諸般の事情によりブログをやめざるを得なくなった。んで、なにも書かなくなった。そんで気づいたんだけども、俺、ひょっとして終わってたんじゃないだろうか。人間が終わるときには、どんなふうにして終わるんだろうってのは前から興味があるところだったんだけど、なるほど、こういうふうに終わるんだ、と納得が行った。別に終わったからといって、意識が急激に変化するわけでもない。物事の認識が(それまでの自分と比較して)歪むわけでもない。目の前にあるものは、ただあるべきものとしてふつうに見えてる。じゃあどこが変わったのかというと、どうでもよくなった。自分を取り巻くあらゆるものが他人ごとに見えるようになって、自分の利害と関係ない限り、そこに自分のどういう意志も及ぼす必然性を感じられなくなった。つまり、自分のこと以外はどうだっていい、ということだ。
じゃあなぜ以前は書けていたのかというと、たまたま自分の手元に大声をあげられる手段があったからっていうだけのことだと思う。その証拠に、今回、かなり急なかたちで、しかも自分の意志と関係なくやめざるを得なくなったのに、次の瞬間には「まーしゃあないか」くらいのことしか思ってなかった。手段があったから声をあげてた。そんだけなんだと思う。こういうのを本末顛倒という。
最近は老害っていう言葉がネットではすっかり市民権を得た感じがあるんだけど、終わった自覚もなしに、そこに手段があるから声をあげているような状態に陥ったときに、その人は老害と呼ばれることになるんだと思う。声をあげるというのは、やむにやまれぬ内的必然性によってすることだ。かつての俺がそうだったように。もちろん、そうでなくても声をあげる必然性を持っている人はいるが、俺はそうではなかった。聞いてくれる人がいるから声を出す、というのは俺にとっては本末顛倒だった。正しくなかった。
正直なところ、いまからでも影響力を取り戻す手段なんていくらでも持ってる。そうしたいという色気がないと断言したらそりゃ嘘になる。でも、すべきじゃない。それは正しくない。
ひとまず、俺は終わった。外的要因がなければそのことに気づけたかどうか。終わりの兆候はあんがいわかりづらかった。書いてると惰性になるし、人において惰性の力はあんがい強い。生活習慣みたいなもんで。自分の変化ってのものは、いつも「かならず」自分の予想していない角度からやってくるってのは俺の持論だけど、今回もやっぱりそうだった。
そんでまあ、俺の培った技術は、このまま腐って消えていく。そのことに対する愛惜の念はあるんだけど、それだって別にどうでもいいという感じが強いんだよね。生活に直接に役に立つものじゃないから。この先、別の内的必然性が俺を突き動かす可能性はゼロじゃないけど、どうなんだろうね、そのときには文章を書くことがしんどくなってる気がするんだわ。
なんだかんだで、書くことと俺の蜜月は終わった。ここが終点なのかもしれないし、あるいはあんがいここが本当の始まりなのかもしれない。そのへんはわかんないんだけど。いまの俺にとって、自分を表現する手段は文章だけじゃない。その場所に到達してようやく「ふつう」ということなので、それでも書く理由が残されてるかどうかですね。
この記事ローソンの匂いがするぞ
“諸般の事情によりブログをやめざるを得なくなった。” 読んだ。時々貴方の文章が懐かしくなります。kindleで電子書籍を買ったわけだからいつでも読めるわけですけれど、ネットに貴...
残念だが、この記事は店長が書いてはいないと思う。 理由は複数あるのだが、ここでは2つだけ示しておく。 それは文中に登場する「正しくない」という言葉だ。 店長は過去何度も「...