嘉田知事は、「国税」で建設する「医療観察病棟」に飛びついた。 国は、「国民に痛み」を強いる施策を計画中。
歴史を眺めると、200年前に「行政改革」を断行した名君がいた。上杉藩の第9代藩主「上杉鷹山(治憲)」。
東北出身者にとっては、なじみの深い人物である。
鷹山公は、大赤字の藩財政を立て直しするために、自ら倹約に努め、殖産を起こした。
「歴史ヒストリア」では、「上杉鷹山 天災と戦う なせばなる!奇跡の復興物語」のタイトルで鷹山公の改革を簡略して紹介していた。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/120.html
数年前、新潟県を舞台にした上杉藩の家老「直江兼続」の生涯が、NHKの大河ドラマで放映された。
その兼続の晩年、上杉藩は、山形県米沢に移された。会津120万石から米沢30万石に減封。そこから、上杉藩の凋落が始まる。
<ウィキペディアから>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ[要出典]、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった[2]。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。
深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、
- 「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」
といった洒落巷談が流行っていたほどである。
加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた[3]。
天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した
鷹山公が書いた心得「伝国の辞」
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
歴史に学ばなければいけませんね。