アラフォーになってからですね 度々思っていたことを 書きます 俺はひどくマイペースで 我が道系な人間なんで 「自分が人からどう見られるか」ということについて だいぶ無頓着な方です いや 性別に関していえば どこかへ出かけた時に 店員さんなどに 「男と女 どっちに見られるか」 ということについては 気にせざるをえなかったのだけど だって それは あちらが対応に困り 困惑させたりすることがあるから 俺が男に見えようが 女に見えようが そんな紛らわしい外見をしているのは 自分のせいなので 相手が悪いわけじゃない 普通の方々は パッと見で 男女どっちかを判断して 対応するから そこを 紛らわしくさせているこっちが悪い と俺は思うわけです というわけで 「どっちにも見える」という中途半端が 一番 世の中生きていきにくいなと 実感しているわけです 男に見えて女だと明かされた時も「失礼しました」 女に見えてオナベだと明かした時も「失礼しました」 と言われちゃったりするわけで その度に「ああ~~中途半端ですみません…」 と自責の念のようなものを感じましてね だから 性別を問われるかもしれない場所(男女分けられる)には 極力行かないようにと なっていきました というのは 俺のケースであって 他の性同一性障害の方では 「勝手にそっちが間違えたんじゃないか!」 と逆切れ?的に 堂々とできる人もいますから そこはご注意くださいね さて 性別のことを言いたかったわけではなく 話を戻します 俺をFTMだと知っている人との関係においては 先方は自然と 俺を男扱いしてくれるので(外見が中性的でも) 居心地はいいし 気は楽です そういう意味では 団体や店を立ち上げたりした この四年間は 気が楽で 過ごしやすい人間関係の中にいました (会社にいる時は除きますけど) でも その仲間たちから 「自分がどういう風に見られるか」を 別に特に気にしてなかったんですよね~無責任なことに… 「俺は俺だし あるがままだし そのまま見て判断してくれたらいい」 くらいの気持ちでいました 「俺はそのように 貴方達を見るから 俺の事も そのように見てほしい」 「俺は 貴方達の自由も尊重するから 俺の自由も 尊重してほしい」 っていう理論です でも この理屈が通るのって 同世代の気の合う仲間くらいなものなのだと つくづく知りました… (すべてがそうじゃないけど 傾向としてね) 一回りくらい 又は一回り以上年下のFTMから見ると 俺は「すごく年上のFTM」であり 「年上として こうであってほしい」という 希望や期待を背負いやすいのだなと そうでした 俺自身も若い時 思えばそうでした 26歳の時 ナベバーに居た時のオーナーは 俺より一回り年上で 「大人の人のはず」と思い込んで見てました その思い込みのフィルターから 彼を見た時に 「なんてだらしがないのだ」とか 「なんてしっかりしてないのだ」とか イラッときたり 勝手に幻滅したり… そんなこと思ってましたわ あー… だからか 自分でやったことは 自分に返ってくるとはいうけど 俺もこんな風に 年下から幻滅されるような奴ですし 同じようなこと よく思われましたから 今ようやく オーナーの立場がわかりますね 自分が実際に大人の歳になってみないと どんな大人になっているかは わからない もうちょっと しっかりした大人になっているかと思ってたけど 現実は 全然しっかりなんてしてなくて ダメダメのダレダレです あーーらら こりゃ 呆れられても仕方ないですね だけど だからといって 自分を必要以上に責めても 急に成長などしないので そこは 淡々と冷静に思います まずは 今の自分の現状を受け止め 少しずつ修正していくしかないわな と切り替える 俺は俺のペースで進むしかないんだもん 「どんな大人になりたいか」という 理想像みたいなものは 俺にはなかったけど (ある程度 生活を安定させることができる力は欲しかったが) 若くても 歳取っても こうでありたいなという人間像はありました それは 「一生懸命で 愛嬌がある人」 これなら 自分はいくつになってもできるかなって そして 俺個人もこういう人は好きだし 意外と こういう人には助けの手が差し伸べられたりしますよね 自分は強くないから ずっと周囲に助けてもらってきてる 助けたいと思ってもらえるには これは必須なような気がしました 能力がなくてもいい しっかりしてなくてもいい でも 一生懸命で愛嬌があって どこか憎めない感じの人ならば 「もう~~ しょうがないな~」って助けてもらえたりする どっちかというと この発想って 女性的発想だとは思うんですがね でも モデルケースとして うちの親父は 割とこのタイプに近いから これは 男でもこういうのでもいいんじゃないかと思ったりですね (男としては かなり貧弱タイプですけど) そうじゃない人がいても 別に「もっと〇〇であるべきだ」とは俺は思わない たまに 人に対して 「どうしてもっとしっかりしてないのか」とか 「もっと〇〇すべきだ」と 助言のつもりで(おそらく本人的にはそう意識しているのでしょう) 言ってくる人がいますけど 俺は こういったやり方は決してしたくないと 意識してきた人間なので これやられると 敏感に反応しますね 誰かに対して 「もっと良くなっていくのに 勿体ない」と思って 何か助言めいたことを言うとしたら ダメ出しよりも 相手のいいところを挙げて 「もっと伸ばせる!」と励まします ダメ出しのやり方は 叱咤激励でもあるけど 相手の為というよりは 言ってる人間の願望や感情が入りやすい でも いい所に焦点を当てれば それは 相手と自分の共通の希望に繋がる気がしてね そんで どうやったら そのいい所を伸ばしていけるだろうか? という方法を 一緒に考えてあげるって方が 建設的じゃないですか 弱点を修正していくことも 生きていく上で大事だけど そっちよりも 長所を伸ばす方が ずっと生きてて楽しい気がするんです なんてこと言ってると また 厳しい方々からは「そういうところがダメなんだ」 なんて言われちゃいそうですけど(^_^;) そんな風に考えられるようになったのも 30過ぎてからですけどね だから オーナーのことも 「40過ぎているのに あの言動はどうかと思う」ではなく いいところはたくさんあったのだから そこを見れば良かったんだなーって思います 彼は30代半ばで水商売に入り ゲイバーでガンガン飲まされ修行して 頑張ってきて それって根性あるじゃないですか しかも彼は 自分でそこを自慢することもなかったし だけど 当時クソガキだった俺は 彼のことを そういう風に見ることはできなかった 欠点は欠点で あるのは仕方ない でも それを置いておいて長所を伸ばすところに視点を置く これができるのも 一つの度量なんだと 大人になってから解ったことです |