絵で解説
つまり、このように危惧します。
人々に「希望」なり「正義」なり「道徳」なりを訴える行為を、「旗」や「灯火」や「松明」を掲げる行為としてイメージすることができると思います。
ここでは「松明」を選びました。
常識を守る立派な人です。
あれぇ? 同じ人がこのようなことをしました。
どうやら、この人は「全体」が見えない人のようです。
同じ人が今度はこのような松明を掲げています。
大丈夫でしょうか?
また「全体」を見失わないでしょうか?
知らず知らず(自覚なしに)、部分的にでも、こんな事をしてしまうのではないでしょうか?
「知らず知らず(自覚なしに)」と云うのは、池長大司教様は、御自身としては、御自身の主観としては、御自分が「信仰」をないがしろにしているなどとは、夢にもお思いになっていないだろうからです。
「部分的にでも」と云うのは、池長大司教様は「信仰」を "全て"、その "全領域" に亘ってないがしろになさっている、などという事を、私は言いたいのではないからです。
私も、インターネットを通じて、教会暦の重要な折々には大司教様も「信仰」そのものについてお話しになることを、知っています。
しかし、或る部分では良いようでも、別の部分で信仰を裏切るようだったら、全体としては駄目じゃないですか。