‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡問 題‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
【問い】もしあなたがネットの自称学会員から、以下①②③の論理をもって難癖言いがかりをふっかけられたら何を考えるべきでしょうか?
①日本国憲法は「言論の自由」を保障しているから何を言ってもいい。
②誰にでも「反論権」があるのだから、自由に反論すればいい。
③「自由な議論」に応じない人間は卑怯な人間であり、他人の「基本的人権(言論の自由)」を踏みにじる自分勝手な人間である。
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本日は長文になります。
一気呵成に論を立てるので読み終えるだけでもお疲れになろうかと思います。
先に結論を述べます。創価系ブロガーの皆様はこの二つだけ覚えて下されば結構です。
‡言論の自由とは本来、強大な国家権力に個人が立ち向かうために保障されている権利であり、個人が相手の議論に応じなければならないという義務を負わされたものではない。
‡あなたには相手の議論を拒否し、黙殺し、放置する権利がある。その行為を批判すること自体が、他人の基本的人権を侵害している。
権利には効力のおよぶ「範囲」というものがあります。
わかりやすくたとえれば、Aさんがお金を支払って買ったピザまんをどのような方法で召し上がろうともそれは一切自由です。しかし、Aさんが自分のピザまんだけでは飽きたらず、Bさんのもっているピザまんまで欲しいと思って奪い去ればそれは「窃盗罪」です。
言論の自由もこれと同じです。
自分が何を思い、発言し、表現しようと一切が自由です。しかしそれはあくまで自分の権利の及ぶ範囲内のことです。「自由な議論」だから議論をふっかけられた相手は必ず応じなければならないという義務など全くないのです。そのような誤った思い込みこそ「強要罪」に問われる犯罪行為です。
日本の一億国民すべてが議論好きなわけなど無いでしょう。
世の中には自分の意見を述べるのが苦手で、和気藹々としたやりとりは平気だけど、見ず知らずの相手に「信心のことをどう思っているのか!!!」と居丈高な議論をふっかけられて泣きだしてしまう人もいるでしょう。
そういう方の心の平穏を害してはいけない。嫌がる相手の気持ちも確認せず、議論に応じることを強要してはいけない。
他人と議論を交わすことは良いことだから、言論の自由だから、お前は俺の質問に答えろというのは、「週刊新潮」などのイエロージャーナリズムが「報道の自由」を盾に犯罪被害者の私生活を面白おかしく暴き立てるのと何ら変わりがない。
人間としてあまりにも最低な卑劣漢です。
ネットの自称学会員には法律学の素養のない人があまりにも多い。無知ゆえに他人の基本的人権を平気で踏みにじっている。
そもそも自称学会員には、「法」とは何なのか概念すら理解できていない。良い機会だから「法」とは何かについて論じましょう。
私たち学会員にとって、法とは主に二つを連想するのではないかと思います。
「法(妙法という宇宙普遍の真理)」と「法(国や社会の運営ルール)」の二つです。前者は仏法と呼ばれ、後者は王法と呼ばれる。
自称学会員は「信仰の確信」の名の下に、仏法的に正しければ、王法を無視したっていいと思っている。たとえ思っていなかったとしても、行動がともなわず結果として王法を踏みにじる形になっている。
その端的な証左が、創価学会本部の許可を得ない放埒気ままな言論であり、「自由な議論」の名の下に繰り広げられる難癖いいがかりの「糾弾記事」やHN晒し上げによる集団リンチです。
およそ民主主義国家に生きる人間は、すべからく「法の支配」に服さなければならない。
そもそも日蓮大聖人ご自身が、今風にいえば「良識ある善良な市民」であられた。
大聖人は撰時抄においてこのようなことを仰せです。
「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」
信仰者として精神の自由は奪われない。仏法は王法に隷属するものではないとの信仰のご確信と拝します。
余談ですが、この御金言は、「国連教育科学文化機関(ユネスコ)」の憲章にも収められています。
一方で大聖人は、種種御振舞御書において、「今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、」とも仰せです。
信仰者として精神の自由は奪われないけれども、それはそのまま王法を無視して勝手気ままで自由放埒な社会生活を営んでいいということにはならない。
自分は良識ある市民の名に恥じない生活を営んできたとのお言葉と拝します。
何より、大聖人ご自身が大変に法律学の造詣の深い方でした。
大聖人門下の一人で、後に退転してしまった「名越の尼」は、大聖人に領地紛争関係の裁判の弁護をしてもらって勝訴しています。
これはすなわち大聖人が当時の「民事訴訟法」に精通していたことを意味しています。五濁悪世の末法において、門下を守るためには、王法にも精通する必要があったのかもしれません。
ともあれ、古今の典籍に精通された大聖人は王法にも深い造詣をもち、王法の定めに反しない良識ある市民生活を過ごされたことだけは確かです。
「大聖人直結」を口にし、その末弟を名乗るなら、まず王法(日本国憲法をはじめとした法令法規全般)に対する真摯な敬意こそ払うべきでしょう。
法の無い世界は真っ暗闇です。
ちょうど自称学会員が跳梁跋扈するネットの無法地帯とそっくりな世界になります。
すなわち、暴力的で声が大きく、徒党を組み、弱い者をいじめて見下し、自らに逆らうものを見せしめにして他者への恐怖を植え付ける人間が幅を利かせる人面獣心の畜生世界です。
ちょっとここで一息。
長文をご覧になってお疲れになられたでしょう。
頭の体操代わりにクイズを一つ提示させていただきます。
‡あなたが電車の乗務員(運転手)席に勝手に立ち入った場合、罰せられます。あなたはたちまち犯罪者の前科者です。
さて、なぜ乗務員室に勝手に立ち入ると処罰されるのでしょう?
しかも前科者にされてしまうのです。
立ち入りが道徳や倫理に反するからでしょうか?
あるいは人の道に反する背徳行為だからでしょうか?
しかし、ムハンマドもキリストも釈尊も日蓮大聖人も、「乗務員室に立ち入ってはならない」という教えは残していませんね?
実際、戦国時代の足軽さんや日本一の出世男「太閤殿下」が乗務員室に立ち入って処罰されたという話を私は寡聞にして知りません。
にもかかわらず、あなたが乗務員室へ立ち入れば、犯罪者として処罰されるのです。
そう、この世の中の「犯罪」や「処罰」は、法が存在することから生じるものなんです。乗務員室に立ち入って処罰されるのは、「鉄道営業法第33条」という法が存在するからです。
ドイツの刑法学者フォイエルバッハは、「罪刑法定主義」という理論を確立し、「法律なければ犯罪なし、法律なければ刑罰なし」との法諺(法律の格言)を残しました。
他人を犯罪者として裁くには、事前に法律で明確に定めて置く必要があるということです。
人倫に反しまくっている「浮気」や「不倫」が犯罪でないのは、法律が犯罪だと定めていないためです。
(ちなみに戦前の日本では女性が浮気すると「姦通罪」という罪で裁かれていました。男女平等の精神に反するので戦後廃止されました)
つまり娑婆世界における、いわゆる「犯罪」というものは、人間が作り出した非常にあいまいなものなのです。しかしあいまいだからこそ、運用は厳格にしなければならない。明確な「判断基準」をつくり、判断基準の「運用者」を誰にでも分かる形で、誰からの納得も得られる形で選び出さなければならない。
私が口を酸っぱくして、他人を批判するなら創価学会本部の許可を得よと言うのはこのためです。
自称学会員の勝手気ままを黙認すれば、フォイエルバッハが警鐘を鳴らすいびつな歪みが次々と生じてくる。恐怖政治そのものの暗黒世界が広がってしまう。
具体例を挙げれば「慣習刑法の禁止」です。一部の人々の感覚や地元の風習で人を裁いてはならないということです。
正に昨今、ネットを荒らして回る自称学会員はた京阪氏のためにあるような言葉でしょう。
言論の自由だ! 反論権がある! すべて彼の思い込みです!!!
違うというなら、発言の一つ一つに論拠となる法令法規の条文を示し、条文解釈の元となった学術書や文献の一々を明らかにすべきでしょう。
でもはた京阪氏にはできない。であれば、彼の行為はどこまでいっても思い込みに過ぎないという事です。
何より恐ろしいのは、はた京阪氏個人の思い込みによって難癖いいがかりをつけられ、反論すれば「自由な議論」の名の下にHNを彼のブログに晒し上げられ、挙句彼のお取り巻きのリンチ(私刑)にかけられることでしょう。
正に中世暗黒時代の「魔女狩り裁判」そのものです。
つまるところ罪刑法定主義で問われているのは、実は人間社会の「安心」です。だってそうでしょう?自分の行為がいつ何時不法行為だと批判されるかわからないなら、人々は怖くて外すら出歩けなくなるのですから。
法律にこれこれが犯罪である。違反したらこれこれの刑罰を課される。だから違反をしてはならないと明文化されているから、人々は安心して暮らすことができる。
が、しかし、はた京阪氏の胸の内に処罰基準があったらどうなるか?
彼が気に食わない人間は、たちまち「破仏法で創価の金看板を汚す悪党」だということにされてしまう。
人間の心は移ろいやすい。あいまいで移ろいやすいものに法の普遍性はないのです。
これぞ正に「依法不依人」でしょう。
創価学会本部の許可なき言論はすべて我見です。
我見を持つことが問題なのではなく、我見を判断基準に他人を裁くことが問題なのです。
もし彼らに難癖いいがかりをつけられたら、落ち着いて「あなたと議論をするつもりはない。仏法上も王法上もあなたに議論を強要される筋合いもない。犯罪まがいの不法行為はやめて下さい」と言えばよいのです。