司教様のあの書簡を初めて読んだ時の私の第一印象は──
「基本的人権、人間の尊厳、これらの言葉を二本のトーテムポールか何かのように立てないで下さい」
──というものでした。
別に "異教" を思ったわけではありません。
それらの言葉が「前に立ち過ぎて」いると思ったのです。
しかし、それは単に「感覚的」なことではありません。「印象」などと言うと、人はとかく "あやふや" なものだと思うけれども、さにあらず、ここにはちゃんと "実質" もあるのであります。
この事を、ちょっと変わった形で表わしてみようと思います。
あの書簡に見る大司教様の御精神構造は、大阪梅田教会に似ていると思うのです。私が意地悪に無理にその二つを結び付けたのかどうか、あなたも観察してみて下さい。
(1) 大阪梅田教会にも十字架はあるにはありました。祭壇の横に置かれた行列用のような小さなものです。しかし、とてもじゃないが、「ある」と胸を張って言えるものではありません。
(2) そしてその代りに、十字架ではないものが大きな顔をしています。
(1) 池長大司教様のあの御書簡の中にも十字架(殉教)への言及はあるにはありました。しかし、それは比較的に小さなものです。
(2) そしてその代りに、「基本的人権」「人間の尊厳」と書かれた二本の大きなトーテムポールが立っていました。池長大司教様はそれを「キリストの教えの核心だ」と言い張るでしょうが、否、それは「十字架ではないもの」です。(後で追々説明)
つまり、(1) 十字架が小さい、(2) 十字架ではないものが大きな顔をしている、という二点に於いて、大阪梅田教会と池長大司教様のあの書簡は似ているのです。
さて最後に、ここは意地悪に上の二つを一緒にしてみましょう。
なんか、嵌まるなぁ。。
人は、このような比較考察を「遊びっぽい」と思うかも知れません。しかし私は必ずしもそうは思いません。このような、モノをシンボリックに見てゆく(?)という手法は、結構有効だと思います。
有効でないわけがありません。何故なら、文章であれ、建築であれ、人間の内面の表現だからです。
例えば、教会建築の中で「天使」を大きく(小さく)打ち出すも、文章の中で「天使」を大きく(小さく)打ち出すも、同じ事です。
池長大司教様は教会の建築意匠に関心をお持ちである
関心を持っていて悪いということはありません、勿論です。大司教様や司教様がご自分の管轄区の教会の建築意匠に関心を持つのはむしろ当然です。しかし──
上の新聞記事の中に次のような一節があります。
「私自身、日本人の感性に合った宣教が必要と考え、東京・聖イグナチオ教会の改築の際、天に向かうゴシック建築でなく、低い円筒形にしました。訪れる人を温かく迎える神を表現したのです」。阪神大震災後に建てた神戸中央教会の建築にも、同じ思いがこめられている。
聖イグナチオ教会
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神戸中央教会
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これは彼の "コトバ" です。単に "建築意匠" なのではなく。
これは「私は主祭壇に主の磔刑像は置きません」という、「私は主祭壇のそばには聖母の御像も大天使の御像も置きません」という、彼の "コトバ" です。
そして彼は、次に、主イエズスの如何なる明瞭な表象もない教会、大阪梅田教会に進みます。
ちなみに、神戸中央教会(と聖イグナチオ教会)については、私は以前、ちらと次のように書いたのでした。
大阪大司教区の教会であり、「社会活動神戸センター」であり、「PUNEUMA」という名の教会報を発行しているカトリック神戸中央教会も、主の御受難を強調せずにこんなふうに「光」を強調して、あまり良くありませんね。
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「フリーメイソン」とまでは言いませんがね。
それとも、その可能性はあるでしょうか?
大阪梅田教会を持つ大阪大司教区ですからね。
ちなみに建築設計は、聖イグナチオ教会をも設計した村上晶子アトリエによるようです。(神戸中央教会)(聖イグナチオ教会)(Architecture)
こういうものがフリーメイソンの意匠であるかどうかは別にして兎に角、大阪梅田教会を含めこれらの教会の構造は、大司教様のあの書簡の構造に似ています。それは神的なものを後退させながら人間を愛そうとする姿勢です。
殆ど「共通善」だけを強調して終いにするような打ち出し方、殆ど「共通善」だけで十分であるかのような、或いは殆ど「共通善」だけが「キリストの教えの核心」を成しているかのような口振り──これらは全くもって「フリーメイソン的」と言われるべきです。