㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。
徹底検証 親鸞聖人の教え

【第17回】若不生者は、死後か平生か

前回までで、田中と名乗る人の問題提起で、弥陀の本願文の「信楽」について、釈迦や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で明らかにしてきた。

だが、最初に記したように、そもそも田中氏との論戦の発端は、弥陀の「本願文」に誓われている「若不生者不取正覚」(若し、生まれずは正覚を取らぬ)の八文字の「生」が、「死んで極楽に生まれる」ことか、「いま信楽に生まれる」ことかの違いであった。

田中氏は始終「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだと言い張り、チューリップ企画は「信楽に生まれる」ことだとその主張は一貫している。どちらが弥陀の仏意か、これからが本論検証の本番なのである。

なにしろ、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)と親鸞聖人が、釈迦の出世の本懐は弥陀の本願唯一を説くためであったと断言されている。その本願文の「若不生者」のことである。

中でも「若し、生まれずは、私は正覚を取らぬ」と弥陀が命(正覚)を懸けて誓われている、他に見られぬ「若不生者不取正覚」の八文字についてのことだ。
親鸞聖人が特に「若不生者のちかい」(和讃)とまで仰っている本願のことである。決してウヤムヤにしておけることではない。

果たして「若不生者」の「生」は、田中氏の言うように「死んで極楽へ生まれる」ことなのか、チューリップ企画の主張するように「平生に信楽に生まれる」ことなのか、先ず釈尊のご教導を聞いてみよう。

阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」を、釈迦は『成就文』で、どう解説されているかというと、『本願文』の「若不生者不取正覚」の八文字を、『成就文』の中では「即得往生、住不退転」の八文字で解明されている。

「即得往生、住不退転」とは、「即ち往生をさせ、不退転の身にする」と言うことだ。
即ち、「南無阿弥陀仏の名号を頂いた、聞即信の一念に、往生をさせ、不退転の身にする」というのが、弥陀の「若不生者不取正覚」のお誓いであると、『成就文』に鮮明に説かれているのである。

阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われているのは、死んでから「極楽に生まれさせる」ということではなく、「平生、信心歓喜する一念に往生させ、正定聚不退転の身に必ず生まれさせる。若し、生まれさせることが出来なければ、私は正覚を取らない」という弥陀のお約束であると、釈迦は明示なされているのだ。

もっとわかり易く言えば、
弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、「死んで極楽へ生まれずは」ではなく、「いま往生させ、弥勒菩薩と同等の正定聚不退転の身に、生まれずは」の、不体失往生させることに正覚を懸けていられる弥陀の本願を『成就文』に鮮明になされているのである。

親鸞聖人は、釈迦のこの「即得往生、住不退転」の八文字の教えをもって、弥陀の「若不生者不取正覚」の誓いを、『愚禿抄』に次のように教述されている。

『本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くる也)
他力金剛心也と、応に知るべし。
便ち弥勒菩薩に同じ、自力金剛心也と、応に知るべし。「大経」には次如弥勒と言へり』

ここで親鸞聖人が、「若不生者のちかい」をどのように明らかにされているか。次回から詳説したいと思う。

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