【新刊】韓明基著『歴史評説 丙子胡乱1・2』(青い歴史社)
747万人が鑑賞した映画『神弓 KAMIYUMI』(2011年)で、主演のパク・ヘイルは、丙子胡乱(へいしこらん。1636-37年の清による朝鮮侵略)で朝鮮に侵入した清軍の兵士を次々と倒し、鴨緑江の向こうに連れ去られた妹を救い出した。しかし実際の状況では、ハッピーエンドではなく、さらに残酷な悲劇で終わった可能性が高い。
清のホンタイジ(太宗)は、朝鮮王朝の降伏条件に「鴨緑江を渡って一歩でも清の地を踏み、その後朝鮮に逃げ戻った者は、朝鮮側があらためて捕らえて送るべし」という項目を盛り込んでいたからだ。清は逃亡者を残酷に扱った。人質として瀋陽に連行された昭顕世子の臣下が「清では、朝鮮人逃亡者が歩けないようかかとを切り落としている」という報告を書き送っている。
明知大学の韓明基(ハン・ミョンギ)教授は、前著『丁卯(ていぼう)・丙子胡乱と東アジア』(2009年)に続き「歴史評説」の形で丙子胡乱の経緯をドラマチックに描き出した。例えば、「政権の保全」ばかりにこだわって明と後金の勢力変化を読み取れなかった朝鮮国王・仁祖と反正功臣の無能や固執、そして1627年の丁卯胡乱(後金の朝鮮侵略)で国王が江華島に逃亡するほどの危機に直面したにもかかわらず、10年間もその場しのぎの対策で歳月を無駄にしたことなどだ。
1623年3月14日、反正(クーデター)に成功した仁祖は、前王の光海君を追放する大義名分として「父母のごとき中国の朝廷の恩恵に背いたこと」を挙げた。「親征し後金を撃つ」とも豪語した。沈み行く帝国・明にとって、朝鮮は「格好のかも」だった。明は仁祖の冊封を2年2カ月も引き延ばし、後金と戦う兵力や物資を出せと迫った。問題は、1622年から「後金と戦う」として平安道と接する間島に布陣していた明の毛文竜だった。平安道観察使の尹暄(ユン・フォン)は「国の食糧の半分が毛文竜の手に渡っている」と嘆くほどだった。1626年にヌルハチが世を去った後、汗(ハーン)になったホンタイジは権力基盤を固め、明攻撃に先立って、後方の危険を取り除くため翌年に朝鮮を攻撃した(丁卯胡乱)。「オランカイ(後金・新を建国した女真族の勢力)」を兄と敬う条件で和平を結んだ仁祖は恥じ入り、苦しんだ。