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第三章:取り残される者と、嘲笑う者と、前を向く者
第11話:外れた歯車、噛み合うことは無く
 

 優れた身体能力を生まれ持っている竜人たちにとって、戦いとは、言い換えれば『狩り』であった。

 固く力を込めれば、鋼鉄のように硬度を増す手足。繰り出す拳はあらゆる外敵を貫き、石のように固いモンスターの甲羅すら破壊することが出来る。
 人間どころか分厚い毛皮に覆われたモンスターをも容易く切り裂く鋭い爪に、人間を超越した圧倒的な筋力。何時だって竜人に勝利をもたらしてきたものだ。
 武器や防具でその身を武装するのは、軟弱な生き物の証明。生まれ持っての選ばれた力によって、他を圧倒する。肥大した自尊心によって生み出された、竜人特有の美意識は、マリーたちとの戦闘においても表に出た。
 唯一の弱点とも言っていい、鱗に覆われていない肌の部分。鱗に覆われた部分よりも強度は落ちるものの、それでも小動物の牙ぐらいでは傷一つ付くことない。マージィの渾身の一撃ですら、浅い傷しか与えられなかったのが、その証拠である。

 だから、即座に反撃されたマージィは想像すらしないだろう。不意打ちとはいえ竜人の肌に傷をつけたことは、称賛されてもいいぐらいの偉業を達成したに等しいことなのであった。



 動いたのは、竜人の方が早かった。正確に言い直すのであれば、男の竜人が、である。

 優に2メートルに達するのではないかと思える程の巨体が、信じられない俊敏性でもって移動する。トカゲが如き瞬発性を如何なく発揮した男竜人は、コンマ何秒という時間で、十数メートルという距離を詰めた。
 最初に飛び出したのは、竜人の中でも血気盛んな若者であった。刃のように研ぎ澄まされた眼光が獲物として見据えたのは……マリーであった。
 びゅお、と空気が舞う。常人であれば、近接されたことを認識出来るだけのわずかな時間。その一瞬の合間に、若者は拳を振りかぶっていた。
 メキメキと振り被った腕の筋肉が盛り上がる。チラリと、マリーの瞳がこちらを捕らえたのを認識した若者は……愉悦に顔を歪めた。

 今、その小奇麗な顔をぐしゃぐしゃにしてやるよ!

 固く握りしめた拳。今まで、いくつものモンスターの命を奪い、鎧などという軟弱な物で身を守る人間を貫いた凶器が、振り下ろされた!
 ぱん、と乾いた音が響いた。拳の先に捕らえた確かな手ごたえと、パッと飛び散った鮮血に、若者の笑みがさらに深まった。
 しかし、すぐに若者は異変に気付いた。確かな手ごたえがあったというのに、マリーの顔が、元の位置にちゃんとあるのだ。

「……んん!?」

 マリーの顔は無事であった。目も、鼻も、口も、元の造形を残しているのが、鮮血でコーティングされた上からでも見て取れた。
 地面に落とした卵のようにマリーの顔が砕け散る様を想像していた若者の笑みが、困惑に歪んだ。思わず目を瞬かせて、悠然と構えたままのマリーを見やった。

「……なんで、生きて――!?」

 瞬間、若者は腕から走った強烈な激痛に言葉を無くした。今まで経験したことが無い、吐き気をも催す程の饒舌し難き苦痛。あまりの痛みにたたらを踏んで距離を置いた若者は、そこへ目を向けて……絶句した。

「お、俺の腕が……!」

 肘から先。本来、鱗で覆われた手があるはずの部分が、そっくりそのまま無くなっていた。断面図と思しき部分からは間欠泉のように鮮血が噴き出しており、千切れそびれた鱗の一部がぷらんぷらんとへばり付いていた。
 事実を理解した瞬間、若者は女の様に甲高い悲鳴をあげた。思考は混乱の濁流に飲み込まれ、頭の中は『なぜ?』の文字で埋め尽くされた。
 何が起きたのか、まるで分からなかった。
 何をされたのか、まるで分からなかった。
 理解したくない現実に、脂汗が噴き出してくる。反射的に出血を抑えようとするも、腕に触れただけで気が遠くなる程に辛い。ゾクゾクと背筋に走る何かに震えを止められない若者の横を、女竜人が躍り出た。
「よくも仲間を!! 死ね、人間がぁ!!」
(ま、待て、そいつに近づ――)
 女竜人の爪が、マリーの身体を切り裂いた……と、彼女は思ったのかもしれない。背後から伸ばされた若者の腕に、彼女は最後まで気付かなかった。
(――っ!?)
 だから、若者は知ってしまった。竜人の優れた動体視力のおかげで、分かってしまった。先ほどよりも距離が有り、女竜人を犠牲にすることで、若者はマリーが何をしたのかを理解することが出来た。

 それは、あまりに素早い反撃であった。

 痛みによって研ぎ澄まされた若者の世界はゆっくりと動いていて、マリーの動きを正確に、スローモーションの如く把握出来た。
 振るわれた女竜人の爪を掻い潜るようにして、マリーが懐に潜り込む。女竜人はもちろん、若者ですら、踏み込んだ瞬間を認識出来なかった程の速度で、だ。

 音よりも速く放たれたマリーの右拳が、女竜人の肩に食い込む。伸ばされた方の腕だ。

 その腕が次の瞬間、ふわりと肩から離れた。切ったのだと、眼前を通り過ぎる腕の断面図を見て若者が理解する……その後には、マリーの処刑が始まっていた。
 残った腕を左腕が切り飛ばす。抉るようにして放たれた連続アッパーが、女竜人の首を空高く跳ね飛ばし、胴体をズタズタに引き裂き、添えられるようにして振るわれた手刀が、女竜人の身体を縦に切り裂いた。
 女竜人の爪が、マリーの身体に触れる直前。時間にすれば、瞬きに等しい刹那の一瞬。その一瞬の間に、女竜人の身体は6つに解体されて明後日の方向へと飛び散った。
 後には、全身を女竜人の血で汚したマリーだけが残された。おそらく、女竜人は己が死んだことすら知覚出来なかったのかもしれない。竜人が持っている再生能力を軽く凌駕する……無慈悲なまでの攻撃であった。
 べちゃりと、己の頭に降り注いだ温かい何かを若者は反射的に掴む。それは……女竜人の内臓の一部であった。そして、どすん、と目の前に落ちてきた塊は……憤怒の形相のまま固まった、女竜人の頭であった。

「――ぁぁぁ、あああ、あああーーーー!!??」

 一気に噴き出した感情。それが、『恐怖』であることを理解すると同時に、若者はマリーに背を向けた。
 自らを助ける為にそうなった仲間の臓器をも放り投げ、激昂した仲間たちがマリーへと襲い掛かっていくのを横目にしながら、若者は走り出した。
 だが、その逃走はすぐに止まってしまった。眼前に広がる信じがたい光景に、ガクガクと全身が震えてしまうのを抑えられなかった。

「ぁぁぁ……ぁぁぁ……」

 頬を、熱い滴が伝って行く。物心が付いてからの、初めての涙。カチカチと恐怖で歯を鳴らす……若者の視界には、地獄が映っていた。
 若者の目の前に広がっていたのは、つい今しがたまで生きていた仲間たちの……息絶えた死体であった。その数は、ここに来た仲間たちのおおよそ半分に達していた。
 若者よりも一回り年上の、血の繋がらない兄が、苦悶の表情で地面に横たわっている。その身体にはいくつもの風穴が開けられていて、地面に赤い水たまりを作り出していた。
 滅多刺し。その言葉がこれ以上似合うことはないだろう。戦いが始まってから、ほんの5分も経っていない……その間に、兄はこうされたのだ。圧倒的な何かによって。
 その向こうでは最近婚姻を済ませたばかりの姉が、全身から血を流しながら決死の形相でイシュタリアに躍りかかっていた。若者の目から見ても速いと断言出来る攻撃……だが、そのどれもがイシュタリアには届いていなかった。

「ぬははは、どうしたのじゃ!? お主もその程度か!? そんなに殺して欲しいのじゃな!?」

 イシュタリアの素早さは、姉の比では無かった。繰り出される姉の攻撃を、けらけらと笑いながら避け続けている。その顔には何ら焦りの色は無く、むしろふざけている節すら感じられる。
 若者の力を持ってしても、自在に振り回すには少しばかり疲れるサイズの斧を、イシュタリアは軽々しく片手で扱っている。いや、軽々しいどころではない。
 ほんの一瞬だけ、姉の体勢が崩れた。びゅん、と腕と斧がブレる。そう、若者が認識した途端、姉の背中に生えた翼が……血飛沫と共に宙を舞った。
 姉の表情が恐怖と苦痛に歪む。しかし、負けん気の強さは若者よりも上な姉は、そのまま身体を反転させて、蹴りを放った。

「遅いのう」

 しかし、遅かった。言葉通り、姉の蹴りがイシュタリアに届くよりも前に、すれ違いざまに姉の腹部に拳を叩き込む。とてもではないが、人が殴った音には聞こえない、重苦しい打突音が辺りに響いた。

 ごぱぁ。

 鮮血が、姉の唇から噴き出した。ぐらりと体勢が崩れた姉の足を、イシュタリアが掴む。ハッと姉の目に意識が戻ると同時に姉の身体は逆さになって、宙を舞っていた。

「ぬははははは!!」

 ずどん、と地面にヒビが入る程の威力で、姉の身体は地面に叩きつけられた。それはまるで、乾いたタオルを地面に叩きつけるかのような、単純な攻撃。ふわりと、また姉の身体が浮き上がり……再び地面に姉の跡が付けられた。
 巨大斧を片手で振り回す筋力から生み出される破壊力。さしものの竜人も、それだけの攻撃を連続に受ければ堪らない。5回ぐらいまでは抵抗して暴れていた姉も、8回目を超えた辺りで動かなくなった。
 そのまま十数回、姉の身体が土まみれになった頃、元の形が分からないほどに変形した姉の顔が、若者の目にも確認出来た。辛うじて、息が有るのが見て取れるが、もはや虫の息に等しい状態であるのは明白であった。
 もはや痙攣すら起こさなくなった姉を見下ろしたイシュタリアは、ふむ、と首を傾げた。

「……何じゃ、もう死んだのか……思ったよりもたいしたことないのう」

 ポイッと、ゴミを放り捨てるかのように、姉の身体は地面を転がった。はあ、とため息を吐いたイシュタリアの視線が……若者へと向いた。
 ゾクッと、背筋に悪寒が走ったのを若者は知覚した。頭の中で『逃げろ』と叫ぶ己の声が聞こえるが、足が全く動かない。涙が出る程に、身体が動いてくれない。
 ポタポタと、太ももに感じる生暖かい感触。漂ってくる臭いに、若者は初めて、己が失禁していることを理解した。情けないと思うことすら、出来なかった。

 ああ、俺は死ぬのか。

 この場には似つかわしくない、花開くような笑顔を浮かべたイシュタリアがこちらに向かってくるのを見た若者は……そう覚悟をした。
 ……そう覚悟した瞬間、イシュタリアの胸から腕が突き出た。

「えっ?」
「うむ?」

 何が起きたのか分からない。奇しくもイシュタリアと若者の表情が一致した。こぽっ、とイシュタリアの口から鮮血が噴き出し、突き出た手は脈動する塊を掴んでいた。
 イシュタリアの後ろから顔を覗かせた存在を見やった若者は、歓喜に目を見開く。それを見て背後の存在を悟ったイシュタリアは、けひっ、と血反吐交じりの咳をした。

「……その身体で私の心臓を抉り取るとは、やるのう、お主。少し見直したのじゃ……ただし、お主は少し私を本気にさせたようじゃぞ……」
「――っ、ぞ、ぞうがい……!」

 息も絶え絶えに、若者の姉は腕に力を込める。ぐちゃりと音を立ててイシュタリアの心臓を潰すと、力無く項垂れた彼女の胸から、腕を引き抜いた。ゆるやかに、イシュタリアの身体が倒れた。

「……ちくしょう、こいつのせいで、仲間が何人も殺された……!」

 鮮血と粘膜で真っ赤に濡れた腕を振るうと、どろりとした血液が地面に跡を作る。飛び散ったのは、何もイシュタリアの血ばかりでは無かった。
 乱れた呼吸を必死に整えながら、姉は顔をあげる。ふらつく足取りで弟である若者へ向かう……ふと、若者の様子がおかしいことに気づいた。
 目玉が飛び出るのではないかと心配してしまう程に、大きく見開かれた瞳。言葉を無くしてしまったかのように唇を震わせている若者の指が……ゆっくりと、己を指差した。

「――やれやれ、心臓を失うのは、あやつに抉り取られた以来じゃのう」

 いや、違う。自分を指差したのではない。弟が指差したのは――!

 反射的に、姉は持てる全ての力を振り絞って蹴りを後方へ放った。
 しかし、足先には何の感触も伝わっては来ない。空振りした先に悠然と斧を振り上げたイシュタリアの姿を見て止めて……その身体が、ブレる。

 風が、揺れた。

 ――あっ。

 声にならない悲鳴が、若者と、姉の口から零れた。がくん、と視線が力無く下がるのと同時に、ゆるやかに弧を描いて飛んでいく二本の腕と、二本の脚。
 喪失した手足の感覚が、姉に一つの答えを導き出す……直後、ずん、と胸に広がった圧倒的な異物感に、姉は目を白黒させた。

「ほほう……脈打っとる、脈打っとる。お主の鼓動が、お主の命が、掌を通して私の身体に伝わってくるのじゃ」

 何食わぬ顔でそう言う異種アリアの胸、抉り取られた胸の傷口の内側から、何かが蠢いている。そこからくぷくぷと赤い泡が吹いたと思ったら……貫いた筈の傷口が、すっかり塞がっていた。
 実に楽しげに笑みを浮かべるイシュタリアを見て、姉は理解した。その事実の前には、切断された手足から伝わってくる激痛も、臓器を直接掴まれる苦痛も、気にはならなかった。

「残念じゃのう。心臓を抉ったくらいでは、私は死なぬのじゃ。せめて、首を切り落としていれば、もっと時間を稼げたかも分からんのう……」

 ああ、私はここで死ぬの――。

 そこで、姉の目から意識が消えた。その瞬間、イシュタリアが姉の胸から心臓を抉り取ったからであった。ぶちぶちぶち、と体重を支えきれない血管が音を立てて千切れて、どしゃ、と地面に落ちた。
 どろりと濁った姉の瞳と目が合った若者のすぐ横を、いくつもの風が通り抜けた。それが、つい今さっきマリーに向かって行った仲間たちの首であることを認識した途端……若者の身体を縛っていた恐怖が、弾けた。

 逃げろ!

 その言葉が脳裏を埋め尽くし、若者は路地裏の向こうへ逃げようとした。

「――――っ!!!」

 しかし、踏み出そうと思った足から、かくん、と力が抜けた。

「――あっ?」

 一瞬の浮遊感。みっともなく顔面を擦った若者は、口の中に入り込んだ砂を吐き出して振り返り……今しがた己が立っていた位置に転がっている、両足らしき物体を見て、若者は己の末路を悟った。

「残念、逃げるには、少しばかり遅いよ」

 ぬるりと、音も無く若者の視界に姿を見せたサララが、若者を見下ろすように立っている。若者は、もはや逃げようとも思わなかった。
 遅れて来た痛みが、如何にサララの槍捌きが超人染みているかを若者に伝えてくる。実に鮮やかな槍捌きで、転がっている仲間たちの遺体を一か所に放り集めているのを、若者はどこか他人事のように眺めていた。
 この後、己がそこへ仲間入りするだろう……それが、若者には分かってしまった。この女が己の両足を切り飛ばしたのだという現実を、若者は不思議なぐらいにあっさりと受け入れた。

「やっぱり高いだけあって、凄い切れ味……これだけ振り回しているのに刃こぼれ一つ無い……『粛清の槍』、買って良かった……」

 だからだろうか。周囲の死体をあらかた集め終えたサララから、仲間たちの血で汚れた刃を眼前に向けられても……若者の心は、落ち着いていた。
 もしかしたら、『気が触れる』というのはこういう気分を差すのだろうか。もしそうなら、なんとなく若者はへらへらと笑みを浮かべていたあの男の気持ちが分かるような気がした。

「……どうする、命乞いでもする?」

 まるで、今日のお昼ごはんを尋ねるかのような気軽さだ。刃先が若者の眼前で円を描いている……事実、それぐらいに気軽さで殺せるのだろうと若者は思った。

「……ひと思いに、楽にしてくれ」
「そう、分かったわ」

 フッと刃先が引かれる。溜めを作ったサララを見て、若者は静かに目を瞑った。

「あ、ちょっと待つのじゃ」

 しかし、終わりは来なかった。ハッと見開いた若者の視界に飛び込んできたのは、目と鼻の先で止められた刃と、サララに駆け寄るイシュタリアの姿であった。

「……どうするつもり?」
「なあに、殺す前に、ちょっと有効活用しようかと思ってなあ……」

 有効活用? どういうことだ?
 意味が分からない単語が出てきたことに、若者は一抹の不安を覚える。駆け寄ってきたイシュタリアが何とも言えない笑顔を浮かべていることが、さらに不安が膨れ上がった。

「有効活用って、何するつもりなの?」
「んん……ちょっとナタリアの所へ連れていこうかと思ってのう。戦いが始まってすぐに、そこの家に入って行くのが見えたのじゃ」

 そこ、と指差された方へと視線を向ければ、特に代わり映えがしない普通の家であった。ただし、よくよく目を凝らせば……家全体が、微妙に揺れている……というより、軋んでいるようにも見えた。
 その家に火の手が回るまで、まだしばらくの猶予がありそうだが……何をしているのだろう。げんなりと顔をしかめるサララを見て、不安気に視線を行き来させていた若者の心に、新たな不安が圧し掛かった。

「片手に生きた男の竜人を引きずっておったから……もしかしたら、致しておるかもしれぬのじゃ」

 さらに、サララの表情が歪んだ。

「……ああ、うん。皆まで言わなくてもいいよ、想像したくないから」
「久しぶりにまともな戦闘したせいで、気が高ぶっているせいじゃな。こりゃあ、あやつに頑張って貰わねばならぬかも分からんのじゃ」
「マリーに何かしたら、私の槍は躊躇なくあなた達を貫く。それを忘れたわけじゃないよね?」
「やっぱり、こいつに頑張ってもらうとするのじゃ。いやあ、よかった、代わりがおって……」
「……まあ、それならいいか。さすがにかわいそうな気もするけど、自業自得だし……」

 サララから酷く気の毒そうな目を向けられて、ますます若者は訳が分からなくなった。そのナタリアとかいうやつの元へ行けば、何がどうなるのだろうか?

「……ところで、前から思っていたけど、あの子は穴だったら何でもいいの?」
「いや、そういうわけではない……と思うのじゃが、ううむ……まあ、男であるなら何でもいいかもしれぬのう……難儀な子じゃな」

 グッと髪の毛を掴まれて引っ張り起こされる。と思ったら、若者はイシュタリアの背中におぶさっていた。それだけでなく、若者の負担を軽減させる為に、後ろからサララまでが支えてくれた。
 先ほどまでの扱いとは雲泥の差だ。不自然なぐらいに気遣ってくれる二人の人間に、いよいよもって若者は混乱の極みに達した。
 そして、二人が動き出した……と思ったら、ピタリと足を止めた。今度は何だと若者は億劫な意識を奮い立たせて顔をあげる。イシュタリアの視線が、これから向かおうとしている家の、隣の家に向いているのが見えた。

「……そこに隠れている生き残りの竜人。居るのは分かっておるから、出てくるのじゃ」

 ……えっ!?

 驚きに目を見開く若者。直後に隣の玄関を蹴破って飛び出して来たのは、ドラコと口論をした竜人の男、リョガンであった。
 それだけでなく、リョガンの腕には人間の少女が捕まっていた。マリーたちよりもいくらか年若い緑髪の少女が、涙目で頬を引き攣らせているのが二人の目にも、若者の目にも見えた。

「動くな! 動けばこいつの命が無い……こいつを助けたければ、俺の命令を聞け!」

 どうやら、リョガン自身は戦闘らしい戦闘を行っていないのかもしれない。少女の首もとを捕らえている鋭い爪は一切欠けている部分は無く、その身体にはほとんど泥が付いていないことから予想できた。
 ……ただし、太ももの間。いわゆる内またと呼ばれる部分に、謎の白い液体がべったりと張り付いていて、その液体の所々に赤色が混じっているのが見える辺り、全くの無事であったというわけではないようだ。
 それが何なのか分からず目を瞬かせる若者を他所に、サララとイシュタリアは……気の毒そうにリョガンを見つめた。マリーは無表情になっていた。

「ううむ、既にお手付きのようじゃな……というか、あれは最初にナタリアが引きずり込んだやつではないか。どうやら、抜け出してきたようじゃな」
「……あれ、何回ぐらいされたのかな?」
「さあ、分からぬ。まあ、あの量から察する限りでは、少なくとも3回は出された後じゃな」

 イシュタリアの足元の土が、少し盛り上がる。山盛りになった土からぼこっと飛び出したのは、イシュタリアの腕と同じくらいの長さの、先端の途中で十字の歯止めが飛び出している投槍であった。

「……ナタリア、大丈夫かな。夢中になるあまり、返り討ちにされちゃったとかないよね」

 それを拾いあげたサララは、そう返事を返しながら、投槍の土を払う。重さなどを確認し、イシュタリアにジェスチャーで上出来の合図を見せた。

「大丈夫じゃろ。もし返り討ちにしているのであれば、わざわざ隣の家に隠れたりはせぬし、もっと遠くに逃げておるはずじゃ。それをしていないのは……腰が立たぬ程に、ナタリアが頑張ったからじゃのう」

 ごく自然な動作を装って、イシュタリアはサララを横に出した。ちょうど、サララとリョガンの間には一切の遮蔽物は無く、有るのはリョガンの腕に抱えられた緑髪の女の子だけ。

「……つまり、誇り高き竜人はちょっとぶち込まれただけで動けなくなったわけ……か。それはちょっと……気の毒だね」
「――っ、き、貴様ら……」

 人質のこともそうだが、己自身すらまともに相手にしない二人に、リョガンの顔色が一気に紅潮した。自らが受けた仕打ちを知られていることも、怒りを増幅させているのかもしれない……が、今激昂するのは悪手であった。

「こ、この人質がどうなってもいいのか!?」

 そう、リョガンが叫んだ瞬間。何気ない様子で振り返ったサララの手から放たれた投槍が、ひゅん、と空気を切り裂いて……。

「――あっ?」

 すとん、と呆気なく少女の洋服に突き刺さった。ぽかん、とした様子で目を瞬かせている少女の洋服から、ジワッと赤い染みが広がっていく。濃密な血の臭いが、ぷん、とリョガンの鼻腔に飛び込んできた。

「お、おい!?」

 直後に、フッと、少女の身体から力が抜けた。あまりに予想外の事態に、リョガンは半ばパニックになって少女の身体を揺さぶる。少女の顔ははっきりと分かるぐらいに青白く、額には冷や汗が浮かび始めていた。

「ま、待て、死ぬな! お前がここで死んだら意味が――」
「無いってかい?」

 背後から掛けられた声に、ハッとリョガンは我に返り……グルリと視界が反転した。眼前に映る、逆さになったマリーと少女と、むき出しになった首から夥しい鮮血を噴き出している己の身体を見たのを最後に、リョガンの意識は途絶えた。
 ぼとん、とリョガンの頭部が地面を転がる。横殴りの手刀にてリョガンの首を切り飛ばしたマリーは、ふむ、と頷いた。

「全身をバラバラにしなくても、首を切り落とされれば即死するか。そこらへんは、人間とそう変わらないんだな」

 そうマリーは零した。確かに首を切り落とされれば脳を失うので竜人と言えど即死するが、そこまでしなくても竜人を殺すことは可能であったりする……まあ、マリーたちには関係ないのかもしれない。
 両足と片手を失っても生きていられる若者を始め、化け物染みた再生能力を持つ竜人とはいえ、再生が間に合わなかったら死ぬし、再生できる怪我にも限度はある。
 再生に使われる体力は有限であり、再生すればするだけ消耗してしまうので、体力が底を尽けば力尽きるのは当然の話なのであった。

「さて、死んでなきゃあ儲けもんだな」

 倒れた少女を抱き抱え、イシュタリアの方へと駆け寄るマリー。イシュタリアからゴミのように地面へ放られた若者が「いてっ!」顔をしかめているのを他所に、マリーは一息に少女の身体から投槍を引き抜いた。

「マリー、私がやっておいて何だけど、もう少し優しくした方がいいんじゃ……」

 若者が不穏な動きを見せないように目を向けていたサララが、マリーの手荒なやり方を見て、思わず眉をひそめる。
 しかし、マリーは全く気にした様子も無かった。

「さっさと逃げずにあんなところに隠れていたこいつが悪い。コレで死んだら、こいつの運が悪かっただけの話だ」
「まあ、それもそうじゃな。いちおうは歯止めをかけて食い込まぬようにはしておいたからのう……最初に恨むべくは己の不運じゃな」

 ジワッと噴き出した鮮血が、血濡れている洋服をさらに赤く染める。十字の歯止めのおかげで3分の1も刺さってはいなかったが、それでも少女の体格には少しばかり深すぎたのかもしれない。

「……しかし、この火事はどうするよ? 他の奴らがこっちに来ない以上、どうにかしないと手遅れになるだろうが……お前の魔法術でどうにかなるか?」

 ホワッ、と魔法術の明かりに照らされた少女を見やったマリーは、そう言って立ち上がった。今しがたリョガンが隠れていた家の屋根に飛び乗って、火災が起きている辺りを確認する……いまだ、火の勢いは衰えてはいなかった。
 ラステーラの住宅は、レンガやコンクリートを利用した家と、木々を利用した家が不規則に建てられている。激しく燃えているのは木造住宅の方で、そちらは早急に消火活動を始めなければならない……のだが、ここで竜人の存在がネックとなる。消火活動に必要な人員が、竜人の存在を恐れてこちらへ来られないのだ。
 まあ、幾らマリーたちが守ると言っても、不安が大きすぎるということなのだろう。それをここに来る前に役所から聞いていたマリーがイシュタリアに尋ねたのだが……返って来たのは、呆れ交じりのため息であった。

「お主は時々無茶を言うのじゃ。飲み水ぐらいなら今すぐ用意できるが、これだけ大きくなった火災を収めるだけの水なんぞ、いくら私でも精製出来るわけがなかろう」

 屋根の上に居るマリーに聞こえる様に、イシュタリアは大声で返事をした。もちろん、マリーも大声で返事をした。

「なんだよ、『時を渡り歩く魔女』だろ。雨を降らすことは出来ねえのかい?」
「雨を降らす魔法術なんぞは知らぬ。それに、仮に知っていたとしても、発動するまでには町の半分が炭になっておるじゃろうな」
「……なるほど、それじゃあもうしばらく働くしかねえってわけかい」

 深々とため息を吐いたマリーは、ギュッと『ファイバー』の握り心地を確かめる。現時点で十数か所の同時火災が起きている以上、選択肢は無かった。

「壊すのであれば、考えて壊すのじゃぞ! 下手に壊すと後々アホどもに絡まれるのじゃ」
「文句は、火を点けた竜人に言えっていうだけの話さ」

 そう二人に言い残すと、マリーはとん、と宙を跳んで屋根へと飛び乗る。屋根から屋根へ、十数メートルの距離を一蹴りで渡っていくマリーの後ろ姿を見送ったイシュタリアとサララは、仕方ないと首を横に振った。

「マリーの言うことは最も。現状、それ以外に手だては無い」
「それを理解出来るだけの教養があるやつばかりであればいいのじゃが……よし、終わったのじゃ……ほれ、起きるのじゃ」

 フッと、治癒術の明かりが消える。先ほどよりも血色の良くなった少女だが、意識はまだ戻っていないのか、揺さぶられても力無く目を瞑っていた。

「……イシュタリア……こういうときは、こうした方が早い」
「……いや、それは私も知っておるが、いきなり頬を叩くのはどうかと思うのじゃが……あ、鼻血が出たのじゃ」
「………起きた? それじゃあ、顔以外で痛いところはある? 無いなら、今すぐ役所の方に走って。そっちに行けば、多分お母さんがいると思うから」
「ほれほれ、泣くでない。泣いていいのは下の毛が生えるまでじゃぞ……あ、生えてない? 胸が膨らんできておるようなら一緒じゃ。ほれ、さっさと走るのじゃ」

(……ははは、死にかけたガキの傷が治りやがった。結局、リョガンは無駄死にしたってわけか……)

 走り去っていく少女を見送るイシュタリアとサララから、若者は視線を黙って逸す。両足と腕の傷は今しがた塞がったが、今更二人の隙を突こうなどとは思わなかった。
 地面に仰向けに寝転んだ若者は、恐怖に染まったリョガンの首を、虚ろな眼差しで見つめた。

(ああ……リョガンまでやられちまったか……)

 人質無しで、マリーたちから逃げ切ることは不可能だ。それを、次々に血祭に上げられていく仲間たちを見て理解していたリョガン。
 だからこそ、リョガンは人質である少女に強く意識を向けていて……避けられるはずの攻撃を、避けられなかった。
 敗因はいくつもあげられるが、強いてあげるとするならば……人間という存在を舐めすぎたのかもしれない。人間と言う存在が、かつて自分たちの祖先を追いやった存在であることを、若者は今更ながらに思い出していた。

(俺たち誇り高き竜人が、こんな小さな人間に全滅させられるなんて……ちくしょう。こんなことになるんなら、ワーグナーの提案に乗って俺も村を飛び出すんだった……)

 近づいてくる二人の少女の気配、若者は暗い未来に泣きたくなった。



「――何なんだよ……何なんだよ、あの化け物どもは!」

 パチパチと火の粉が舞い散る路地裏を、一人の竜人が駆け抜ける。彼はかつてドラコの弟を名乗り、現在、ラステーラに攻め入った竜人たちの唯一の生き残りであった。
 久方ぶりに掻く冷汗が、じっとりと背筋を流れる。かつてない程に高鳴っている心臓の鼓動は、興奮から来るものでは無く……恐怖から来るものであった。

「あんなの、どうやって勝てっていうんだよ……!」

 始めは、愚かにも歯向かった人間がなぶり殺しにされる様を、見物するつもりであった。

 自らの手を汚らわしい人間の血で汚したくは無いが、人間が苦しみぬいて息絶える姿は見たい。歪に歪んだ憎悪によって生まれた欲求が、弟の足をあの場に縫い止めたからだ。
 注意すべきなのは空を飛び回るワーグナー……つまり、姉の存在だけ。空を飛ぶことは出来るが、それ事態は苦手な竜人の中でも、鳥のように自由自在に空を飛び回ることが出来る数少ない存在……それが、彼の姉だ。
 姉に見つかれば、例え彼が逃げに徹したとしても、逃げ切れる確率は低い。それぐらい、姉の実力は竜人の中でも別格なのだ。
 空を飛び回る姉の勇姿に見惚れると共に嫉妬を覚えながらも、その時、弟は逸るような気持ちで身を隠していた。
 そして、始まった一方的な虐殺の時。弟は、すぐに命乞いをするであろう少女たちの姿に、オーガズムすら覚える程に興奮していた。場所が場所であったなら、今すぐ自慰に走る程に息を荒げながら、ジッとその時を待った。

 ……そして、15分と経たずに決着が付いた頃。足元にアンモニア臭の水たまりを作った弟は……一目散に町の南端……外への出口へと走り出していた。
 ……兎にも角にも、今あいつらに見つかるわけにはいかないし、姉に捕まるわけにもいかない。神具がこちらに有る以上、いずれこちらの勝利は確実だが……それにはあと少し時間が居る。

(念のためにあちこち火を放っていて良かった……そっちに手を回している間は、こちらへの注意を逸らしているはずだ……!)

『いくら竜人でも、炎の中に逃げ込もうとは考えない』

 おそらくは人間たちが考えそうなことを逆手に取った彼の行動は、今の所うまく行っていた。

(このまま逃げ切れれば、我らの勝ちだ!)

 もう何度目かになる路地裏を突き進み、自分でもどこを走ったのかすら覚えていない。既に辺りの景色は一変し、右、左、後ろ、前、目に映るほとんどの家が、うねる様に炎の舌を天へ伸ばしていた。
 凄まじい熱気に、竜人の身体は汗でベタベタに濡れていた。しかし、次から次へと浴びせられる熱風の前では全く役に立たず、じゅう、と尻尾の先端が焦げる痛みに、弟は顔をしかめた。
 さしものの竜人とはいえ、前後左右から火あぶりにされるのは堪える。竜人だからこそ、ここまで力尽きることなく走って来られたが、これが人間であったなら、とっくの昔に熱風で倒れているところである。
 燃え盛る家々の真ん中、それも炎の中を突き進むのは人間と同じく自殺行為なのだ。体のあちこちからは火傷による鋭い痛みが走り、肺へと取り込まれた煙によって、胸の奥をわしづかみされているかのように息苦しい。
 胸に抱くようにして抱えた神具だけが、弟の心を支えていた。

「――っ、み、見えた!」

 そうして走り続け、家々の隙間から出口を見つけた時、弟は心の底から安堵した。南端の出口にほど近い大通りは、壊滅に等しい状況であった。
 さすがに燃えカスになった家はまだ出ていないようだが、既にいくつもの建物は原型が分からない程に炭化しており、こうしている今も一軒の家が崩れ落ちたところであった。

「よ、よし、これなら……」

 弟の気が、少しばかり緩んだ時に、その声は頭上から降り注いだ。

「こそこそと何をしているのだ……我が弟よ」
「――っ!?」

 ほとんど反射的に、弟は前に跳んだ。転がる様にして路地裏から飛び出すと、ずどん、と今しがた立っていた場所に突き刺さった騒音と、砂交じりの突風が背後から吹き付けられた。
 ゴロゴロと地面滑る様にして転がった弟は、急いで立ち上がった。そのまま駈け出そうとした足が、止まる……仁王立ちする姉が、眼前に立ちふさがっていたからである。

「お前のことだ。戦況が悪くなれば、ここへ逃げてくるだろうと思っていたが……昔から変わらぬやつだな、弟よ」

 燃え盛る町の中でひと際輝く、炎のように眩い髪。竜人たちの間では憧憬の的であった立派な四本角と、ナイフのように形よく伸びる両耳。光沢すら見える手足の鱗に、いったいどれだけの女たちが嫉妬を覚えたことだろう。
 人間にも通じるであろう美しい顔立ちは幾人もの男たちを虜にし、幾人もの男たちが姉の横顔を見てため息を吐く様を見てきた。かつては誇らしさすら覚えた姉が、侮蔑に満ちた瞳を己に向けていることに……弟は奥歯を噛み締めるしかなかった、

「我は少し、お前を甘やかし過ぎたのかもしれぬ。このような馬鹿を仕出かす程に愚かだったとは思わなかった」
「ね、姉さん……!」
「……いつ以来だろうか……お前が我のことを姉と呼んでくれたのは……」

 固く縮こまった舌をどうにか動かし、弟は声を絞り出す。ようやく出せた声は自分でも驚く程に情けなく震えていた。

「思い出そうにも、我の記憶にはもう、その時のお前はおぼろげだ。声はおろか、顔すら思い出せない……ただ一人の、血の繋がった姉弟だというのにな……」

 昔を懐かしんでいるのだろう。どこか寂しそうに微笑む姉の姿は、こんな状況だというのに……胸が震える程に美しい。そう、弟は思った。

「……弟よ」

 だからだろうか。一歩こちらへ近づいた姉の動きに、彼は強く反発した。

「――ち、近寄るな!」

 ギュッと胸に抱いた神具が、りん、と音を立てる。何もしていないのに時折鳴る不思議な鐘。神竜様より与えられた、人間を滅ぼす為の力。これだけは、奪われるわけにはいかないのだ。

「……姉さん、なぜ、仲間たちを……俺を裏切ったんだ」
「……裏切っては、いない」

 そう答えた姉の顔は、無表情であった。感情を感じさせない姉の顔に、「この期に及んでふざけるのはよしてくれ!」弟の感情が爆発した。

「姉さんは裏切ったんだ! 仲間たちを……俺を……裏切ったんだ。姉さんのせいで皆は死んだ。みんな、姉さんのせいで死んだんだぞ! それが分からないのか!」

 内心に渦巻いていた怒りを、姉へと叩きつける。思考の隅で『あいつらに見つかってしまうかも……』と警報が鳴っていたが……我慢できなかった。

「姉さんさえ……姉さんさえこちらに付いていてくれれば、勝てたんだ! 仲間たちも死なずに済んだんだ! 仲間を殺したのは……!」
「……本当に、そう思っているのか? 我が弟よ」
「……っ!」

 ともすれば炎のざわめきに掻き消えてしまいそうな微かな声で呟いた姉の囁き。顔をあげた姉の瞳に浮かぶ隠しきれない憤怒に、弟は言葉を無くした。

「お前には分からないのか、弟よ。お前たちが行ったのは、祖先の悲願でも無ければ、我らの本願でもない。過去から続く柵に囚われた大馬鹿者たちによる私刑……お前たちがやったことは、それだ」
「違う! 俺たちは祖先の怒りを――」
「ならば何故、我の力に頼ろうとするのだ! 愚弟め!」
「――っ!」

 愚弟。姉から叩きつけられた、生まれて初めてと言っていい罵倒に、弟は喉元まで出かかっていた言葉を呑み込まされた。

「なぜ、我に頼る! なぜ、神獣に頼る! なぜ、神竜様に頼る! それ程の信念が有るのであれば、なぜ自分たちだけで戦おうとはしなかった! なぜ、いつまでも村の中で燻っていたのだ!」
「そ、それは、俺たち竜人の数は少なく、子供も出来にくいから、まずは数を増やしてからで……げ、現に、俺たちの数も増えていた! 全ては順調だったじゃないか!」
「その結果、村のやつらはどうなった。我はお前が知る通り、生まれてこの方肌の温かさを知らぬ身綺麗なままだが……村の奴らは違うだろう?」

 威圧された弟は、しどろもどろに言い返す。だが、その程度では全く意味が無かった。

「子供の数が年々減っていくのを防ぐ為に、長老たちは来る日も来る日も子作りを繰り返すばかり。我が背丈の半分も無い女子が、我よりも年上の男に股を開き、我の半分も生きていない男子が、我の倍以上を生きた婆を相手に腰を振る……それが順調なことだと言うのか、我が愚弟よ」
「し、仕方がないことじゃないか! 全ては祖先の悲願の為に――」
「我も、お前も、村の奴らも、祖先の為に生かされているわけではない! 我らは、我らの為に生きて、戦わなければならないのだ! それが何故分からぬのだ、愚弟よ!」

 力強い罵声をぶつけられて、思わず弟は肩をすくめる。幼い頃、悪さを働いたときにも厳しく躾けられたが……あの時は有った言外の愛情が、今は全く感じられなかった。
 ……縮こまって何も言わなくなった弟を見て、姉……ドラコは、深々とため息を吐いた。そのため息にビクッと肩を震わせた弟の情けない姿に、もう一度ため息を吐きそうになって、ドラコはそれを呑み込んだ。

「もはや、問答は無用だ」

 ハッと、弟は顔をあげる。そこにあったのは、ドラコから向けられる明確な敵意であった。一歩距離を縮めたドラコに合わせて、弟は慌てて一歩退いた。

「全ては、間違っていたのだ。神竜様が降臨なさった時、我らは断るべきだったのだ。我らの力で、我らなりに人間へ戦いを挑むべきだったのだ」

 一歩、ドラコが距離を詰める。その気になれば一瞬で奪い取れるのに、それをしないのは……おそらくは最後の温情なのだろう。近づいてくるドラコを前に後ずさりながら、弟は血が出る程に唇を噛み締めた。

 悲しかった。
 心の奥底では今も変わらず愛情を抱いている姉から、全てを否定されて。

 悔しかった。
 ここまで言われても、姉のことを嫌いになれない自分を。

 怒りたかった。
 最愛の相手に理解してくれない憤りを、全く受け入れてくれない姉に。

 泣きたかった。
 他の誰を相手にしていたときですら、片時も胸の奥から離れなかった姉の笑顔。それを向けてくれない……運命の悪戯に。

(……もう、いいよ)

 りん、と鐘が鳴った。それは弟の耳にしか聞こえない音色。神竜様から秘密裏に渡された神具の脈動。りん、りん、りん、時折しか鳴らなかった鐘が、まるで弟の鼓動に合わせる様に激しく鳴り始める。

(何を言っても、姉さんは俺の話に耳を傾けてくれない。何を言っても、姉さんは俺の気持ちを受け入れてはくれない。どうあっても俺を受け入れてくれないのなら……)

 全てが、許せなくなった。訳の分からないことを言って受け入れてくれない姉も、こんな状況へと導いた運命も、今ものうのうと生きている人間たちも、何もかもが。

 りん、りん、りん、りん、りん、りん。

 徐々に強くなっていく鐘の音に、弟の身体が震える。背筋をのぼってくる寒気を堪えるかのように、己の身体を抱きしめて神具をその胸に強く抱き抱えた。

「俺を否定するのなら……もう、いらない……」
「……? どうしたのだ、おとう――」

 りん!

 ドラコの声をかき消すように、ひと際強く鐘の音が鳴った。

「全て……全て、滅びてしまえ! 人間もろとも、滅びてしまえ!」
「――っ!? い、いかん!」

 延々と受け継いできた怨念が、弟の口から放たれる。
 直感的に弟から距離を取り、青空へと飛び立ったドラコが弟へ振り返る。

 その瞬間。

 弟の胸に抱かれた神具から、凄まじい光が迸った。



「――ん、なんだアレ?」

 3件目の木造住宅を物理的に破壊したマリーは、視界の隅で立ちのぼる光の柱に目を止めた。
 朝の陽ざしの中でもはっきりと分かるソレは、どこまでも高く天へと伸びている。まるで光の放流と言っていいソレは、天へと伸ばした腕から雲を引き込み始めていた。
 方向から見て町の南端にあるのは分かるが、あそこにあのような光を生み出すモノはあっただろうか。一瞬、イシュタリアが何かしたのかと失礼な想像を働かせたが……それにしては、様子が変だ。

「なんだろうかねえ……すげえ嫌な予感がするぜ」

 背筋を走る感覚は、ただの寒気なのか、果たして……それが何なのか見当もつかないマリーは、まだ燃えていない屋根の上に飛び乗ると、光の柱へと一目散に跳んだ。

 何か良く無い事が起きようとしている。

 嫌なことに、そういった予感は不思議な程に当たる。これから起きようとしている何かに、マリーは冷や汗を流した。



 時を同じくして、その異変に気づいたのはマリーだけでは無かった。

「イシュタリア……光が渦を巻いている! あ、雲も引っ張っている!」
「いちいち言葉にせんでも分かるのじゃ……それにしても凄まじい魔力じゃのう……まるで嵐じゃな」

 竜人の残党が居ないかどうかをしらみつぶしに探していたサララたちは、高くそびえ立つ光の柱に足を止めていた。
 ふわりと、浮き上がる様に吹いた風が、光の中へと引きずり込まれている。光だけで構成されていた渦は瞬く間に霧を発生させ、あっという間に巨大な霧の塊を形成しようとしていた。

「ちょ、ちょっと待ってよ、まだこっちは着替えが済んでないんだから!」

 その二人の後ろから、妙にスッキリした様子のナタリアが遅れてやってきた。その身体は、まるで今しがた激しく運動をしていたかのように汗でテカテカと濡れていて、何一つ服を身に纏っていなかった。
 股から垂れ下がっている性器が、ブラブラと身動きに合わせて揺れる。粘液と白濁液で汚れたそれは、まるで主の機嫌を表すかのようにご機嫌に垂れ下がっていた。

「いつまでもダラダラと楽しんでいたナタリアが悪い。それに、ほら……あれが見える?」
「え……なにあれ? 光の柱?」

 小脇に抱えていたドレスに手早く袖を通していたナタリアは、サララが指差した方向を見て絶句した。

「あなたがそんな反応を示すってことは、あなたも知らないことなのね」

 そう言ってサララがため息を吐く横で、ジッと渦を眺めていたイシュタリアの目つきが……鋭くなった。

「……しまった、やられたのじゃ!」
「え、何が?」
「竜人どもめ! これが狙いだったのじゃな!」
「いや、だから何がなのかしら?」

 キョトン、と首を傾げるナタリアに、珍しく焦りを隠そうともしないイシュタリアが、強く声を荒げた。

「お嬢ちゃん! ナタリア! すぐにマリーを見つけて、ここを離れ――」

 焦燥感に満ちたイシュタリアの声は、渦の向こうから飛び出したとてつもない爆音にかき消された。
 それだけでなく、堪える間もなく訪れた凄まじい突風に、3人の身体は青空へ投げ出された。彼女たちの悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。



 ぐるぐると、視界が回転する。青色、赤色、山吹色、木色、白色、様々な色がらせん状に線を描き、視界の隅に消えて、また現れる。
 強い力に手足を動かすことすらままならず、身体のあらゆるところから衝撃が伝わってくる。ドラコは、己が激しくどこかに身体を叩きつけられているのを知覚した。

「――っ!!!」

 十数回、数十回、視界が暗転を繰り返した頃。無我夢中で繰り出した腕が地面にヒビを入れると共に、ようやくドラコの身体は動きを止めた。
 ゆっくりと、ドラコは仰向けに倒れた。グルグルと回転する視界からはまるで情報が伝わってこない。揺れに揺らされた三半規管からは激しい抗議があがってきており、吐き気となってドラコの意識を揺らす。
 堪えようとしたが、駄目であった。うつ伏せになったドラコは、ごぼぉ、と胃液混じりの血液を吐き出す。二度、三度、独特の酸味と臭いを放つ胃液を吐き出したドラコは、ぜえぜえと息を荒げていた。

(何が……起きた?)

 胃液を吐いたことで多少は回復した頭で、思考を巡らせた。
 記憶に有るのは弟の身体から立ちのぼる圧倒的な光。直視するのが難しい程の強い光の後、凄まじい勢いで広がっていく大量の霧。
 渦を描くようにして球体になった霧の塊に、注意深く接近した……そこまでは、覚えていた。しかし、そこから先の記憶が上手く思い出せなかった。

(思い出せ……私は何を見た。あの瞬間、何を見たのだ……!)

 砂嵐の記憶の奥を、必死に探る。渦を描く霧の球体に近づいた後……その後、何かを見た。大きな何かだ……しかし、見覚えはある。
 あれは何だった……あれは見た覚えがある……姿かたちは違っていたが……確かに見たことが有る。そう、あれは確か……。
 フッと脳裏に浮かんだ映像に、ドラコの顔は凍りついた。まさか……いや、バカな。いくら何でも早すぎるし、あまりに大きすぎる!
 そうして否定しようとして、ふと、ドラコの背筋に震えが走った。混乱していた脳がようやく復帰を終えたおかげで、ドラコは初めて……背後に感じる巨大な存在に意識を向けた。
 嘘だ……まさか、どうやって。否定の言葉がいくつも脳裏を駆け巡る。しかし、その程度でこの悪寒を止めることが出来るはずも無く……ドラコは、恐る恐る振り返った。

「……ははは……思っていたのとは少し違うが、私の考えは間違っていなかった……今、それをはっきりと思い知ったよ……」

 そして、引き攣った笑みを抑えられなかった。

「……何が神獣だ……こんなものを我らは神の使いと崇めていたとはな……これはもう、自然に生まれた生き物では無い。ただの……化け物だ……」

 その言葉は、誰の耳にも届くことは無かった。



 ラステーラの南端。そこには南の森へと続く出入り口があると同時に、今回竜人たちの襲撃を受けた場所である。言い換えれば、最も被害が大きい場所だ。
 出口にほど近い場所は軒並み放火されており、マリーたちが竜人相手に戦闘を始めた時には、既に30件以上の家々が、激しく炎上していた。
 その後も火の勢いは弱まることは無く、マリーが消火活動を始めた時には、その数は50件に達していた。その為、マリーは火を消化するのではなく、これ以上の被害を出さない為の処置を行っていた。
 しかし、光の柱が立ち上り、霧の渦が生まれてすぐに、最南端に位置する十数件の建物は完全に鎮火された。柵に燃え移っていた火も完全に消え去り、町に入り込んでいた熱気はほんの少しだけ少なくなった。

 それは、なぜか。

 それらの建物の上に、マージィたちが見た『山』のせいである。『山』は、何の前触れも無く、この日、突然ラステーラの南端に姿を見せたのだ。

 『山』は、大きかった。その高さはラステーラの北端から確認出来る程に大きく、その姿は武骨な造形のトカゲに近かった。
 頭の先から尻尾の先まで、軽く三ケタメートルに達している。胴体を支える四本の脚は家一軒……いや、家五軒を覆い隠せる程に大きかった。
 大きさに見合った体重によって、潰された家は原型が分からない程に粉々に砕かれてしまっている。足の裏も頑丈なのか、レンガとコンクリートで作られた家を踏んでも、びくともしていない。
 全身の体表面は強固な鱗で覆われており、なおかつ、衝撃以外にも強いのだろう。優に1000℃を超えるであろう家屋のファイアーを下腹部に受けながらも全く堪えていない辺り、それが伺える。
 三件の家屋を噛み砕けそうな巨大な顎が、鈍い音を立てて開かれる。人間が三人、手を繋いでも端から端まで届かないサイズの巨大な瞳が、ぎょろりと辺りを見回した。

 ……何が起きたのだろうか。

 『山』は、何が起こったのか分からなかった。獲物を求めて森の中を歩いていたら、突如目の前を光が埋め尽くし、ふと気づいたら視界全てが真っ白な霧で覆われていた。
 軽く首を振って霧を払おうとしたが、どんどん霧は濃くなるばかりで、いっこうに振り払える気配はない。苛立った『山』は、かつて敵を葬った咆哮を天へと放ち、鬱陶しい霧を追い払った……まではよかった。
 そうしてようやく周囲を見回せば、眼下に広がっていた木々は夢だったかのように無くなっている。代わりにあるのは不味そうな土で出来た何かと、木々で形作られた何か。ぎょろぎょろと視線を彷徨わせるが、獲物の影すら見当たらない。

 ……ぐぅぅぅぅぅぅ……。

 込み上げてくる空腹に、『山』は唸る。『山』にとっては、軽く鳴いただけのつもりであった。
 しかし、たったそれだけで、崩れかけた建物がカタカタと振動する。中にはガタガタと崩れ落ちるモノもあり、『山』は順々にそれらへ視線を向けていく……ピクリと、鼻腔をくすぐった臭いに、『山』の鼻がひくひくと動いた。

 ……『餌』の臭いだ!

 目覚めてから、初めてとなる『餌』の臭い。土と焼けた木々の臭いが邪魔をして、微かにしか感じ取れないが……確かに『餌』の臭いだ。
 くんくん、と鼻を鳴らして臭いの出所を探る。程なくして、その視線が地面に散らばっている『餌』を見つけた……が、『山』は落胆の色を隠せなかった。
 地面に散らばっている『餌』は全て死んでいる。臭いも味も薄いそれらを全てかき集めて食べたとしても、空腹を満たすにはあまりに少な過ぎる……『餌』は、生きているやつを直接食らってこそ美味いというもの。
 ……ふと、『山』の瞳がある地点で止まった。それは、点々と続く血の臭い……それこそ、意識を向けなければ絶対に気づかなかったぐらいの、わずかな痕跡。
 その痕跡を辿って、『山』はゆっくりと顔をあげて……ニヤリと、笑みを浮かべる。はた目から見れば全く変わっていなかったが、この時『山』は確かに笑みを浮かべていた。

 なんだ、向こうに『餌』がいっぱい集まっているじゃないか。だったら、こんな食べ時を逃した『餌』よりも、生きの良い『餌』を食べるとしよう。

 ラステーラの、中心部。普段は市場が開かれており、今は大勢の住人たちが避難している地点。そこに集まっている『餌』を見やった『山』は、じゅるりと涎を垂らした。
 ギルドや役所があり、マリーたちが決して竜人たちを通そうとしなかった場所へ……こみ上げてくる食欲に促されるがまま、マージィたちが『山』と呼び、竜人たちが『神獣』と呼んだ怪物が、動き出した。




 ラステーラの存亡を掛けた戦いの第二幕が、幕を開けようとしていた。
さて、いよいよ厄介な事態になりました


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