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皇室全般画像掲示板
本文なし
華子さまー!
この「華ちゃん」のときの華子様のおみあしは普通。今はアキレス腱がくっきり浮いて大変なアスリート足。ハンサムウーマンにおなり遊ばしたのね。
女優みたいなお可愛らしさ。品もこの上ない。昭和の天皇家は幸せですね。嫁がお2人とも抜きん出た美貌と品格。
華子さまは昭和天皇の御前で「華子が(美智子の毒牙から)宮様をお守りいたします」と宣言してお嫁にいらしたんですよ。美智子は(当時の上流階級間において)凶悪な悪魔という共通認識があったのです。
>美智子は(当時の上流階級間において)凶悪な悪魔という共通認識があったのです。やんごとなきお方たちの認識は正しかった。http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1265190640845.jpg↑この方に決まっていたのに、どんな肉弾戦を美智子さんは挑まれたのかしら?
http://ginnews.whoselab.com/090520/tsuido.htm追悼録(348) 梨本宮伊都子さんのことなど・・・‐抜粋‐ 梨本宮伊都子さんが正田美智子さまのご婚約を不愉快な感じを持たれているのを初めて知った。まことに迂闊な話である。伊都子さんは前々号の「追悼録」で取り上げた李方子さんの母である。正田美智子さんが皇太子とのご婚約が発表された昭和33年11月27日の日記にその心境を書いている。「午前10時半、皇太子殿下の妃となる正田美智子の発表。それから一日中、大さわぎ。テレビにラジオに騒ぎ。朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝からご婚約発表でうめつくし、憤慨したり、情けなく思ったり、色々。日本はもうだめだと考えた」 和歌も残している。 「あまりにも かけはなれたる はなしなり 吾日の本も 光おちけり」 「ことほぎのぶる こともなし あまりの事に言の葉もなし」
集合住宅の一部屋でひっそりと亡くなった創価学会の方ですね。久邇家次男の未亡人になって離縁されたんでしたっけ?
違います。基礎から勉強し直してきてください。
伊都子さんは歌舞伎ファンだったんですね。「歌舞伎好きとして知られ、太平洋戦争開戦間近の1941年(昭和16年)には、近衛文麿に歌舞伎観賞の便宜を図ってもらおうとしたが、ラジオで我慢するように言われ、「一般の人間は生のよいものをたべてもさしつかえないが、私たちは罐詰でまづしんぼうせよ、といふのと同じではないか。」と憤慨した。この時は、松坂屋で買い物中に贔屓の市村羽左衛門と偶然出会い、人目に触れない部屋を手配してもらったので満足している。」
皇族としての生き様に尊敬の念を抱かせる、最後の雲上人。凛としてて矜持があって、威厳があって温かい。エリザベス女王のような佇まいとオーラを持ち続けられた、日本で最後の貴人。
>皇族としての生き様に尊敬の念を抱かせる、最後の雲上人。妃は皇族華族の娘で学習院を卒業しているとの決まり事ではおそらく最後の妃でしょう。
李方子>皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補のひとり[1]として名前が取り沙汰されるが、>学習院女子中等科在学中に李王世子である李垠と婚約した。またスライドねつ造かよw李方子は日韓併合のための政略結婚として韓国に嫁がされた人だけど
>「あまりにも かけはなれたる はなしなり 吾日の本も 光おちけり」>「ことほぎのぶる こともなし あまりの事に言の葉もなし」www 雅子の和歌より酷いwwwww
>李方子は日韓併合のための政略結婚として韓国に嫁がされた人だけど方子さんも裕仁親王のお妃候補であったのは事実。だけど貞明皇后が良子女王(香淳皇后)に決められたの。これは憶測だけど貞明皇后は梨本宮伊都子さんがお嫌いだったみたい。だから伊都子さんの娘を自分ちの嫁にはしたくなかったもよう。なぜならば梨本宮伊都子は大正天皇のお妃の有力候補であったが大正天皇のお身体が弱いために配偶者は身体の丈夫な人をとの昭憲皇太后のお考えから美人だった伊都子がはずされ不細工だが身体の丈夫な貞明皇后が選ばれたという経過がある。