2013年12月15日
批判屋に告ぐ
批判する者は、正法正義の日蓮正宗(=現在では創価学会にあたる)に対する異流であり、反逆者であるからである。
ともあれ、御本仏日蓮大聖人の御境地からみれば、これらはみな、凡夫の小ざかしい浅薄な知恵にすぎず、大聖人はおしかりになるより、むしろ「不便とも申すばかりなり」と、その臆病、小心、不明を哀れんでおられるのである。
巳上は、昭和56年3月10日
ハワイでの第二回御書研鑽会での、先生のスピーチである。
以前、記事に載せたものだ、2013年、9月18日付けのものだ。
青色の文字は、師匠である先生の言葉だ。
師の言葉を理解し、師の言のとおりに行動できないものは、弟子ではない。
そこに師弟も存在しない。
いかなる理由があろうが、それが信心の世界だ。
いい加減にしろ。いい迷惑だ。
誰とはいわないが、過去のことをいつまでもグダグダと名指しで書き連ねて、
他人に難癖をつけて何様になったつもりだ?
ほんの少し前までは、あなたの味方だという言動をしていたかと思えば、
自分の都合で、いきなり私を悪者にして、酷評してきたりと・・・。
(証拠の私信もありますが、それを公表するほど私は嫌味な人間じゃありませんけどね、私がわかってればそれでいいからね。でもそういう人がネット世界でのさばっていることだけは、伝えておきますよ)
正直、性根が腐り果てている。
二枚舌、裏表ありあり。
そんな姿を見せられたら、ふつうに人間不信になりますわ(笑)
自分勝手に推察・推量したもので、他者を評価し、誤認識する愚か者ども、
あなたたちこそブログをやめるべきだ。
そういうのを外道というんだ。
内道とは、自分自身に生き、自分のやっていることを語ることをいうんだ。
それすらわからない愚か者どもめ。
あなたたちは自分の「今」を語っているのか?
何一つ語っていやしないではないか。
そして、今の自分を語っている人に、やたらと難癖をつけている・・・。
何様のつもりだ? どんだけ上から目線なのか、わかってるのか?
なにが、己義を構えただ!
言語化された言論など、すべて主観でしかないのだから、
あらゆる人のあらゆる言論が己義でしかないことすら、理解できないのか!
共有できるもの、共通認識できるものは、
言葉にできない「心で観じたものだけ」ということも、わからないのだろう。
「観心しなければ云々」と御書にあることを知れ!
これまで、カントについて色々書いてきたが、
そのカントのいう「共通認識」というものが、どういうものかもわからないのだろうね。
お可哀そうに・・・。
この記事でも読んで、勉強するといい。
釈尊曰く。
言葉を語れば語るほど、真実から離れていく。
だから、真実を語るには、なるべく言葉短に語れ(趣旨)――という通りだ。
批判屋は、強く主張すればするほど、自己矛盾に陥る言語の持つ特性すら知らないのだろう。
そう、無知。それに尽きる。
〜であらねばならない。
なにそれ? それってあなたの中の主観的な理想でしょ?
その個人的な理想を勝手に人に押しつけるなってことですよ。
人それぞれ、理想が違うんだからさ。
それを「桜梅桃李」というんじゃないんですか?
だから、評価や批評や批判に意味などないと言ってきた。
仏法とは、「ありのまま」に見ることである。
であるならば、すべての出来事は――
「そこに生命(いのち)がある・・・なんて尊いのだろう」――
全てのものごとを、そう見るのが仏法者である。
桜も生命、梅も同じ生命である。そこに差異はあっても尊さは何一つ変わらない。
いな、比べようすらないということ。
それが、「ありのままに見る」ということじゃないんですか?
であれば、批判など出てくるはずがないのだ。
だって、謙虚にならざるを得ないからね。
そもそもそこには、評価も分析も存在しないのだからね。
批判屋は、まずは、それを知るべきだ。
しっかり自覚すべきですね。
つまり――
言論で正邪や真実など、語れはしないのだ。
真実を語るのは、「人の振るまい」、ただそれだけだ。
「行動」の中にだけ真実があるんだよ。
それがわからない愚か者が多すぎる。
言論といっても、その言論をしている人の行いに真実があり、その人柄が現れるのだ。
賢い人は、その言葉や言論を見ずに、その行い――つまりは「振舞い」を見て、
その人がいかなる人物かを心で見るものだ。
それができない人は、ただ言葉面を見て、人の揚げ足を取っているだけだ。
まだわからないのか?
先生の仰る――
「不便とも申すばかりなり」と、その臆病、小心、不明がお可哀そうでさえある・・・。
そう、ほんと、可哀そうな人たちです。
なにを言ったところで、「言葉にできない」ですよ(笑)
だから、ラララ〜とか歌うしかないんですよ。
フェイクなんてのも、そういう心のトキメキを言葉じゃなくて表現したものでしょ。
じつは、そこに一番味わいがあるのが、宇多田あたりの歌い方なんだけどねぇ。
一回、聞いてみたらどうですか?(笑)
それはともかく、沢山のコメントありがとうございます。
本来なら、各コメントに返信するスタイルが、わたし流ですが、
とてもそんな気分にはなりません。
ご理解、ご容赦ください。
7月から、ずっと批判され続けてますからね(苦笑)
私が何か書けば、まあ、色々と喜ぶ人がいますのでね・・・。
何を書いても、難癖つけられるのですよ・・・。
でも、言うべきことは言いますよ。
あれ? この記事って自分のこと?
そう思われたなら、是非とも、ご自分を見つめなおして頂きたいものですね。
ともあれ、御本仏日蓮大聖人の御境地からみれば、これらはみな、凡夫の小ざかしい浅薄な知恵にすぎず、大聖人はおしかりになるより、むしろ「不便とも申すばかりなり」と、その臆病、小心、不明を哀れんでおられるのである。
巳上は、昭和56年3月10日
ハワイでの第二回御書研鑽会での、先生のスピーチである。
以前、記事に載せたものだ、2013年、9月18日付けのものだ。
青色の文字は、師匠である先生の言葉だ。
師の言葉を理解し、師の言のとおりに行動できないものは、弟子ではない。
そこに師弟も存在しない。
いかなる理由があろうが、それが信心の世界だ。
いい加減にしろ。いい迷惑だ。
誰とはいわないが、過去のことをいつまでもグダグダと名指しで書き連ねて、
他人に難癖をつけて何様になったつもりだ?
ほんの少し前までは、あなたの味方だという言動をしていたかと思えば、
自分の都合で、いきなり私を悪者にして、酷評してきたりと・・・。
(証拠の私信もありますが、それを公表するほど私は嫌味な人間じゃありませんけどね、私がわかってればそれでいいからね。でもそういう人がネット世界でのさばっていることだけは、伝えておきますよ)
正直、性根が腐り果てている。
二枚舌、裏表ありあり。
そんな姿を見せられたら、ふつうに人間不信になりますわ(笑)
自分勝手に推察・推量したもので、他者を評価し、誤認識する愚か者ども、
あなたたちこそブログをやめるべきだ。
そういうのを外道というんだ。
内道とは、自分自身に生き、自分のやっていることを語ることをいうんだ。
それすらわからない愚か者どもめ。
あなたたちは自分の「今」を語っているのか?
何一つ語っていやしないではないか。
そして、今の自分を語っている人に、やたらと難癖をつけている・・・。
何様のつもりだ? どんだけ上から目線なのか、わかってるのか?
なにが、己義を構えただ!
言語化された言論など、すべて主観でしかないのだから、
あらゆる人のあらゆる言論が己義でしかないことすら、理解できないのか!
共有できるもの、共通認識できるものは、
言葉にできない「心で観じたものだけ」ということも、わからないのだろう。
「観心しなければ云々」と御書にあることを知れ!
これまで、カントについて色々書いてきたが、
そのカントのいう「共通認識」というものが、どういうものかもわからないのだろうね。
お可哀そうに・・・。
この記事でも読んで、勉強するといい。
釈尊曰く。
言葉を語れば語るほど、真実から離れていく。
だから、真実を語るには、なるべく言葉短に語れ(趣旨)――という通りだ。
批判屋は、強く主張すればするほど、自己矛盾に陥る言語の持つ特性すら知らないのだろう。
そう、無知。それに尽きる。
〜であらねばならない。
なにそれ? それってあなたの中の主観的な理想でしょ?
その個人的な理想を勝手に人に押しつけるなってことですよ。
人それぞれ、理想が違うんだからさ。
それを「桜梅桃李」というんじゃないんですか?
だから、評価や批評や批判に意味などないと言ってきた。
仏法とは、「ありのまま」に見ることである。
であるならば、すべての出来事は――
「そこに生命(いのち)がある・・・なんて尊いのだろう」――
全てのものごとを、そう見るのが仏法者である。
桜も生命、梅も同じ生命である。そこに差異はあっても尊さは何一つ変わらない。
いな、比べようすらないということ。
それが、「ありのままに見る」ということじゃないんですか?
であれば、批判など出てくるはずがないのだ。
だって、謙虚にならざるを得ないからね。
そもそもそこには、評価も分析も存在しないのだからね。
批判屋は、まずは、それを知るべきだ。
しっかり自覚すべきですね。
つまり――
言論で正邪や真実など、語れはしないのだ。
真実を語るのは、「人の振るまい」、ただそれだけだ。
「行動」の中にだけ真実があるんだよ。
それがわからない愚か者が多すぎる。
言論といっても、その言論をしている人の行いに真実があり、その人柄が現れるのだ。
賢い人は、その言葉や言論を見ずに、その行い――つまりは「振舞い」を見て、
その人がいかなる人物かを心で見るものだ。
それができない人は、ただ言葉面を見て、人の揚げ足を取っているだけだ。
まだわからないのか?
先生の仰る――
「不便とも申すばかりなり」と、その臆病、小心、不明がお可哀そうでさえある・・・。
そう、ほんと、可哀そうな人たちです。
なにを言ったところで、「言葉にできない」ですよ(笑)
だから、ラララ〜とか歌うしかないんですよ。
フェイクなんてのも、そういう心のトキメキを言葉じゃなくて表現したものでしょ。
じつは、そこに一番味わいがあるのが、宇多田あたりの歌い方なんだけどねぇ。
一回、聞いてみたらどうですか?(笑)
それはともかく、沢山のコメントありがとうございます。
本来なら、各コメントに返信するスタイルが、わたし流ですが、
とてもそんな気分にはなりません。
ご理解、ご容赦ください。
7月から、ずっと批判され続けてますからね(苦笑)
私が何か書けば、まあ、色々と喜ぶ人がいますのでね・・・。
何を書いても、難癖つけられるのですよ・・・。
でも、言うべきことは言いますよ。
あれ? この記事って自分のこと?
そう思われたなら、是非とも、ご自分を見つめなおして頂きたいものですね。