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第8研究室【文化】趣味

 

相 撲


 Labo-8の「文化研究室」では、信長が好んでいた思われる趣味について調査し、実際に、いつ、どこで、何をしていたのかや、その嗜好作業とはいったいどんなことだったのか、ということについて調査してまとめる作業をしています。
 そんな中でも、こちらのページでは特に「
相撲」にスポットをあてて、信長に関係のある資料等から「相撲」というキーワードで再検索をして、信長と相撲の関わりについて調査・研究をしています。
 下記のリストについては、各項の詳細データにアクセスするには行頭の「
」の印をクリックして下さい。該当部へジャンプします。


 

和 暦

日  付

開催場所

出典・備考

元号

(西暦年)

  天文 -   -      
 

弘治
-   -      
  永禄 -   -      
元亀 元年

1570

常楽寺
『信長公記』
天正 1578

29

安 土
『信長公記』
天正 1578 15

安 土
『信長公記』
天正 1578 10

安 土
『信長公記』
天正 1579 6〜7

安 土
『信長公記』
天正 1580

安 土
『信長公記』
天正 1580 17

安 土
『信長公記』
天正 1580 24

安 土
『信長公記』
天正 1581 21

安 土
『信長公記』

行事のはじまり

 現代のように勝負の判定をする行司が登場したのは、織田信長の頃からだと言われている。
 
中世(鎌倉・室町時代)頃より、相撲は武士の間で、心身の鍛練や戦闘に役立つものとして盛んに 行われ、武術の一種として奨励されていたこともあって、織田信長は元亀元年(1570年)頃から10数年に渡り、毎年大勢の力士を集めては相撲大会を催していた。力士といっても、信長が兵農分離を確立するまでの半農半武の時代であっては、殆どが力自慢の土豪や農民であった。

弓取りのはじまり

 弓取式もこの頃、最後まで勝ち抜いた力士両名が、取り組みの後に申し合わせて太刀と弓とを持たせた家臣を従えて入場し、信長に挨拶をしたのが始まりと言われている。

東西のはじまり

 また、東西に分かれる上覧の仕方も、信長が最後まで勝ち抜き、見事な力くらべを見せた両力士に対して、東から土俵にあがった者に「東」、西から土俵にあがった者に「西」という姓を下賜したのが始まりと言われている。この事については遺物研究室(labo-7/逸話)に詳しくまとめてありますので、是非ご覧下さい。(

その後の相撲の発展

 禁じ手や土俵などが整備されたのは、皮肉なことに江戸時代のことで、幕府によって相撲禁止令が出たためだという。戦国時代が終わって失業した浪人たちが職業的な力士となり、各地の奉納相撲などに雇われたり、勧進相撲を行うようになると、地元の力自慢の侠客などとの騒動が絶えなくなった。これにより幕府は1600年代の半ばから、幾度も禁止令を出すことになる。自分で自分の首を絞めることになった力士集団は、四十八手など勝負の決まり手や相撲場に境界線を引いたりして自粛するようになった。それまでは、力士たちが人垣を作ってとり囲んだ中で取り組みが行われ、人垣の中に倒すか外に押し出せば勝ちというルールであったが、けが人を出したり騒動を引き起こす原因となっていたのだという。
 そして庶民の間での根強い相撲人気などを背景に1684年の7月、公式には30年以上禁止されていた相撲が、深川永代寺で勧進相撲として許可された。寺社奉行の指導で相撲興行団体が設立され、相撲年寄をおいて職業的力士たちを部屋ごとに統括するようになったのもこの年だ。これによりこの年から、勧進相撲の年4回興行が許されるよう になり、江戸が全国の相撲の中心地として発展していくことになった。

  元亀 元年
(1570)
3月

3日
近江國常楽寺
信長公記

 三月三日に江州国中の相撲取を召し寄せられ、常楽寺*1にて相撲を取らせ、御覧候。

 人数の事

百済寺の鹿、百済寺の小鹿、たいとう、正権、長光、宮居眼左衛門*2、河原寺の大進、はし小僧、深尾又次郎、鯰江又一郎*3、青地与右衛門*4

此の外随分の手取りの相撲取共、我もゝゝと員を知らず馳せ集まる。其時の行事は木瀬蔵春庵*5

鯰江又一郎*3・青地与右衛門*4取勝り、これに依って青地・鯰江召出され、両人の者に慰斗付の大刀・脇差下され、今日より御家人に召加へられ、相撲の奉行*6を仰付けらる。両人面目の至りなり。

爰に深尾又次郎、能き相撲面白く候て、御感なされ、御腹*7下さる。忝き次第なり。

wev
■織田信長上覧相撲
 近江国常楽寺において相撲上覧。勝者宮居眼右衛門に与えた弓が弓取りの始まりと伝えられる。(http://www.wnn.or.jp/wnn-t/nyumon/history/rekishi.html)

考 察

【用語解説】

*1 常楽寺  この当時(元亀元年)には、まだ信長は本拠地を近江に移しておらず、開催の地が常楽寺となっている。これは寺の名前ではなく、後に信長が居城を置く安土城下の下地となった湊町の地名である。これ以降の開催地の記述が「安土」に変わっているが、この「常楽寺」は、実質同じ安土と考えて差し支えないだろう。
*2 宮居眼左衛門 wevサイトで検索して見つけた「相撲の歴史」では、『勝者宮居眼右衛門に与えた弓が弓取りの始まりと伝えられる。』とあるが、『信長公記』の記述にもあるように、この時の勝者は鯰江や青地であったに違いない。しかし、優秀な力比べを見せ、信長を満足させた宮居眼左衛門は重藤の弓を拝領している。これが弓取りのはじまりとなったということらしい。
*3 鯰江又一郎 鯰江という名前からも、近江の鯰江あたりの土豪であろう。佐々木六角氏の家臣にもこの名は見られるようなので、出自はその庶流の可能性もある。信長の近江制圧にともなって士官する意味合いでの相撲参加だったのかも知れない。
*4 青地与右衛門 馬の調教に長けており、後に「御厩別当」に任じられた。多くの名馬を調教し、正宗の名刀を与えられている。馬揃えなどでも活躍している。
*5 木瀬蔵春庵 勝負の判定をする行司としてこの名がみえる。「行事」とあるが、行司の意味であろう。この者が行司の初見とされている。また、行司が使用する軍配は、戦国の世に於いては、戦の際に大将が軍を指揮する団扇であり、現在の大相撲でも行司が腹帯に脇差しを指しているのは帯刀を許された武士という意味と、差し違え(誤判定)の場合には切腹するという意味があったという。
*6 相撲奉行 相撲奉行については、鎌倉幕府が編纂した正史「吾妻鏡」にも頼朝の相撲上覧の様子が 見られ、鶴ヶ岡八幡宮の祭礼には、将軍がみずから参詣し、流鏑馬・競馬などとともに相撲を見物 しているとある。なお室町時代に於いても、鶴ヶ岡八幡宮では相撲職を任命しており、引き続き相撲の神事を行っていたことがわかる。
*7 御腹 呉服、衣服の意味であろう。

  天正 六年
(1578)
2月

29日
安 土
信長公記

 二月廿九日、江州(*8)国中の相撲取三百人召寄せられ、安土御山(*9)にて相撲とらせて御覧候。此中、廿三人撰相撲これあり。此者共には御扇を下され、中にも日野長光(*10)には別て御念を入れられ、平骨に濃たる(*11)御扇、御前へ召寄せられ拝領。下聞面目の至なり。行司木瀬蔵春庵(↑*5)・木瀬太郎大夫なり。此両人御服下され頂戴。

廿三撰相撲人数

東馬次郎・たいとう・日野長光・正権・妙仁・円浄寺・地蔵坊・力円・草山・平蔵・宗永・木村いこ助・周永・あら鹿・づこう・青地孫二郎・山田与兵衛・村田吉五・太田平左衛門・大塚新八・麻生三五・下川弥九郎・助五郎、

巳上廿三人。

wev

考 察

【用語解説】

*8 江州 「ごうしゅう」と読み、近江国のこと。
*9 安土御山 安土城のこと。城内に相撲を取らせる場があったことになる。ソウ見寺などには能舞台が設けられていたことは記録になるが、相撲は城内のどこで取らせたのか不明である。
*10 日野長光 元亀元年三月三日の記録にも「長光」とあるのは、たぶん同一人物であろう。
*11 平骨に濃たる 「扇子の骨に金銀で彩色する」と『信長公記』の脚注にある。「濃」の字には「ダミ」とルビが降られているので、これは薄濃と同様に漆に金銀をまぶして彩色する方法のことを指しているものと思われる。

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

wev

考 察

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

wev

考 察

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

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考 察

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

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考 察

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

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考 察

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

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考 察

  天正
(15**)
*月

**日
安 土
信長公記

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考 察

 第8研究室 文 化

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http://yuichiro.3nopage.com より

4回目の相撲会で、信長には14人の者を取り立てた。
東馬二郎、たいとう、づかう、妙仁、ひし屋、助五郎、水原孫太郎、大塚新八、あら鹿、山田与兵衛、円城寺源七、村田吉五、麻生三五、青地孫治【信長公記(太田牛一)】である。

彼らは先輩の青山与右衛門のように次々に出世した。

5回目の相撲会で勝ち抜き記録を出した伴正林(ともしょうりん)という若者は、のちに厩番に配属され、本能寺の変の際には厩から斬って出て討ち死にした。

たいとう、ひし屋は馬揃えの際に長刀持ちを務め、大塚新八は後の相撲会に出場して知行を加増された。村田吉五も伴正林と共に厩番となり、本能寺で討ち死にしている。

が、円城寺源七は不届きの子細【同上】によって追放されてしまう。詳しい理由はわからない。