2013年12月17日
砂糖も塩も一緒にしないでくださいね。
もうさ、あいも変わらずで困ったものです。
指摘されて正しいと思ったら、素直に正せだそうです。
イラク戦争の件を例に、そうしたことをご指摘になられていたが、
とんだ見当違いがあるんですよ。
つまりですよ、
ハッキリと、正しいこと間違っていることが判断できることと、そうでないことがあるということ。
くだんの方が例に引いたのは(ハッキリ判断できる事例)そういう事ですね。
でもね、ここ数ヵ月、大騒動になっていることっていうのは違うんですよ。
つまりは、個人個人の生き方、生きざまの問題なんですよ。
それを他人に評価分析されて正邪をつけられる必要なない。
そういってるんですよ。
なぜ私が怒ったのか、まだわかっていらっしゃらないようですね。
何度も言ってきたが、私は私の自尊心をへし折られた。
そう感じたから激怒もしたし、
そうしたことをすると、非常に人を傷つける、
ですから、気をつけて欲しい。
そうしたことをしないですむためには、
自分自身に生きるしかないですよ、内道を貫くしかないですよ。
そういうことを伝えようとしていたんですよ。
何でもかんでも、正邪があって、正邪の判断がつくわけじゃないですよね?
あの人の生き方は間違っている。
そんなことを他人が評価すべきでない。
いわんや、それを批判して正そうなど、お節介以外の何ものでもないんですよ。
そうしてあげるのが慈悲だとしても、
そうできるわけじゃないですよね。
当の本人がそのことに気づく「縁」にはなれても、それ以上にはなれないのですよ。
そこを弁えず、
正しいことは正しいと正論を振りかざしたところで、
誰も聞きはしないんですよ。
なぜ? そう、そういうことをですよ、
私は過去に散々してきて、何人もの人を潰してきた経験からそう確信して言えるんですよ。
いくら正しくても、どんなに正しくても、
言い方、方法論を間違ったら、誰も聞かないんですよ。
それを人の心の機微というのだろうし、
普段の人間関係を重視しているかどうかに、かかってくる問題ですよね。
そこがおわかりにならないと、ずっとこのままなんでしょうねぇ。
上から目線で人のことを指摘して、言うことを聞けない人間は謙虚じゃないとのたまう。
弱いとのたまう。
言いたくはないが、傲慢ですわ。
腫れものに触れるように扱って欲しい。
誰がそんな態度を見せましたか?
むしろ、引きこもって孤独を選んで、誰にも迷惑をかけないようにしようとしてきたんですよ。
それが現実。
そんなことすら読み取れず、
自分勝手な見識で知りもしない、いな、おそらく体験すらない「うつ」とか心の病の人のことを
評価・分析する。
少なくとも私は、
自分が経験してないことに関しては謙虚であろうとしてますが、
まあ、そうでない人もいるんでしょうねぇ。
例え同じような病気、経験をしてきている人であっても、
苦悩の内容も違えば、体験したことも違うから、とことん理解なんてできませんからね。
そう、あらゆる人に言って来てますよ。最近の私はね。
昔はそんな風になれなくて、「解ったつもり」になって、
「そんなもんこうだろ!」とか傲慢なこと言ってたんですよ。
でもね、知ったんですよ、気づいたんですよ。
誰しもが孤独であり、
どんな苦悩も理性的には共有することも、理解しあうことすら出来ないとね。
であるのに、他者を評価分析して、批評し、指摘して正そうとかね・・・。
もうね、不可能なことをしようとしてるのと一緒。
いつだかの名字の言にあった、
「わかってほしい」「変わってほしい」そう思っているうちは、まだまだだ。
まあそいうことなんですよね。
指摘が正しいんだから受け入れろ。
つまりそれはさ、あなたの中にある、
「わかってほしい」「変わってほしい」という心ですよね?
余計なお世話です。
押し売り、押しつけは結構です。
自分の頭で考えて、自分の頭で判断しますので。
謙虚じゃない?
だからさ、人が素直に聞けないような、嫌味な方法論、やり方、振舞いをされたらね、
それがどんなに正しくても、聞けないのが人間なんですよ。
何があっても聡明に賢明に、人の自尊心を折るようなことをしない。
つまりは、そうした姿勢のない方の指摘は、
どんなに正しくても聞けない。
それが人間なんですよ。
正邪を知るよりも先に、人間とはなんたるものか?
そこを知らないと、意味がないんじゃないですか?
さるお方がが投げかけてくださった言葉。
「情緒」。
これね、すごく実は大切なんですよ。
人間は感情で生きている生き物なんですよ。
だから、その情緒を表現したとき、それを否定されるとね
非常に傷つくものなんですよ。
でね、その情緒を表現するところに人間の人間らしさ、
もっといえば、その人のその人らしさがあるんですよ。
知ってます?
心の病の人ってね、
その「情緒」を表現することを、なんらかの出来事(例えば幼少期の環境など)で
自ら抑圧してしまう傾向があるんですよ。
そういう人がさ、
必死になって自分を表現しようとしているのに、
その情緒を否定されたら、そら怒るわね(笑)
必死に自分の過去の傷と戦ってんだもん。
なんで情緒を抑圧した?
それはさ、ありもしない恐怖におびえざるを得ない環境で育ったからなんですよ。
ええ、幼児期がどうの言ったところで、
泣こうが叫ぼうが、何をしようが意味はない。
その通りですよ。
ちゃーんとさ、人間関係があって指摘されたことは、聞き取ってるんですよ。
これだってとあるブログで指摘されたことですからね。
だから、泣きながら、叫びながら、悶絶しながら、殺せ! 今すぐ殺してくれ!
もう死にたい。そう絶叫しながら
唱題してここまで来たんですよ。
その私を否定したんですよ。
そら怒るわ。普通に怒るわ。
怒って当然ですよ。
そんなこともわからないのが、まあ他人であり、人間なのも、よく承知しておりますがねぇ。
別にどうでもええんですわ。
もうすでに「過去」のことですしねぇ(笑)
たださ、黙ってるとストレス溜まるんですわ。
言われ放題になるからね(笑)
そして言われ放題にされてると・・・
言ってる方が正しいことになっちゃうのが、この娑婆世界ですからねぇ。
ま、そんなことで、
思ったことを書いてみただけですよ。
つまりね――
聞いてもらえないようになること。
人に嫌われるようなやり方をしたら、
どんなに正しいことを言っても、相手の心には響かない。そういうことなんですよ。
嫌われたら終わりなんですよ。
人に嫌われる人にならないようにするほうがいいってことですよね。
指摘されて正しいと思ったら、素直に正せだそうです。
イラク戦争の件を例に、そうしたことをご指摘になられていたが、
とんだ見当違いがあるんですよ。
つまりですよ、
ハッキリと、正しいこと間違っていることが判断できることと、そうでないことがあるということ。
くだんの方が例に引いたのは(ハッキリ判断できる事例)そういう事ですね。
でもね、ここ数ヵ月、大騒動になっていることっていうのは違うんですよ。
つまりは、個人個人の生き方、生きざまの問題なんですよ。
それを他人に評価分析されて正邪をつけられる必要なない。
そういってるんですよ。
なぜ私が怒ったのか、まだわかっていらっしゃらないようですね。
何度も言ってきたが、私は私の自尊心をへし折られた。
そう感じたから激怒もしたし、
そうしたことをすると、非常に人を傷つける、
ですから、気をつけて欲しい。
そうしたことをしないですむためには、
自分自身に生きるしかないですよ、内道を貫くしかないですよ。
そういうことを伝えようとしていたんですよ。
何でもかんでも、正邪があって、正邪の判断がつくわけじゃないですよね?
あの人の生き方は間違っている。
そんなことを他人が評価すべきでない。
いわんや、それを批判して正そうなど、お節介以外の何ものでもないんですよ。
そうしてあげるのが慈悲だとしても、
そうできるわけじゃないですよね。
当の本人がそのことに気づく「縁」にはなれても、それ以上にはなれないのですよ。
そこを弁えず、
正しいことは正しいと正論を振りかざしたところで、
誰も聞きはしないんですよ。
なぜ? そう、そういうことをですよ、
私は過去に散々してきて、何人もの人を潰してきた経験からそう確信して言えるんですよ。
いくら正しくても、どんなに正しくても、
言い方、方法論を間違ったら、誰も聞かないんですよ。
それを人の心の機微というのだろうし、
普段の人間関係を重視しているかどうかに、かかってくる問題ですよね。
そこがおわかりにならないと、ずっとこのままなんでしょうねぇ。
上から目線で人のことを指摘して、言うことを聞けない人間は謙虚じゃないとのたまう。
弱いとのたまう。
言いたくはないが、傲慢ですわ。
腫れものに触れるように扱って欲しい。
誰がそんな態度を見せましたか?
むしろ、引きこもって孤独を選んで、誰にも迷惑をかけないようにしようとしてきたんですよ。
それが現実。
そんなことすら読み取れず、
自分勝手な見識で知りもしない、いな、おそらく体験すらない「うつ」とか心の病の人のことを
評価・分析する。
少なくとも私は、
自分が経験してないことに関しては謙虚であろうとしてますが、
まあ、そうでない人もいるんでしょうねぇ。
例え同じような病気、経験をしてきている人であっても、
苦悩の内容も違えば、体験したことも違うから、とことん理解なんてできませんからね。
そう、あらゆる人に言って来てますよ。最近の私はね。
昔はそんな風になれなくて、「解ったつもり」になって、
「そんなもんこうだろ!」とか傲慢なこと言ってたんですよ。
でもね、知ったんですよ、気づいたんですよ。
誰しもが孤独であり、
どんな苦悩も理性的には共有することも、理解しあうことすら出来ないとね。
であるのに、他者を評価分析して、批評し、指摘して正そうとかね・・・。
もうね、不可能なことをしようとしてるのと一緒。
いつだかの名字の言にあった、
「わかってほしい」「変わってほしい」そう思っているうちは、まだまだだ。
まあそいうことなんですよね。
指摘が正しいんだから受け入れろ。
つまりそれはさ、あなたの中にある、
「わかってほしい」「変わってほしい」という心ですよね?
余計なお世話です。
押し売り、押しつけは結構です。
自分の頭で考えて、自分の頭で判断しますので。
謙虚じゃない?
だからさ、人が素直に聞けないような、嫌味な方法論、やり方、振舞いをされたらね、
それがどんなに正しくても、聞けないのが人間なんですよ。
何があっても聡明に賢明に、人の自尊心を折るようなことをしない。
つまりは、そうした姿勢のない方の指摘は、
どんなに正しくても聞けない。
それが人間なんですよ。
正邪を知るよりも先に、人間とはなんたるものか?
そこを知らないと、意味がないんじゃないですか?
さるお方がが投げかけてくださった言葉。
「情緒」。
これね、すごく実は大切なんですよ。
人間は感情で生きている生き物なんですよ。
だから、その情緒を表現したとき、それを否定されるとね
非常に傷つくものなんですよ。
でね、その情緒を表現するところに人間の人間らしさ、
もっといえば、その人のその人らしさがあるんですよ。
知ってます?
心の病の人ってね、
その「情緒」を表現することを、なんらかの出来事(例えば幼少期の環境など)で
自ら抑圧してしまう傾向があるんですよ。
そういう人がさ、
必死になって自分を表現しようとしているのに、
その情緒を否定されたら、そら怒るわね(笑)
必死に自分の過去の傷と戦ってんだもん。
なんで情緒を抑圧した?
それはさ、ありもしない恐怖におびえざるを得ない環境で育ったからなんですよ。
ええ、幼児期がどうの言ったところで、
泣こうが叫ぼうが、何をしようが意味はない。
その通りですよ。
ちゃーんとさ、人間関係があって指摘されたことは、聞き取ってるんですよ。
これだってとあるブログで指摘されたことですからね。
だから、泣きながら、叫びながら、悶絶しながら、殺せ! 今すぐ殺してくれ!
もう死にたい。そう絶叫しながら
唱題してここまで来たんですよ。
その私を否定したんですよ。
そら怒るわ。普通に怒るわ。
怒って当然ですよ。
そんなこともわからないのが、まあ他人であり、人間なのも、よく承知しておりますがねぇ。
別にどうでもええんですわ。
もうすでに「過去」のことですしねぇ(笑)
たださ、黙ってるとストレス溜まるんですわ。
言われ放題になるからね(笑)
そして言われ放題にされてると・・・
言ってる方が正しいことになっちゃうのが、この娑婆世界ですからねぇ。
ま、そんなことで、
思ったことを書いてみただけですよ。
つまりね――
聞いてもらえないようになること。
人に嫌われるようなやり方をしたら、
どんなに正しいことを言っても、相手の心には響かない。そういうことなんですよ。
嫌われたら終わりなんですよ。
人に嫌われる人にならないようにするほうがいいってことですよね。