逆説的に聞こえるかもしれませんが、ぼくは平等を目指すという考え方は、基本的に好きではありません。
この世は決して平等ではない
まず大前提として、この世の中はびっくりするほど不平等であり、これから先も、本当の意味で「平等」になどなりえません。生まれる家庭は選べませんし、ちょっとしたトラブルで一気にどん底に落ちることもあります。
そんなことは、ちょっと社会を見渡せばわかることです。データでも立証されまくっています。子どもの貧困などはもっとも象徴的な「不平等」だと思います。生まれた家庭によって、明らかな環境的差異があるわけです。
2012年度厚生労働省白書では、2000年代半ばまでのOECD 加盟国の相対的貧困率について日本が加盟国中大きい順から4位であったこと、うち子どもの貧困率は13.7%と30か国中ワースト12位であると記載されている。
また、2003年以降のひとり親家庭の相対的貧困率は低減してきているが、子どもの貧困率はやや上昇傾向という状況にある。
そういう現実があるにも関わらず、ぼくらは子どもの頃から「日本は平等な国だ」となぜか叩き込まれます。本当は全然平等ではないのに。教師たちには「この世は平等ではない」と教えるほどの勇気がないのでしょう。
平等が幻想に過ぎないことを知らないまま育った大人は、「この世は平等だから」という理由で他人を攻撃します。
ネット上で見られる生活保護バッシングは象徴的でしょう。「生活保護を受けるのは怠け者だ!」という論理は「(みんな私と同じような環境で育ち、生活しているはずなののに)生活保護を受けるのは、怠けているからだ」という前提があるからこそ成り立ちます。
「ニートは怠け者だ!」「ホームレスは怠け者だ!」も同様。そういう批判を繰り出す人は、ニートなりホームレスなりが、「自分と同じような環境を与えられてきた」という間違った前提に立っています。
先日書いた「弱い人たちは、辛いなら助けを呼べばいいのに、なんで助けを呼ばないの?」という鈍感な論理も、平等幻想に依って成り立っています。あなたは助けを呼べるくらい強いですが、それは環境に恵まれた結果によって手にした「資産」なのですよ。
「いじめられる方にも落ち度がある」みたいな論理も、平等幻想の副産物でしょうね。「いじめられる」ということは、「普通の人が当たり前に持っているもの(たとえば「学力」「マナー」「清潔さ」「体力」etc…)」を持っていないからだ。それを持っていないということは、頑張りが足りなかったんだ。だから、いじめられても仕方がない、もっと頑張れ!…という論理で、いじめられっ子は鬱屈していくのではないでしょうか。
この世が不平等であることを理解していれば、怠け者だ!という批判は成り立ちません。貧困は本人が怠けた結果ではなく、さまざまなものに恵まれなかった結果として、発生している現象だと理解することができます。
そういう視点を持った人は、弱者に対して優しくなれます。「あなたはたまたま恵まれなかったんですね。それはそういうもので、仕方が亡いことです。だから、今は恵まれている私が、できるかぎり助けますよ」。
また、自分が弱者の立場に陥ったときも、自分を赦すことができるようになります。「あぁ、運悪くこんな状況に陥ってしまった。仕方ないから、恵まれている人に今だけ助けてもらおう」。
この世は平等ではありません。それは大前提です。平等は目指すべきですが、それはあくまで、この前提に立った上での話です。
この大切な前提をすっ飛ばして、誤解して育った、子どものような大人が、この国には多すぎると思うんです。あなたはたまたま恵まれていただけだというのに。その「恵み」を、ちゃんと還元しないと、あなた自身が将来困りますよ。
日本は平等な国であるという理屈を、他者攻撃に使うことは、徹底的に忌避しなければいけません。それは鈍感で傲慢で、もしも「落ちた」とき、自分をひどく苦しめる論理になりますから。