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潮 音 山 泉 福 寺 (ちょうおんざん せんぷくじ) |
吉田松陰抜き≠フ「日本の歴史」はありえないワケで、当然、松陰への関心はあるものの、 多くの研究・著作があり、私如きが云々する余地はないと思っていましたが、義母の「葬儀」に際して、「菩提寺」の住職が、近年、空位となって、「泉福寺」のご住職にお世話になるようになっていました。 そこで、「泉福寺」を訪れたワケですが、 お恥ずかしいことながら、「松陰神社」は当然のこととして、松陰関係については、ほぼ、訪れていたつもりでしたが、「泉福寺」が「菩提寺」であるということは、知りませんでした。 「ネット」で調べても、詳しいものどころか、松陰の「菩提寺」について、記しているものは、ほとんどないように思います。 ということは、私のみならず、多くの方も、ご存じないのではないかと思います。 しかも、由緒正しい「寺」であるにもかかわらず、「下」に記しているように、今の地への移転が「正保元(1644)年」と、既に、「萩城下」がほぼ完成していたタメでしょう、通りからの「入口」は、気がつきにくく、「本堂」は立派なのですが、多くの大規模な「寺」と異なり、「通り」から「本堂」までがゆったりとしていないことと、「石柱」や「解説板」が見あたらないタメ、「泉福寺」が松陰の「菩提寺」であることを知っておられたとしても、「萩」以外の方、特に、「県外」から訪れようとする方には、わかりにくいのではないかと思いました。 わずかに、「松陰先生(吉田家)菩提寺」と書かれた薄い「板」が、「本堂」の「入り口」近くにあるにすぎないからです。 このような次第で、松陰の「菩提寺」を「紹介」する意味があろうと思います。
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吉田松陰は、明治維新の精神的指導者・理論者として知られ、「松下村塾」で薫陶を受けた人物によって、「明治維新」・「近代国家」への 道 が築かれたといっても、過言ではないと思われます。
松陰についての詳しい≠アとは、他の方々の「研究」・『著作』に拠っていただくことにして、ここでは省略し、 「山口県大島郡出身」の作詞家 星野哲郎氏の「吉田松陰」を「紹介」しておきたいと思います。
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「泉福寺」の住職=正倫は、 松陰が「刑死」し、「百日目」の万延元(1860)年2月7日に、萩の地に、松陰の遺髪を埋葬して「墓」が作られると、 足繁くお参りすることの難しい吉田家・杉家に代わって、「墓」の清掃・お供え等を福間の家族ぐるみで、日々、されていたとのことです。 (「墓」と「寺」とは、かなりの「距離」があり、江戸末期〜明治初期のこととて、おそらく、徒歩だったと思われますが、決して近距離≠ニは言えません。)
その後、「松陰の墓を守る会」といったものができ、さらには、「萩市」が係わるようになって、 (「吉田松陰の墓ならびに墓所」として、「昭和47年2月9日」、「市指定文化財(史跡)」になっています)
今日は、係わっておられないとのことでしたが、
「僧侶」であるというダケでなく、正倫・正順は、「思想家」でもあって、 |
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「泉福寺」を訪ねるには・・・
@ 「萩グランドホテル」を目指す。 A 「萩グランドホテル」前の交差点を「萩城址」の方向へ。 B 二つめ≠フ「交差点」を、「クリーニング店」と旧「寿司店」のある方=「右」に入る。(車がどうにか、「離合できる」くらいの「道」です。) C 二つめ≠フ「交差点」?らしきところを過ぎれば、直ぐの「左側」にありますが、 「写真」のように、通りからの「入り口」は、小さめで、わかりにくいと思います。 「右の写真」の中央≠ノ、縦長の「白い」ものが見えると思いますが、それが「右下」に拡大した唯一≠フ吉田松陰菩提寺を示すものです。
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以前≠ヘ、「写真」のように、「泉福寺」で用意された薄い「板」に書かれた 吉田松陰の「菩提寺」 を示すものしかありませんでしたが、 「解説板」や「石柱」が設置済みの他とのバランス(あまり知られていない人物についても、その「生誕地」・「居住地」の「石柱」・「解説板」〈「旧宅跡」というのもあります〉が数多く設置されています) からしても、 「石柱」・「解説板」といったものを「設置」してはどうですかということを「萩市役所」に提案したところ、 「観光課」の谷野芳之氏が「窓口」となって、「対応」してくださり、小さめ≠ナすが、「入り口」の「右」に、「説明看板」が設置されています。
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「松陰神社」にある 「松下村塾」 を背景に、 維新の代表的な5$lを配した「ポスター」です。 「萩駅の待合室」にありました。 (平成25年5月17日) 史跡と維新のまちとあるように、「萩市」には、維新関係の史跡が数多くあります。 なかでも、この「松下村塾」は代表的なものです。 読みにくいかと思いますので、「文字」の部分を「紹介」しておきます。 なお、「松下村塾」の中の「左端」にわずかに見える「肖像写真」は、山田顕義のハズです。
「松陰神社」は、 松陰の実家=「杉家」の地(松陰の「誕生地」ではなく、嘉永元(18488)年、一家は松本村清水口=現在の松陰神社境内に転居。)を中心に創建されたものといわれ、 「松陰神社本社」のほか、 この「写真」にある「国指定史跡」の「松下村塾」 同じく 「国指定史跡」 の「吉田松陰幽囚ノ旧宅」 「山口県指定有形文化財」の「花月楼」のほか、 石碑に、 ・「親思ふ・・・」 ・「明治維新胎動之地」 ・「薩長土連合密議之處」 ・「明治九年萩の變七烈士殉難之地」 があり、 さらには、「歴史館」・「至誠館」 といった「施設」などがあります。
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父=英男の「明治百年」〈昭和43(1968)年10月〉という『スクラップ帳』から抜き出してみました。 「右」の記事には、当然のこととして、松陰と「松陰神社」が取り上げられ、松陰の「像」と「松陰神社」の中にある「松下村塾」の写真があることがわかると思います。 しかし、残念ながら=A父の膨大な=u切り抜き」の中に、「泉福寺」を記した「記事」は、見あたりません。 「毎日新聞」(昭和44年1月17日)を始め、「NHKテレビ」にも取り上げられた父の整理のこととて、「切り抜き」にないということは、なかったということだと思います。 間近に迫った「維新150年・明治150年」(厳密≠ノは1年違います)の時には、「泉福寺」 も 取り上げられ、松陰の「位牌」を拝む人が多いことを期待しています。 「松陰神社」の重要性はいうまでもありませんが、松陰は、亡くなる時、「神」になることを予測してはいなかったと、私は思いますので、「菩提寺」 も 忘れてはなるまいと思うのですが、いかがでしょうか。 (松陰の「150回忌」である「平成21(2009)年10月」の時には、父は「昭和62年6月」に亡くなっているタメ、「松陰神社」を中心に、各種の「企画」がなされたことは知っていますが、父と違い、複数の「新聞」を買い求めるということはしていませんので、「150回忌」の時の様子は、わかりません。)
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「左」から 吉田庫三=吉田家第十一代(松陰の甥にあたる) 鳥取県第一中学校長(現在の県立鳥取西高校) 神奈川県第二中学校初代校長(現在の県立小田原高校) 神奈川県立第四中学校初代校長(現在の県立横須賀高校)を務める。 著書に「松陰先生遺著」等あり。大正十一年(一九二二)没 行年五十六才 →吉田松陰 →吉田大助=吉田家第七代で松陰の義父。松陰実父の杉百合之助の弟。天保六年(一八三五)没。行年二十九才 →吉田久満=吉田大助の妻。松陰の養母 夫の没後は実家森田家に寄寓。松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。明治五年(一八七二)没 行年五十九才 の「墓」です。( ≠ヘ、「墓」のそばにある「解説」の文字。) なお、「上」に見える「墓」は、高杉晋作の「墓」です。 久坂玄瑞の「墓」は、「右」方向の、やや離れた場所にあります。 |
「松陰誕生地」(「萩市指定文化財(史跡)」〈平成13年12月21日指定〉)
からの眺望 「中央」の「山」が指月山です。 |
吉井 勇の「歌碑」です。 薄れて読みにくくなっており、敢えて、斜め≠ゥら撮ってもこんな状態です。 しかし、「確認」は可能で、
とあります。 |
上の「写真」は、本堂の「右側」にある、 @ 松陰の「画像」を中央にして、明治以降に撮影された松陰の血縁者の「写真」(「系図」の中の、赤い○の数字と一致しています)と、 A 「縦3m、横7m」の大きさで表示された「杉家」の家系図 です。 「右上」の「杉家系図」という「枠の中」に、
という「説明」があります。 この「写真」に写っていただいているのは、「ご住職」の福間公昭氏です。 この「写真」において、 松陰が二段目の「右」から2番目に、
のように記されており、 4番目に、楫取寿子≠ェあるのがわかっていただけると思います。 なお、この「写真」の「左」にあるのですが、 久坂玄瑞[1840(天保11)年〜1864(元治元)年]の妻であったが、 姉 寿子が亡くなったことで、楫取素彦の二番目の妻となった美和子が記されています。 なお、美和子の「写真」は、この「写真」の「右」から3番目にあります。 (楫取素彦と結婚した当初は文で、その後美和子と名乗るようになっています。)
当時としては、姉・妹が同じ人物に嫁ぐということは、珍しいことではなかったようです。 美和子は、「歴史」に名を留める人物の妻として、久坂 文、楫取美和子であったということです。
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「泉福寺過去帳」よりとして、 元禄六年四月から記されています。 書き出しの部分と、松陰=松陰二十一回猛士 八代 (安政六年己未 十月二十七日)を中心にした箇所 さらに、終わりの方からの「写真」を示しています。 なお、「上」の 「杉家の家系図」 からもわかるように、松陰の後は、甥=小太郎 → 姪=道子に継がれています。 |
「写真」は、松田輝夫氏が、
「系図」や 「吉田家先祖法名一覧」 (頭上に「横長」に見えるもの) を利用して、わかりやすく、説明・解説しておられるところです。 松田氏は、「史都萩を愛する会会長」として、郷土の歴史を研究、 中でも、松陰について、研究を続けてこられている 「松陰研究」の第一人者(「萩市のホームページ」)です。 この「写真」は、右下に撮影期日が示され2012/05/20とあるように、「浜崎伝建おたから博物館」の日のタメ、 多くの人が「泉福寺」を訪れられることを予測し、「泉福寺」に待機され、 説明・解説されているワケです。 なお、この日に限らず、折に触れて、立ち寄られ、解説をなさっているとのことですし、 各地において、講演の講師や案内役として、精力的に活動されているようです。 松田氏には、多くの「論文発表」があるほか、 「編著」としても『吉田松陰と塾生 松陰の塾生についての記録集』(「松陰神社」刊)があり、 「山口県立図書館」他に、所蔵されています。 (松田氏の了解はいただきましたが、特別の日であることとて、
多数の方が写っておられますが、その方々がどなたかもわからず、 了解を得られませんので、松田氏以外は、カット≠オています。) |
松陰の2番目の妹=寿子は、楫取素彦(小田村素太郎)の「妻」であり、高杉晋作の死後、 望東尼の『防州日記』にも、
と、感謝の言葉が記されています。 なお、寿子は、明治14年に43歳でなくなっており、後妻に、久坂玄瑞の妻で、久坂の死により、22歳の時から未亡人になっていた松陰の4番目の妹=文(美和子)がなっています。 この二人の結婚は、松陰・寿子・文らの母=滝の勧めであったといわれており、それほど、楫取は、「杉家」からの信頼があったということでしょう。
なお、楫取は、文のために、久坂から文への手紙を整理し、『涙袖帖』として残しています。
「文・美和子」については、「写真」も飾ってあります。 「上」の「写真」の「右から3#ヤ目」にあるので、確認いただきたいと思います。 なお、私の「写真」では見えませんが、この「系図」には、御子孫の方々も記されており、おそらく、今後も、書き加えられていくものと思います。 |
「左」の2枚の「写真」が、当初≠フ「位牌」ですが、永い年月を経ているタメ、 松陰の「位牌」に、お参りをしたいという方々のタメに、 新しく作られた「位牌」(「右」の「写真」)が「位牌堂」におかれ、当初≠フ「位牌」は、大事に「安置」され、毎日、お経があげられているとのことです。 (2*目の「写真」は、フラッシュの関係で、少し=A斜めから撮っています。) |
[Yahoo]・[Google]において、この「ページ」が、早めに出てくるようになりましたので、
松陰に関係する人物ですので、かつて「調査」された方に、 「訂正」されていることをお知らせできるかもしれないと思い、参考として、記すことにしました。 林 百非については、「中央」の「写真」を御覧ください。 なお、「追加」として、名は靖、字は不邁・愚公、通称は寿之進・真人、別号に太平山人・如是・百是・三宝道人等があることを記しておきます。 この百非は、以前は、「川島」のこの地が誕生地と思われており、それに従って「石柱」も設置されているのですが、 その後、 「誕生地」という「石柱」と並んでいるタメ、誤解されるかもしれませんが、「解説板」の「左下」に正確には旧宅地であるとあるのがわかるでしょうか。 この場所は、藍場川沿いの閑静な住宅地にあることとて、観光客の姿も、しばしば見受けられます。 |
楫取素彦については、「ホームページ」を作っていますので、次の「下線部」をクリック≠オて御覧いただければと思います。 但し、この「ページ」との重複がかなり≠ります。 私の「維新関係の研究」の出発点は、 つまり、私の「管理」(残念ながら、毎年のように「山水」が流れこむようになって、現在は、住んでいません。)している「家」が、 望東尼が、防府(三田尻)において、「寄寓」していた「荒瀬百合子」の「家」の「離れ」を移築したものということからです。 松陰と望東尼との直接≠フ関係はありませんが、 高杉晋作、楫取素彦、その妻=寿子 を介して、浅からぬものがあると、私は思っています。 楫取素彦・寿子、さらには、山田顕義(当時は市之允)も、私の管理している旧「荒瀬家」の「離れ」を訪れたことがあるハズです。 次の「ホームページ」には、楫取の「墓」も載せています。 次は、山田顕義についてです。
あまり参考にはならないと思いますが、一応、「リンク」させておきます。 ↑ 「関ヶ原」以前の「毛利家」の所領であった現在の安芸高田市の「郡山城址」にある「百万一心の碑」の「写真」・「解説」を記しています。 ↑ 吉田松陰の「留魂録」と 福島藩士能勢久米次郎の家臣という沼崎吉五郎のことを記しています。 |
「泉福寺」と、私とのささやかな係わり≠フこと |
「泉福寺」のご住職とお会いするきっかけは、
義母=田村アヤコの「葬儀」でした。 最初の、「枕経」をあげていただいた時は、義姉=保恵さんと私達夫婦、それに「萩典礼会館」の出羽(いずわ)さんの四人ダケでしたので、私のことも覚えていてくださいました。 このことが、この「ホームページ」に示すような、貴重なこと(「泉福寺」と松陰との関係・松陰の2≠ツの「位牌」のこと他)を「紹介」できることに繋がっているのですから、 ご住職の「通夜」・「葬儀」、それぞれの場での、「講話」は、わかりやすく、感銘深いものでした。 「法名」を、故人の「人となり」を考えてつけてくださるのは一般的かとは思いますが、「講話」に、その「法名」の由来を含めて解説してくださったのは、私に取っては、初めてのことでした。 義母は、身内の私が言うのは、変ですが、義父=修照(みちてる)を見送って、ほぼ20年、近所に住む義姉=保恵さんのそれこそ、毎日ともいってよい手助けや、私どもの週一回の「訪問」(→「萩しーまーと」の「がんがん」or「土原」の「元一」での「食事」→「湯免温泉ふれあいセンター」での「入浴」を楽しみにしていてくれました)もあって、一人で住んでいましたが、 花作り・野菜作りを趣味・生き甲斐としてとらえ、それらを親しい方、近所はいうまでもなく、日常、利用していた「お店」にも持って行っていたようです。 「菩提寺」の「総代」の一人でもありましたので、「寺」(「西光寺」)にも、心遣いをしていました。 最後は、「玉木病院」で三ヶ月、お世話になりましたが、亡くなる直前まで、しっかりしていましたので、ご住職につけていただいた「法名」及びその「説明」は、有り難いと思いました。 「祭壇」の「写真」の「左下」にあるのは、義母作成の「刺繍」です。 よしのやま 霞のおくは しらねども
とあります。
見ゆるかぎりは さくらなりけり まさに、西行法師の ねがはくは花のもとにて春死なむ
のごとくなった(平成25年3月25日歿)ワケですが、
そのきさらぎの望月の頃 96歳という長寿を迎えられたことについても、 義母の生きる姿勢が、仏に通じたのではないかと、私なりに思っています。 |