さて前エントリで触れなかったのが、議会多数派による意思決定がいかなる個人も基本的人権を奪われてはならないとする(1)リベラリズムに反していた場合にはどうするか、という問題である。まず確認すべきなのは、この点に関する最終的な判断は憲法98条1項および81条によって裁判所に委ねられており、ということは実際に損害が発生したことを前提に提起される訴訟においてしか確定されないということである。だがもちろんそれは立法が実現したあとの・事後的段階であり、そこにおける判断を踏まえて投票の場面における意思決定を行なうことは端的に不可能である。我々は、事後に裁判所がどのように判断するかを予期し、その予期に対して賭けざるを得ないということになるだろう。
だがもちろん我々としてはできるだけ分のいい賭けを挑みたいだろう。そこで私としては、内閣法制局が行なう法令審査を信頼することが一つの相当安全な手段になると考えており、その立場から以下のようにtweetしたということになる。
特定秘密保護法案は内閣提出法案である(=法制局審査を通っている)という程度の違いにも気付かないレベル、ということで。
RT @hatenaidcall @takehiroohya id:hokke-ookamiさんから言及がありました http://t.co/mB2BvQq4kC
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2013, 11月 28
なんとなれば法制局審査を経た上で年間100件水準で提出される内閣提出法案のほとんどには憲法適合性に疑義が示されておらず、2002年の郵便法違憲判決に至るまで法令違憲の判断を裁判所から受けたことがなく、それを含めても3件しか違憲判決が存在しないからである。要するに法制局審査に合格した法案はこれまでほぼ例外なく合憲であり、憲法の保障する基本的人権を侵害するようなものではない。これに対し議員提出法案についてはこのような信頼性を保障する制度がなく、現に危険性を指摘されている事例も多くある。前者と後者を区別し、特に後者が(1)を満たさない可能性について警戒すべきだという私の立場は、このような過去の事実に依拠している。
これに対し法華狼氏は、「「法制局審査を通っている」が「最低限基準」を満たす証拠というのは詭弁。/たとえ「官僚主導の方が正しい傾向がある」という命題が真であろうとも、「官僚主導であれば正しい」とはならない。」と批判しておられる。第一に立法のイニシアティブが政治家にあるか官僚にあるかという問題と制度としての法制局審査をパスしているかを混同している点でこの批判には大きな欠陥があるのだが(政治主導の政策だが内閣提出法案として実体化するという事例もあれば、官僚主導だが法制局審査を回避するために議員立法法案としてげふんげふん)、その点を除いても過去における圧倒的な確率の差異を無視するものだということになるだろう。しかもすでに述べた通り、事前に憲法適合性に問題がないことを確定させよという要求は不可能事なのである。確率的差異を無視して不可能を要求するという、詭弁の手法にまったく忠実な主張だということになろうか。
もちろん裁判所におけるこれまでの判断を「正しいもの」として受け入れてよいか、という反論の仕方はある。法令に対する違憲判断の数が日米の最高裁判所で大きく違うということも、つとに指摘されている(念のために言うとここから日本の最高裁が「司法消極主義」に立っているとする批判の一部はアメリカ連邦最高裁の違憲判決の多くが州法に対するものであることを無視しているし、多くは内閣法制局審査のような事前コントロールの有無という違いがあることを踏まえていない)。だがそこで「最高裁判所が合憲と判示した法令においても、少数派の人権が侵害されている事例がある」と主張するとき、その主張自体は何によって正当化されているのだろうか。たとえば研究者がそのように主張し、いずれ社会に受け入れられることを期待するのであればよい。しかし議会における意思決定に優越してそのような判断を採用せよというなら、それは畢竟「オレサマの信念に多数派は従え」と主張しているに他ならない。ここでもまた、法華狼氏は反リベラリズム・反デモクラシーに陥っているのである。
なお法華狼氏は私が「少数派に意見表明の機会を与えたら淡々と採決すればいい」と書いたことに関して「意見表明とデモはどのように違うのだろうか」と疑問を呈されているが、前者が議会内の手続き(として少数派議員にも発言の機会を与えなくてはならない)に関することであり、当然ながら議会外の対応であるデモと完全に異なることを見落としたものであり失当。
また、「デモを許容できるかどうか政府権力が判断すること自体に、さまざまな危険性がある。/ついでにデモ一般を在特会の街宣行為と同列に論じているのも、不見識だろう。」と書かれているが、すでに書いた通り在特会の街宣行為がデモと自称しているのは事実であり、自称デモの中から許容可能なものとそうでないものを切り分けるなら外形的な基準(デモの様態とか音量とか時間場所とか)によるしかないだろうし、その判断も第一義的には警察など、最終的には裁判所という国家権力によるしかないように思われる。しかし法華狼氏はこのような見解を批判されるように思われるところ、在特会のものを含めて自称デモであれば何でも許容されるべきで国家権力はそれらを放置しなくてはならないという結論はおそらく採用されないので、結局は我々のものと在特会のものはとにかく違うのであり、国家権力は前者には干渉せず後者は取り締まるという差別的な取り扱いをすべきであり、その理由は我々が我々だからだと主張していることになるであろう。はしない本音と言うべきだろうが、どちらの見解がデモクラシーにとってより危険かは、もはや論ずるまでもないように思われる。
あ~ついでに言っておくと私ははてなのシステムをまともに利用したことがなく、それがどう動くものなのかはよくわかっていない。また要するに多忙なので職業上読む義務のあるものと自分で読む価値があると思ったもの以外は読まないように心がけており、今回はてなダイアリーで法華狼氏が書いた内容に気付いたのはtwitterで(はてなIDコール(@hatenaidcall)からの)メンションが飛んできたからである。というわけで、繰り返して言うとどこに違いがあるのかしらないがメンションの飛んでこなかった法華狼氏・11月28日の第2の記事は(12月2日に次のメンションが飛んできて第3の記事に気付くまで)読んでいなかった。そういうわけで申し訳ないのだが私の反応とか読むことを期待されるのであれば何らかのpush通知をお願いするところである。ただその、なんというか法華狼氏の議論の底というのは割れていると正直思っており、今後何かを書かれたとしても読む価値があるとは思わないだろうなあとも感じているところなのだが。
法制局も論理(非政治)の世界にあるとも言い切れなくなってきていますけどね、最近は。