本田が10番を希望したのは少年時代、ミランの10番だったサビチェビッチの大ファンだったからだという。憧れの選手と同じ立場になるという夢を実現させたのはすごいが、実際にその背番号をつけてプレーするとなると、かなりの勇気や覚悟が必要になる。過去にミランで10番をつけてプレーしたフリットやサビチェビッチ、セードルフなどと同等の活躍をして当然と見られるわけだ。
期待が大きい反面、少しでも活躍できない試合が続いた場合はミラニスタと呼ばれる熱狂的なサポーターからブーイングの嵐を受けることになる。たかが背番号とはいえ、何倍ものプレッシャーを受けてプレーしなければならなくなるのだ。ただ、敢えてその厳しい立場に身を置こうという本田の気持ちの強さには拍手を送りたい。
日本代表「10番」の草分けは木村和司
ラモス、名波、中村俊介、香川真司らが継ぐ
ところで日本では、サッカー文化が根づいていなかったせいか、ひと昔前まで10番がエースナンバーと認知されていなかった。サッカー日本代表が成し遂げた最初の快挙といえば1968年メキシコ五輪での銅メダル獲得だが、エースストライカーでチームの顔でもあった釜本邦茂の背番号は15、ゲームメイカーを務めたMF森孝慈は8だった。10番をつけていたのはMFの湯口栄蔵だが、五輪ではサブメンバー。ポジションに応じて背番号を割り振っていたことが分かる。
日本に10番がサッカーのエースナンバーであることを認知させたのは80年代に活躍した木村和司だろう。所属した日産自動車(横浜Fマリノスの前身)でも日本代表でも10番をつけてプレー。168センチと小柄ながら、巧みなボールさばきとスピードある突破で数多くのゴールを生んだ。と同時にフリーキックの名手としても知られ、1985年のメキシコW杯最終予選の韓国戦で見せた40mの距離から決めたフリーキックは当時を知るサッカーファンの間では伝説的プレーとして語られている。
この木村和司の活躍以後、日本でも10番はボール扱いが巧みなファンタジスタや決定力があるゴールゲッターがつけるようになった。日本代表は試合の都度、招集されるメンバーが異なることもあって背番号は固定されているわけではない。木村以後も10番は多くの選手がつけてきたが、大まかな流れはある。木村の後の90年代前半に10番をつけたのはラモス瑠偉、90年代後半は名波浩で、2002年からは中村俊輔、その時代が10年ほど続き、2011年からは香川真司が背負うようになった。