平成25年4月1日 公開
平成25年4月2日 [Google]・[Yahoo]において、「検索」が、わずか 一日で可能になっていることを「確認」
平成25年5月2日  [吉田松陰.com]の 
吉田松陰に関する史跡めぐりデータベース に、「リンク」設定をしていただく。
平成25年5月5日 吉田松陰≠ニいう「検索」で[Google]の40頁目≠ノでてくることを確認。    
 (その後は、5月22日=[Yahoo]=1&ナ目など、しはしば頁が変化していますが、比較的、早め≠ノ出ています。)
平成25年12月17日 更新                                   



年を取っていますので、「ホームページ」なるものが存在する限り引き続き、見ていただくことができるように、無料で使用させていただける「tok2」を借りています。
「右下」に「広告」の絵が出るまで、しばらくお待ちいただき、その後、「マウス」を動かしてください。





吉田松陰 の 「菩提寺」

潮 音 山 泉 福 寺 ちょうおんざん せんぷくじ

のこと



構 成
─ 「下線部」をクリック≠キると、「該当箇所」にジャンプ≠オます ─

(1) 私がこの「ページ」を作る「理由」

(2) 吉田松陰 について

(3) 「泉福寺」 について

 ─単に=@「菩提寺」であるということに留まらざる「泉福寺」であるということ ─

(4) 「泉福寺」 への経路

 ─ 「泉福寺」にある吉田松陰直筆について ─

(5)  「松下村塾」と「維新」の代表的人物─松陰・久坂・高杉・木戸・伊藤

(6) 「明治百年」の時の「新聞記事」

(7) 吉田松陰「墓」 及び その「周辺」 について

(8) 「泉福寺」の「本堂」

(9) 「松陰先生関係の写真」&「杉家 の家系図

(10) 「吉田家先祖法名一覧

(11) 野村望東尼とのこと

(12) 松陰の理解者であり、かつ、二人≠フ妹の配偶者でもある楫取素彦について

(13) 「吉田松陰自賛肖像」について

(14) 吉田松陰「位牌」

(参考) 林 百非について

(参考) 「リンク」設定

(参考) 「泉福寺」と、私とのささやかな係わり≠フこと


           吉田松陰
「位牌」





(1)  私がこの「ページ」を作る「理由」




吉田松陰抜き≠フ「日本の歴史」はありえないワケで、当然、松陰への関心はあるものの、
多くの研究・著作があり、私如きが云々する余地はないと思っていましたが、義母の「葬儀」に際して、「菩提寺」住職が、近年、空位となって、「泉福寺」ご住職にお世話になるようになっていました。
そこで、「泉福寺」を訪れたワケですが、
お恥ずかしいことながら、「松陰神社」は当然のこととして、松陰関係については、ほぼ、訪れていたつもりでしたが、「泉福寺」「菩提寺」であるということは、知りませんでした。
「ネット」で調べても、詳しいものどころか、松陰「菩提寺」について、記しているものは、ほとんどないように思います。
ということは、私のみならず、多くの方も、ご存じないのではないかと思います。

しかも、由緒正しい「寺」であるにもかかわらず、「下」に記しているように、今の地への移転「正保元(1644)年」と、既に、「萩城下」がほぼ完成していたタメでしょう、通りからの「入口」は、気がつきにくく「本堂」は立派なのですが、多くの大規模な「寺」と異なり、「通り」から「本堂」までがゆったりとしていないことと、「石柱」「解説板」が見あたらないタメ、「泉福寺」松陰「菩提寺」であることを知っておられたとしても「萩」以外の方、特に、「県外」から訪れようとする方には、わかりにくいのではないかと思いました。
わずかに、「松陰先生(吉田家)菩提寺」と書かれた薄い「板」が、「本堂」の「入り口」近くにあるにすぎないからです。

このような次第で、松陰「菩提寺」を「紹介」する意味があろうと思います。

それに併せて、
既に、他の「ページ」で紹介していることですが、私の必要に迫られた「研究」[野村望東尼&係わりのある人物]から、楫取素彦及びその妻である松陰の妹=寿子について、ココでも述べておこうと思います。

さらには、松陰から 「与山田生」 として、
「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」
と立志の目標が書かれた扇面
を与えられている山田顕義の「ページ」=山田顕義─松陰・晋作・望東尼に愛された男も「リンク」させておきます。
山田も、楫取も、その果たした「役割」に比し、十分な=u評価」がなされているとはいいがたいと思われるので、松陰との係わりという面からの「記述」も、それなりに=A意味があろうと、思うからです。

「写真」は、野村望東尼「葬儀」の行われた防府「正福寺」入口です。
大規模な「寺」の多くは、「入口」がすぐわかるようになっています。






(2) 吉田松陰について



吉田松陰は、明治維新の精神的指導者・理論者として知られ、「松下村塾」で薫陶を受けた人物によって、「明治維新」・「近代国家」への 道 が築かれたといっても、過言ではないと思われます。

文政13(1830)年萩城下松本村長州藩士 杉百合之助次男として生まれる。
幼名虎之助

天保5(1834)年叔父山鹿流兵学師範である吉田大助養子となる。
吉田家に養子入り後、大次郎と改める。
通称寅次郎
矩方(のりかた)。
義卿
松陰の他、二十一回猛士
松陰は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられたという。
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、
および、「吉田」「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解して、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられているという。

松陰についての詳しい≠アとは、他の方々の「研究」・『著作』に拠っていただくことにして、ここでは省略し、
「山口県大島郡出身」作詞家 星野哲郎氏の「吉田松陰」を「紹介」しておきたいと思います。

時と命の 全てを賭けた  吉田松陰 憂国の  夢 草莽に 果つるとも
松の雫は 久坂に宿り  花は桂の 枝に咲く


口で言うより 行なうことが  志士の志士たる 誇りなら  かくごの罪の 踏海忌
下田港の 弁天島の  波も讃える 男意気

何も持たない 若者たちの  無欲無限の 赤心が  日本の明日を 創るのだ
松下村塾 長州魂
  いまも生きてる 萩の町


   




(3) 「泉福寺」について



「写真」は、「泉福寺」「本寺」的存在の安芸高田市にある「高林坊」です。
明応5年(1496)に福間浄誓により開基され、浄土真宗本願寺派巨刹です。
寺宝の梵鐘は広島県の重要文化財に指定されているようです。
また、「慶長の庭」とも呼ばれる寺の庭は、安土桃山時代様式を今日に伝える見事な名園と言われます。




宗 派   浄土真宗本願寺派
所在地  〒758-0022 萩市浜崎町一区
沿 革  開基 「玄修」は、広島甲田町にあった「高林坊」第四世西願の「福間政重」の三男で、俗名「藤左衛門」。                     
       三男であったことで、毛利輝元と共にに入り、慶長十八(1613)年、毛利家から橋本町に寺地を拝領して「泉福寺」開基。                       
       しかし、何度も水害に見舞われたので、願い出て「正保元(1644)年」今の地へ移転した。

歴代住職      (代々福間姓)
 開基 玄修(延宝三年没)/ 第二世恵隆(元禄十五年没)/ 第三世春応(正徳元年没)/ 第四世了玄(延享元年没)/ 第五世碩瑞(宝暦十四年没)
/ 第六世碩門(明和三年没)/ 第七世智孝(天明六年没)/ 第八世順応(文政五年没)/ 第九世正超(天保二年没)/ 第一〇世大敬(弘化四年没)
/ 第一一世正倫(万延元年没)/ 第一二世正順(明治三十五年没)/ 第一三世信順(昭和三十三年没)/ 第一四世武雄(平成四年没)
               


「泉福寺」住職正倫は、
松陰「刑死」し、「百日目」万延元(1860)年2月7日に、萩の地に、松陰遺髪を埋葬して「墓」が作られると、
足繁くお参りすることの難しい吉田家・杉家に代わって、「墓」の清掃・お供え等を福間の家族ぐるみで、日々、されていたとのことです。
    (「墓」「寺」とは、かなりの「距離」があり、江戸末期〜明治初期のこととて、おそらく、徒歩だったと思われますが、決して近距離≠ニは言えません。)
松陰の墓の側に、養母吉田久満があり、その側の「解説」が「左」の「写真」です。
松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。
とあり、上に記した「福間家」の方々が「墓」を見られていたということと、一見、「矛盾」するようですが、
夫の没後は実家森田家に寄寓。≠ニあり、その「森田家」は、旧「黒川村」の庄屋を勤めた家柄であり、この住宅は毛利藩主の鷹狩の際などには休息所にあてられたといわれ、上層農家として、現在「国指定重要文化財」に指定されていることとて、知っている方も少なくないと思われますが、
「墓」との距離は、東萩駅から防長交通バス津和野行きで22分(複数の情報で一致)といわれ、駕籠を利用したとしても、当時としては、決して、行き来しやすいものではないのです。
松陰も、何度も訪れていたと言いますし、健脚ぞろいのかつての日本人のこととて、
久満は、長い道のりをもいとわず、亡くなるまで、しばしば「墓参」に訪れていたと解すればよいと思われ、
「福間家」の方々が、松陰の「墓」を守っていたということと両立すると思います。
なお、久満は、明治5年に亡くなっています。
(大助は、「下」に記しているように、天保六年(一八三五)没。行年二十九才です。
松陰の亡くなったのは、周知のように、安政六年(一八五九年)、享年30(満29歳)ですから、久満松陰との結びつき強かったのも当然と言えそうです。)


その後、「松陰の墓を守る会」といったものができ、さらには、「萩市」が係わるようになって、
(「吉田松陰の墓ならびに墓所」として、「昭和47年2月9日」、「市指定文化財(史跡)」になっています)
今日は、係わっておられないとのことでしたが、
「僧侶」であるというダケでなく、正倫・正順は、「思想家」でもあって、松陰理解者であり、松陰「評価」の定まらない時から、福間家で、「墓」の世話をされていたということは、記憶しておきたいことです。




「左」の「系図」のように、泉福寺第十代住職の大敬(だいきょう)は柳井の 勤王僧 月性 の 叔父 にあたります。
(「印刷文字」が薄いタメ、わかりにくいかと思いますが、中央≠ノ大敬(萩泉福寺住職)とあるのを確認ください。)

そのこともあって、月性は、ここ泉福寺で、吉田松陰高杉晋作らとあっていたということです。
なお、久坂玄瑞とは、「泉福寺」以前から係わりがあったということです。

また、「泉福寺」正倫次男=菊麿は、18歳金剛隊(僧侶や山伏で編成された隊。隊長=長蔵寺今雄、兵数約80人)に参加、
蛤御門の変の戦闘で奮戦し、被捕・獄死したとのことです。

福間光子氏(武雄氏の「長女」)は、
菊麿のことについては、おじいちゃんからなんども聞かされた。」
お前はまだいかんでええと親からはいわれたが、今いかなくて、いついくのか。
と、ふりきって参加したのだということです。
率先して国のため長州のために手本にならなければという思いが強かった人だ」
と、祖父は誇りにして語っていたといいます。

要するに、「泉福寺」は、単に松陰「菩提寺」というダケの係わりではなく、
「維新」深いかかわりがあるのです。






松陰の没後百五十余年を経過していますが、
「吉田家」「杉家」「楫取家」の方々は、
現在もなお、萩の地にお出でになり
「泉福寺」及び「墓」にお参りされています。

吉田基子氏、楫取能彦氏については、「泉福寺」において、写っておられる「写真」を見せていただけました。




   



(4) 「泉福寺」への経路



「泉福寺」を訪ねるには・・・

@ 「萩グランドホテル」を目指す。
A 「萩グランドホテル」前の交差点「萩城址」の方向へ。
B 二つめ≠フ「交差点」を、「クリーニング店」と旧「寿司店」のある方=「右」に入る。(車がどうにか、「離合できる」くらいの「道」です。)
C 二つめ≠フ「交差点」?らしきところを過ぎれば、直ぐ「左側」にありますが、
「写真」のように、通りからの「入り口」は、小さめで、わかりにくいと思います。
「右の写真」の中央≠ノ、縦長の「白い」ものが見えると思いますが、それが「右下」に拡大した唯一≠フ吉田松陰菩提寺を示すものです。






なお、寺の手前に、新しく、「駐車場」が整備されました。(寺を少し通り過ぎてあった以前の「駐車場」は、現在は利用できません。)

新しい「駐車場」は、「薬局」の隣にあり、写真のように、二箇所、「泉福寺参拝者専用駐車場」と書かれています。
「薬局」を目安にされれば、容易にわかります。
この「駐車場」から五軒目くらいの位置にありますので、場所は、迷うことはなくなりました。
なお、十数台のスペースはあります。









以前≠ヘ、「写真」のように、「泉福寺」用意された薄い「板」に書かれた 吉田松陰の「菩提寺」 を示すものしかありませんでしたが、

「解説板」「石柱」設置済み他とのバランス(あまり知られていない人物についても、その「生誕地」・「居住地」「石柱」・「解説板」「旧宅跡」というのもあります〉が数多く設置されています) からしても、
「石柱」・「解説板」といったものを「設置」してはどうですかということを「萩市役所」提案したところ、
「観光課」谷野芳之氏が「窓口」となって、「対応」してくださり、小さめ≠ナすが、「入り口」の「右」に、「説明看板」が設置されています。


泉 福 寺   (吉田松陰(吉田家)の菩提寺)

泉福寺は幕末に松下村塾で多くの志士達を育てた吉田松陰(吉田家)の菩提寺です。
泉福寺は、安芸国高田郡甲立村(現、広島県安芸高田市甲田町)にあった高林坊第4世西願の3男 玄修が、安芸国沼田郡東原村(現、広島市安佐南区)泉福寺の8世となったことがはじまりです。
毛利輝元が居城を萩へ移した時、玄修は自分の先祖が厚い恩をうけていたので、1841年(寛永18年)萩に入りました。
毛利家より橋本町に寺地を拝領し「泉福寺」を創建しましたが、度重なる水害により 願い出て現在の場所に移転しました。
吉田松陰の遺言のとおり、「松陰二十一回猛士」と刻まれた位牌が安置されています。
※ 見学をされる際には、お寺の方へお声をかけてください。





なお、「観光」の「対象」ではありませんが、「萩市観光協会公式サイト」「浜崎」「寺社・仏閣」に、「泉福寺」が、「吉田松陰」「菩提寺」であることを、
江川麻美氏によって、追加していただきました。      ( ◎ ここをクリック≠キる と「アクセス」できます。)
                       (平成25年5月13日 確認)
この「観光協会」「ページ」には、
松陰先生直筆の書などが所蔵されており、毎年5月に開催される「浜崎伝建おたから博物館」で年に1回公開されます。
                    【平成25年は、5月19日(日) 9:00〜16:00に開催されます
という「情報」も記されています。
なお、この「ホームページ」には、「地図」が付けられており、しかも、「マウス」によって、動かして見ることも可能ですので、市外からお出でになる場合は、私の「泉福寺」への「経路」と併せて、御覧になると、便利かと思います。


吉田松陰から三代後の吉田家当主吉田庫三氏の 茂子が、
「山口県」に、 吉田松陰像「文書類」寄贈されるに先だって、
「泉福寺」に、松陰の直筆幾つかは「寄贈」しましょうと言われた際、
研究管理のタメには、「山口県」が管理するのが適当と考え、
「菩提寺」として「位牌」とともに保存するのに適当なもので、
かつ、管理可能なものをとして、
いただいた松陰の「直筆」であるとのことです。
(吉田倉三茂子両氏の「写真」は、ここをクリックしてください。)


「写真」は、
吉田松陰研究の方々が、 松陰直筆を御覧になっているところです。
「後ろ姿」ですので、お借りした「写真」をスキャナ≠ナ取り込んでアップしました。
(この「写真」でも、ごく、親しい方にはどなたかがわかると思います。
もし、不都合でしたら、ここをクリックすると、「Eメール」設定した箇所にジャンプ≠オますので、そこからご指示ください。)

残念ながら、私は、実物を見ていません。

「観光協会」「ホームページ」に 
松陰先生直筆の書などが所蔵されており、毎年5月に開催される「浜崎伝建おたから博物館」で年に1回公開されます。
とありますので、私も、出掛けてみようと思っていますが、皆さんも、直接実物を鑑賞されることをお勧めします。



   



(5) 「松下村塾」と「維新」の代表的人物─木戸孝允(桂小五郎)・高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞・伊藤博文







「松陰神社」にある 「松下村塾」 を背景に、
維新の代表的な5$lを配した「ポスター」です。
「萩駅の待合室」にありました。              (平成25年5月17日)

史跡と維新のまちとあるように、「萩市」には、維新関係の史跡が数多くあります。
なかでも、この「松下村塾」は代表的なものです。

読みにくいかと思いますので、「文字」の部分を「紹介」しておきます。
なお、「松下村塾」の中の「左端」にわずかに見える「肖像写真」は、山田顕義のハズです。


日本を動かした私塾は、私のこころも動かしました。

萩藩の城下町として260年にわたり栄えたこの町には、
武家屋敷や土塀など当時の町並みがそのまま残っています。
幕末には吉田松陰のもとここ松下村塾で、
高杉晋作伊藤博文ら数多の維新の志士が育まれ、
新しい時代へと進む原動力となりました。


「松陰神社」は、

松陰実家「杉家」の地松陰「誕生地」ではなく、嘉永元(18488)年、一家松本村清水口=現在の松陰神社境内に転居。)を中心に創建されたものといわれ、

「松陰神社本社」のほか、
この「写真」にある「国指定史跡」「松下村塾」
同じく 「国指定史跡」 の「吉田松陰幽囚ノ旧宅」
「山口県指定有形文化財」「花月楼」のほか、
石碑に、
・「親思ふ・・・」
・「明治維新胎動之地」
・「薩長土連合密議之處」
・「明治九年萩の變七烈士殉難之地」
があり、
さらには、「歴史館」・「至誠館」
といった「施設」などがあります。


萩の「松陰神社」の「ホームページ」

松陰神社≠ナ検索すると、
 「松陰神社 山口県萩市鎮座 吉田松陰先生と松下村塾
  という「ホームページ」が出てきます。
  詳しくは、その「ホームページ」を御覧下さい。




   


(6) 「明治百年」の「新聞記事」より






父=英男「明治百年」〈昭和43(1968)年10月〉という『スクラップ帳』から抜き出してみました。
「右」の記事には、当然のこととして、松陰「松陰神社」が取り上げられ、松陰「像」「松陰神社」の中にある「松下村塾」写真があることがわかると思います。
しかし、残念ながら=A父の膨大な=u切り抜き」の中に、「泉福寺」を記した「記事」は、見あたりません
「毎日新聞」(昭和44年1月17日)を始め、「NHKテレビ」にも取り上げられた整理のこととて、「切り抜き」にないということは、なかったということだと思います。
間近に迫った「維新150年・明治150年」(厳密≠ノは1年違います)の時には、「泉福寺」  取り上げられ、松陰「位牌」を拝む人が多いことを期待しています。
「松陰神社」重要性はいうまでもありませんが、松陰は、亡くなる時、「神」になることを予測してはいなかったと、私は思いますので、「菩提寺」  忘れてはなるまいと思うのですが、いかがでしょうか。

松陰「150回忌」である「平成21(2009)年10月」の時には、は「昭和62年6月」に亡くなっているタメ、「松陰神社」を中心に、各種の「企画」がなされたことは知っていますが、と違い、複数の「新聞」を買い求めるということはしていませんので、「150回忌」の時の様子は、わかりません。)

「東京」の「松陰神社」の「ホームページ」の鎮座の由来に、
明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、(註 小塚原回向院から移された、松陰遺骸が眠る「墓」のことです)を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。
とあり、
「萩」の「松陰神社」の「ホームページ」の御由緒という箇所に、
松陰神社の御祭神、吉田矩方命(以下松陰先生)が殉節されてから31年後明治23年(1890)8月松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。
このとき松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されました。
これが松陰神社の前身であります。
とあって、松陰意思とは関わりないようになっていますが、
「ウィキペディア」の「松陰神社」には、「萩」の「松陰神社」の説明の中に、
明治23年(1890年)、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄=杉 民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である≠ニあります。
この「ウィキペディア」によると、松陰自身「神」として祀られることを望んでいたようになりますが、私は「疑問」に思っています。

「神」として祀られている方々は、私の知るダケでも松陰に限らず、相当数の方々がありますが、その多くは、「明治」以降のことのハズです。
幕末維新期の方々
毛利敬親元徳(山口市・「野田神社」)・木戸孝允(山口市)・大村益次郎(山口市)

西郷隆盛大久保利通坂本龍馬平野国臣

さらには、「明治期」の「軍人」である
乃木希典(東京都港区・下関市他)・児玉源太郎(周南市・藤沢市)

といった方々が祀られておられます。



   


(7) 吉田松陰「墓」及び その「周辺」

─ 平成25年5月17日、再訪し、以前の「写真」と取り替えました。─


吉田松陰の「墓」のこと

 「墓」は、4箇所にあるようです。

@ 斬首された松陰の遺骸を弟子たちが取り戻し葬った小塚原回向院の「墓」
墓碑銘 「松陰二十一回猛士墓」

A 文久3年、高杉晋作らの手により小塚原回向院から、毛利家の別邸があった太夫山、現在の東京世田谷に改葬され、遺骸が眠る東京の「松陰神社」内にある「墓」  墓碑銘 「吉田寅次郎藤原矩方墓」

B 山口県萩市松陰誕生の地に隣接した「墓」  墓碑銘 「松陰二十一回猛士墓」
           万延元年(1860)2月7日、は松陰の没後百ヵ日に当たり、生家の杉家では百ヵ忌を営み
遺髪を埋めて造られたものという。  (「写真」はこの「萩市」の「墓」です)


C 山口県下関市にある「桜山神社」の「招魂墓」  墓碑銘 「松陰吉田先生神霊」
 (次は、「解説板」より引用)

元治元年(一八六四)一月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(一八六五)八月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。
創建当初は、文久三年(一八六三)五月十日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死した者、さらには長州の尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞山縣有朋らの霊も加え、今日では三百九十六柱の志士がここに祀られている。
この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉といった名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を超えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








「左」から
吉田庫三=吉田家第十一代(松陰の甥にあたる) 鳥取県第一中学校長(現在の県立鳥取西高校) 神奈川県第二中学校初代校長(現在の県立小田原高校) 
神奈川県立第四中学校初代校長(現在の県立横須賀高校)を務める。 著書に「松陰先生遺著」等あり。大正十一年(一九二二)没 行年五十六才 
吉田松陰
吉田大助=吉田家第七代で松陰の義父。松陰実父の杉百合之助の弟。天保六年(一八三五)没。行年二十九才
吉田久満=吉田大助の妻。松陰の養母 夫の没後は実家森田家に寄寓。松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。明治五年(一八七二)没 行年五十九才
「墓」です。(  ≠ヘ、「墓」のそばにある「解説」の文字。)
なお、「上」に見える「墓」は、高杉晋作の「墓」です。
久坂玄瑞の「墓」は、「右」方向の、やや離れた場所にあります。


「松陰の墓」の「拡大写真」

ここをクリック≠キると「Yahooのブログ」にアクセスできます。




「松陰誕生地」(「萩市指定文化財(史跡)」〈平成13年12月21日指定〉)
からの眺望
「中央」の「山」が指月山です。








吉井 勇「歌碑」です。
薄れて読みにくくなっており、敢えて、斜め≠ゥら撮ってもこんな状態です。
しかし、「確認」は可能で、

萩に来て ふとおもへらく いまの世を 
救はむと起つ 
松陰は 誰

とあります。



なお、
吉田松陰と金子重輔の像
については、
「ブログ」
で、
大きな「写真」を御覧ください。
「台座」込みの「写真」紹介は、
あまり、ない≠ニ思います。




   





(8) 「泉福寺」の「本堂」






(9) 「松陰先生関係の写真」&「 杉家 の家系図」  ─ 「泉福寺」の「本堂」 ─






上の「写真」は、本堂の「右側」にある、
   @ 松陰「画像」中央にして、明治以降に撮影された松陰の血縁者「写真」(「系図」の中の、赤い○の数字と一致しています)と、   
   A 「縦3m、横7m」の大きさで表示された「杉家」の家系図
です。

「右上」の「杉家系図」という「枠の中」に、


杉家系図
(松陰先生との血縁の方々)
註@ (  )配偶者で非血縁の人
 A ○印は生存者
 B K1・25 は 慶応元年死亡、行年25才


という「説明」があります。

この「写真」に写っていただいているのは、「ご住職」福間公昭氏です。

この「写真」において、
松陰二段目「右」から2番目に、


吉田八代
吉田寅次郎松陰
安政6・30


のように記されており、
4番目に、楫取寿子≠ェあるのがわかっていただけると思います。

なお、この「写真」の「左」にあるのですが、ここをクリック≠オて「Yahoo」の「ブログ」でを見ていただきますと、
久坂玄瑞[1840(天保11)年〜1864(元治元)年]のであったが、
 寿子が亡くなったことで、楫取素彦の二番目の妻となった美和子が記されています。
なお、美和子の「写真」は、この「写真」の「右」から3番目にあります。
楫取素彦と結婚した当初はで、その後美和子と名乗るようになっています。)

当時としては、姉・妹同じ人物に嫁ぐということは、珍しいことではなかったようです。
美和子は、「歴史」に名を留める人物の妻として、久坂 文楫取美和子であったということです。
  
「Yahoo」の「ブログ」で
「系図」は、≠クリック≠ウれ、出て来た「写真」の「右下」の+をクリック≠ウれると、ほぼ=u全体」を見ることができます
また、「次」の「吉田家先祖法名一覧」も、はっきり確認できますので、クリックしてみてください。














(10) 「吉田家先祖法名一覧」



「泉福寺過去帳」よりとして、
元禄六年四月から記されています。
書き出しの部分と、松陰=松陰二十一回猛士  八代 (安政六年己未 十月二十七日)を中心にした箇所
さらに、終わりの方からの「写真」を示しています。
なお、「上」の 「杉家の家系図」 からもわかるように、松陰の後は、甥=小太郎 → 姪=道子に継がれています。   



「写真」は、松田輝夫氏が、
「系図」
「吉田家先祖法名一覧」 (頭上に「横長」に見えるもの)
を利用して、わかりやすく、説明・解説しておられるところです。

松田氏は、「史都萩を愛する会会長」として、郷土の歴史を研究
中でも、松陰について、研究を続けてこられている
「松陰研究」の第一人者(「萩市のホームページ」)です。
この「写真」は、右下に撮影期日が示され2012/05/20とあるように、「浜崎伝建おたから博物館」の日のタメ、
多くの人が「泉福寺」を訪れられることを予測し、「泉福寺」に待機され、 説明・解説されているワケです。
なお、この日に限らず、折に触れて、立ち寄られ、解説をなさっているとのことですし、
各地において、講演の講師や案内役として、精力的に活動されているようです。

松田氏には、多くの「論文発表」があるほか、
「編著」としても『吉田松陰と塾生 松陰の塾生についての記録集』(「松陰神社」刊)があり、
「山口県立図書館」他に、所蔵されています。

(松田氏の了解はいただきましたが、特別の日であることとて、
多数の方が写っておられますが、その方々がどなたかもわからず、
了解を得られませんので、松田氏以外は、カット≠オています。)


   





(11) 野村望東尼とのこと


松陰2番目の妹寿子は、楫取素彦(小田村素太郎)「妻」であり、高杉晋作の死後、野村望東尼親身になって世話をした人物で、
望東尼『防州日記』にも、

霜月朔日、楫取氏細君へ、
    わが為に遠き山坂こえてこそ心おもへば涙のみして

同二日、御同人山口へかへらるる暇乞に参られし時、
   露ばかり思ひおく事なかりけりついのきわまで君を見しかば


と、感謝の言葉が記されています。
なお、寿子は、明治14年に43歳でなくなっており、後妻に、久坂玄瑞で、久坂の死により、22歳の時から未亡人になっていた松陰4番目の妹文(美和子)がなっています。
この二人の結婚は、松陰寿子らの勧めであったといわれており、それほど、楫取は、「杉家」からの信頼があったということでしょう。


(13) 「吉田松陰自賛肖像」について





(12) 楫取素彦  ─文政12(1829)年〜大正元(1912)年 ─



文政12(1829)年3月15日、萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれました。
小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)、12歳の時で、その家は儒官の家柄でした。
弘化元(1844)年明倫館に入り、近藤芳樹らに学び、同(1847)年19歳で司典助役兼助講となります。
嘉永3(1850)年、22歳の時、大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受けています。

吉田松陰の激論を受け止め、互いに、敬愛しあっていたことから、縁あって、後年、望東尼になにかと心配りをした松陰の妹=寿(子)と結婚します。(「結婚」は、寿子が15歳の時とのことですので、嘉永6(1853)年と思われます。)
安政2(1855)年、帰萩して、明倫館舎長書記兼講師見習となります。
翌3(1856)年2月相模出衛を命ぜられ、同4(1857)年4月帰国、明倫館都講役兼助講となります。 (楫取は、萩以外の地に赴任し、さまざまの役職を担いますが、以後は、特記すべきもの以外は、略します)
「松下村塾」には、しばしば訪問し、間接の援助を与え塾生とも相知ることとなります。
松陰入獄中には、本の差し入れや文通等の便宜を図っています。

「左」の「写真」は、有名な「吉田松陰自賛肖像」を「表紙」にした『山口県文書館蔵 吉田松陰関係資料目録』「表紙」を撮ったもの(「掲載の許可」の手続き済み〈ここをクリックすると「ブログ」に移行し、拡大写真が見えます〉)ですが、
この松陰自賛を書き残すことになったのは士毅(=小田村伊之助=楫取素彦)の勧めによるものだと、「山口県文書館」山田 稔氏が、「山口県立図書館」における「人物で知る明治維新講座」において、語られました。
私は知りませんでしたので、山田氏に、その「根拠」を尋ね、『吉田松陰全集』「東行前日記」(とうこうぜんにっき==u東(=江戸)に行くことになる前の日記」の意)にあるとのことで、確認しました。
十六日 朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の写す所、 之れに賛するは士毅の言に従ふなり。とありました。
松陰楫取との深い結びつきは、このことからも確認できるということです。
(『山口県文書館蔵 吉田松陰関係資料目録』「表紙」が、凝ったもの=″Lげれば原寸大≠フ「自賛肖像」になっていることも、山田氏の「紹介」で知りました。)

◇ 「吉田松陰自賛肖像」について 

一般的≠ノは、「至誠而不動者、未之有也」とされている『孟子』を、「至誠不動兮自古未之有」=「至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず」と「引用」(注 松陰『孟子』がこの「引用」のママだったのかも知れません)し、 かつ、松陰の尊敬する諸葛孔明、賈彪、貫高、魯仲連らを挙げながら、松陰の思いを述べた格調高いものですが、 「ネット」の「維新史回廊トピックス」なるものに、山田氏が「紹介」されたものがありますので、ここでは、その中の「大意」部分を「引用」してみます。 (「色文字」や、文字の太さは、私(河野)が勝手にしたことです。)

(「賛文」大意)

私が尊敬する諸葛孔明賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高(かんこう)や魯仲連(ろちゅうれん)のような功績を残すこともできなかった。
こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。
故郷の人は私を非難するが、私は、国のために命を投げ出す覚悟はできている。
誠意を尽くせば、心は通じると古くから言われているように、人は、是非とも高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も敢えて追い求めたい。

(「跋文」大意)

安政6年5月、私は江戸に送られるが、二度と帰って来られないと思い、周りの人々に最期の別れを告げた。
人々は、松浦松洞に私の絵を描かせ、私に言葉を添えることを求めた。
私をよく知る松洞は、この絵に外見だけを写そうとしたのではない。
ましてや私が言葉を添えるのだから。
人々よ、この絵を末永く保管して欲しい。
もし私が処刑されても、この絵の中に私は生きているのだ。

(この中に、「像」を描いた松洞の名はありますが、を勧めた人物は、諸友(山田氏は、人々)としかなく、『日記』に拠って、楫取とわかるワケです。)



     ◆ その他の山田氏による「解説」を幾つか、紹介しておきます。


O 吉田松陰像(自賛)はいつ頃作られたものですか。
安政6年(1959年)5月、萩の野山獄に入獄中の松陰に幕府から江戸送りの命が下されました。
その年の10月に江戸伝馬町で処刑されましたので、この後松陰が生きて萩の地を踏むことはありませんでした。
この吉田松陰像は、最期の旅立ちを前に、松陰門下の松浦松洞(まつうらしょうどう)が描いた師の肖像に門下生達の求めに応じて、松陰が自賛したものです。

O 松陰の自賛肖像は、いくつ作られたのですか。
諸説ありますが、定本『吉田松陰全集』によると、松陰が自賛したものは全部で8幅あり、このうち「自賛肖像」は、1.吉田家本、2.萩松陰神社本、3.品川本、4.久坂本
5.岡部本、6.中谷本の計6幅「自賛のみ」で、肖像を伴わないもの福川本松浦本の計2幅とされています。
(松浦本は後に人をして肖像を描かせたといわれています。所在不明。)

O この「吉田家本」が文書館に収蔵された経緯を教えてください。
山口県文書館が所蔵する吉田松陰像(自賛)は、昭和29年(1954年)4月、東京都在住の吉田茂子さんから山口県に寄贈されたものです。
茂子さんは、吉田松陰から三代後の吉田家当主庫三氏のにあたる方です。
(参考 「杉家の家系図」「左」EFという「番号」で示された「写真」の方がお二人です。
さらに、ここをクリックされると、「家系図」の中で、確認できます。 )
寄贈された資料は、当初、県立山口図書館に収蔵されましたが、昭和34年(1959年)の山口県文書館開設に伴い、当館へ移管されました。  

O 「吉田家本」の特徴は、どのようなものですか。
自賛肖像の中では唯一のあぐらをかいて座った像であり、羽織をまとわず、刀は左脇に置いて、ややくつろいだ姿勢をとっています。
紺色の着物が画面に締まりを与え、賛文の整然さとあいまってバランスの良い自賛肖像となっています。
「顔やや長し、隆準にして、白面に痘痕を帯ぶ。一見威風の人を襲うものなし。ただ眼光の爛々として他を射るのみ。」
    (面長で鼻が高く、色白の顔に天然痘の痕がある。一見威圧感はないが、目は鋭く爛々と輝いている。)
と評される松陰の面貌をよく表しています。


なお、楫取は、のために、久坂からへの手紙を整理し、『涙袖帖』として残しています。

             (参考)  古川 薫氏の『故園の花』 より

・・・・・・・・・・・・・
医師久坂玄瑞は、吉田松陰の松下村塾に突如現われ松陰に師従することになった。
後に高杉晋作とともに松陰門下の双璧と称されるまでに頭角を現す。当時の塾は、松陰の実家(杉家)にあり、松陰の末妹、文は、玄瑞に心ひかれ、やがて松陰の薦めにより結婚する。
しかし、結婚して2ケ月後には玄瑞は藩命により江戸へ発つ。吹き荒れる幕末の嵐は、松陰の死刑、安政の大獄、攘夷運動の急展開から激しい倒幕運動へと発展し、二人に安定した結婚生活を許さなかった。
玄瑞は、松陰なきあと志士として政治運動に参画し中心的な役割を果たす。
そして元治元年ついに京都で壮烈な討死をとげる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文は、周囲の薦めもあり、後に楫取素彦と再婚、男爵夫人として幸せな余生を送り、素彦に遅れること9年、大正10年79才で逝った。
素彦は、生前に、文が携えてきた玄瑞の21通の書簡を整理し「涙袖帖」として箱書してやった。
彼女の臨終の枕元にはその「涙袖帖」があった。あくまで玄瑞の妻であることを誇示するかのように
・・・・



文・美和子」については、「写真」も飾ってあります。
「上」の「写真」の「右から3#ヤ目」にあるので、確認いただきたいと思います。
なお、私の「写真」では見えませんが、この「系図」には、御子孫の方々も記されており、おそらく、今後も、書き加えられていくものと思います。


       



(14) 吉田松陰の「位牌」

















「左」の2枚の「写真」が、当初≠フ「位牌」ですが、永い年月を経ているタメ、
松陰「位牌」に、お参りをしたいという方々のタメに、
新しく作られた「位牌」(「右」の「写真」)が「位牌堂」におかれ、当初≠フ「位牌」は、大事に「安置」され、毎日、お経があげられているとのことです。

    (2*目の「写真」は、フラッシュの関係で、少し=A斜めから撮っています。)


   





(参考) 林 百非(真人)について








[Yahoo]・[Google]において、この「ページ」が、早めに出てくるようになりましたので、
松陰に関係する人物ですので、かつて「調査」された方に、
「訂正」されていることをお知らせできるかもしれないと思い、参考として、記すことにしました。

林 百非については、「中央」の「写真」を御覧ください。
なお、「追加」として、は靖、は不邁・愚公、通称は寿之進・真人別号に太平山人・如是・百是・三宝道人等があることを記しておきます。

この百非は、以前は、「川島」のこの地誕生地と思われており、それに従って「石柱」も設置されているのですが、
その後三田尻(防府市)に生まれたことがわかりました。
「誕生地」という「石柱」と並んでいるタメ、誤解されるかもしれませんが、「解説板」「左下」正確には旧宅地であるとあるのがわかるでしょうか。

この場所は、藍場川沿いの閑静な住宅地にあることとて、観光客の姿も、しばしば見受けられます。









(参考) 設定した「リンク」



楫取素彦については、「ホームページ」を作っていますので、次の「下線部」をクリック≠オて御覧いただければと思います。
但し、この「ページ」との重複がかなり≠ります。
私の「維新関係の研究」の出発点は、野村望東尼にあります。
つまり、私の「管理」(残念ながら、毎年のように「山水」が流れこむようになって、現在は、住んでいません。)している「家」が、
望東尼が、防府(三田尻)において、「寄寓」していた「荒瀬百合子」の「家」の「離れ」を移築したものということからです。
松陰望東尼との直接≠フ関係はありませんが、
高杉晋作楫取素彦、その寿子
を介して、浅からぬものがあると、私は思っています。
楫取素彦寿子、さらには、山田顕義(当時は市之允)も、私の管理している旧「荒瀬家」の「離れ」訪れたことがあるハズです。
次の「ホームページ」には、楫取「墓」も載せています。
野村望東尼の「終焉の地=*h府市」における史跡≠ニその「写真」

次は、山田顕義についてです。

山田顕義 ─松陰・晋作・望東尼に愛された男 ─



「ブログ」で「拡大写真」を見られませんか?

この「ページ」の中に、設定済みですが、まとめて、ここ示しておきます。

吉田松陰の「系図」
↑ 「泉福寺」の「本堂」にある「系図」のほぼ¢S体について、文字まで見られます。

吉田松陰と金子重輔の像
↑ 二人の「像」のみを「紹介」したものが多いと思いますが、ここでは、「全体」を見ることができます。

吉田松陰自賛肖像
↑ 『山口県文書館蔵 吉田松陰関係資料目録』の表紙 より





あまり参考にはならないと思いますが、一応、「リンク」させておきます。

「大谷山荘」にある「百万一心」の「額」のこと
  ↑ 「関ヶ原」以前「毛利家」所領であった現在の安芸高田市「郡山城址」にある「百万一心の碑」の「写真」・「解説」を記しています。

大山捨松(山川咲子)の生涯 及び 「毛利家」について
  ↑ 吉田松陰「留魂録」と 福島藩士能勢久米次郎の家臣という沼崎吉五郎のことを記しています。


   

御願い

この「ページ」について、私の誤り≠ヘもちろん、なにか、教示していただけることがありましたら、


    







mini-counter §


























































































            以下は、ごく「個人的」なもので、吉田松陰とは関係ありません。




「泉福寺」と、私とのささやかな係わり≠フこと



「泉福寺」ご住職とお会いするきっかけは、
義母田村アヤコ「葬儀」でした。
最初の、「枕経」をあげていただいた時は、義姉保恵さんと私達夫婦、それに「萩典礼会館」出羽(いずわ)さんの四人ダケでしたので、私のことも覚えていてくださいました。
このことが、この「ホームページ」に示すような、貴重なこと(「泉福寺」松陰との関係・松陰の2≠ツの「位牌」のこと他)を「紹介」できることに繋がっているのですから、私の「テーマ」である邂逅の「一環」といえるかも知れません。
ご住職「通夜」「葬儀」、それぞれの場での、「講話」は、わかりやすく、感銘深いものでした。
「法名」を、故人の「人となり」を考えてつけてくださるのは一般的かとは思いますが、「講話」に、その「法名」の由来を含めて解説してくださったのは、私に取っては、初めてのことでした。
義母は、身内の私が言うのは、変ですが、義父修照(みちてる)を見送って、ほぼ20年、近所に住む義姉保恵さんのそれこそ、毎日ともいってよい手助けや、私どもの週一回の「訪問」(→「萩しーまーと」の「がんがん」or「土原」の「元一」での「食事」→「湯免温泉ふれあいセンター」での「入浴」を楽しみにしていてくれました)もあって、一人で住んでいましたが、 花作り・野菜作り趣味・生き甲斐としてとらえ、それらを親しい方、近所はいうまでもなく、日常、利用していた「お店」にも持って行っていたようです。
「菩提寺」の「総代」の一人でもありましたので、「寺」(「西光寺」)にも、心遣いをしていました。
最後は、「玉木病院」で三ヶ月、お世話になりましたが、亡くなる直前まで、しっかりしていましたので、ご住職につけていただいた「法名」及びその「説明」は、有り難いと思いました。

「祭壇」の「写真」の「左下」にあるのは、義母作成の「刺繍」です。
よしのやま 霞のおくは しらねども 
見ゆるかぎりは さくらなりけり
とあります。
まさに、西行法師の
ねがはくは花のもとにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
のごとくなった(平成25年3月25日歿)ワケですが、
96歳という長寿を迎えられたことについても、
義母生きる姿勢が、に通じたのではないかと、私なりに思っています。













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