日本最大の野生動物事件ー三毛別羆事件
三毛別羆(ヒグマ)事件、その1 大正4年みぞれが降り始めた11月のなかば過ぎ、池田宅へ夜明けとともに巨漢のヒグマが現れ、つるされたトウキビを食いあさった、馬が暴れだしたため熊はトン走。ただちに二人の鉄砲撃ちを頼んで待機させていると11月末夜8時、またもやヒグマが現れたので発砲する、急所ははずれたが、したたる血痕を確認した。これが事件の発端。このあたりは北海道の中でも最も開拓が遅れていた地域だったため、狸、狐、熊などの出没は日常茶飯事。それより河へ氷橋(すがばし)を架けて、収穫物をそりへ載せて町へ運ぶ大切な時期だった。したがって日中は家に居るのは老人、婦女、子供しか残っていない。12月9日午前10時半頃、太田家の軒先に吊るしてあったトウキビを食おうと巨漢のヒグマが近づく、勢い余って壁を破りぬっと顔を出した。昼飯の準備をしようとしていた女一人と子供一人が驚いて絶叫。それに逆上した熊は中へなだれ込んだ。子供は爪で叩かれ喉の肉がそぎ落とされ、右頭部に親指台の穴がぽっかり開くほど齧られて即死。女は燃えた薪を振り回し、あるいは投げつけ必死に抵抗しつつ隣の寝間へと逃げた。追う熊はそこで一撃のもと女を叩きのめした。飛散した血は周りの家具へべっとり張り付く。それでも女は逃げようと草囲いの壁を必死破って逃げようとするが熊の力にかなうわけが無く、森へずるずるとと引きずられていった。 翌12月10日未明、30人の捜索隊を結成して女の遺体を収容しに林内へ入った。150m進んだところで急に巨熊が飛び出した。驚いた一行のうち5人の鉄砲撃ちが一斉に引き金を引く。ところが3丁が不発。まともに玉が飛んだのは1丁のみ。熊は怒って反撃を開始。一行クモの子散らすように逃げ惑う。逃げ遅れた鉄砲撃ち2人、危うく熊の一撃を食らうすんでのところで1人が長柄の鎌を振り回す、一人は不発の鉄砲を構える。ところが意外なことに熊はヒョイと向きを変えて、逃げ去ったのだった。被害者マユの遺体はそこにあった、血だらけの雪の中に頭部の一部と足はひざから下だけしか残っていなかった。まさに昨夜から朝まで食い続けていたのであった。一行は遺体を回収して引き上げた。 同日夜、犠牲者2人の通夜になんと獲物を取り返しに熊が現れる。そして、もっとすざましい惨劇となるのである。 (当時の鉄砲は1発しか撃てない、球は溶かした鉛をペンチのような型に入れて冷やした後、薬莢に入れる、鉛との隙間から水分が浸入して火薬が湿って発火しないことがよくあったようだ。猟師は鉛部分へ蝋をたらしてこれを防いだ。開拓民も鉄砲を持っていたが、殆ど使うことが無く、家に放置していたという。) |
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その2―通夜に獲物奪還、ヒグマの執念― どうも熊がマユの遺体をとど松の根元へ埋め小枝と雪で隠していたところへ捜索隊と出食わしたらしい。それで背を向けて逃げたのだった。羆は獲物があるうちは立ち去らない習性があることを知っていた部落民は鉄砲や武器になる物を持って、被害宅太田家の通夜へ集まった。しかし殆どの人は恐ろしさのあまり姿を見せず親戚だけで通夜をしていた。酒が充分いきわたった夜8時半頃、大音響とともにぬっと立ちはだかった黒い塊、ランプは消え、遺骸がばらばらと床に散らばった。「熊だぁ」の叫びに闇の中で悲鳴をあげながら右往左往。男一人が外へ逃れ石油缶を叩きながら大声を発する。我に返った中の男一人が鉄砲をぶっ放すとヒグマは森へ逃げ出した。逃げ遅れた者達は狭い便所、小屋裏の梁にぶら下がっていた者いろいろ。中には自分の妻を踏みつけて梁にぶら下がったものだから夫婦喧嘩の原因となり、この珍事以降旦那は一生妻に頭が上がらなかったという。危うく救援隊に射殺されそうになったものもいる、腰を抜かした男が真っ暗な部屋で立ち上がろうと自分の座っていたむしろを持ち上げたものだから、熊と間違えられたのだ。いち早く救援隊が来たのは隣家(300mの距離)で50人の救援隊が食事をしていたからだ。騒ぎははっきりと聞こえていたので、「すわ、一大事」とばかり、一斉に飛び出しこの太田家をぐるりと取り囲んだ。しかしそのときは、すでにヒグマが去った後だった。ともかく全員無事に一同ほっとする。 しかし、ヒグマは逃げてはいなかった、900m離れた明景(ミヨケ)宅へ向かっていたのを、このとき誰も気が付いていない。 |
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その3―明景(ミヨケ)家の大惨事― 明景(ミヨケ)宅は川下へ900m離れ、比較的安全と思われていたので、女、子供の非難場所にしていた。川上で起こった太田家の異様な騒動を聞きつつも「薪を燃やせ!火が有ればどんなヒグマも逃げてしまう!」と誤った言い伝えを信じながら、総勢10人は全神経を尖らせ夜の明けるのを待ち焦がれていた。 一方、太田家通夜の参列者は救援隊に救われ、一行とともに川下へ向かった。その途中誰しもがヒグマの気配を感じ始めた。と、その矢先、進行方向から突然けたたましいしい叫びと悲鳴が沸き起こった。日本史上最大の野生動物による惨劇が明景(ミヨケ)宅で起こったのであった。実はこの夜、救援隊20人が明景宅に分宿、警護するはずだった。方々から集まった隊員たちは200m川上の中川家へ食事に出かけ、そして50人全員が太田家での騒ぎを聞きつけて飛び出しので、明景家が無防備となっていた。 妻ヤヨが隊員のために夜食のカボチャを囲炉裏の大釜へかけ、土間へ戻ったところ居間で物音と地響きがした。ヤヨは「誰が何したぁ」と叫ぶが返答はない。と同時に熊が窓を激しく打ち破り、囲炉裏を乗り越えた。この乱入で大鍋がひっくり返り焚き火は消えランプも消え、真っ暗闇になった。驚いて屋外へ逃げようとするヤヨに幼い次男勇次郎がとっさに片足へ絡みつく、背中に四男梅吉を背負っていたから重心を失いヨロヨロとつんのめった。熊はこれを逃がさじと背中の梅吉の足腰に噛み付き居間へ引き戻し、前足の間へ3人を抱え込む、勇次郎はちょうど胸元にすっぽりはまった状態になった。熊は馬乗りになって2,3度ヤヨの頭を齧る。これにたまげた男オドは必死に逃げようと戸口へ、これを見た熊は母子から手を離す、ヤヨは深手負いながら気丈にも勇次郎の手を引いて逃れた。出口を熊にふさがれたオドは上半身を物陰へ隠す。これに猛然と襲いかかり、右腰あたりの肉をえぐってしまう。オドの絶叫に手を離した熊は、恐怖のあまり泣き叫んでいた女、子供へ攻撃の矛先を向けた。怯える男児2名を一撃の元即死させ、1名へ瀕死の重症を負わせる。その時、野菜置き場でムシロをかぶって隠れていた臨月の妊婦タケがわが子の断末魔の叫びに思わず顔を上げてしまう。すでに女人の肉の味を知っていた熊はこれを逃すはずが無く、ゆっくりとタケへ近づいた。 「のど食って殺してくれ!」「腹を破らんでくれ(胎児を助けてくれ)」と何度も何度も熊に懇願し続ける。絶叫中にも熊は噛み付き、肉を引きちぎる、ついにタケは気を失った。巨熊は腹から胎児を引き出し、タケの上半身から食い始めた。熊はこれに飽き足らず、すでに撲殺した子供達までむさぼり食った。この夜早くに床についた長女ヒサノと少年力蔵は恐怖のあまり身動き出来なかったことが幸いして、奇跡的に助かったのであった。救援隊が踏み込んだとき、血だらけの胎児は動いていたと言う。タケの願いが熊に通じたのか不思議にも胎児を食わなかったのだ。 |
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その4―死亡者6名、気丈な母ヤヨ―
後に顔面と頭部に30針を縫うほどの重症を負ったヤヨは子供二人とともに中川家へたどり着く、その時はすでに救援隊は明景(ミヨケ)宅を包囲していた。残したわが子を思うあまり人の制止も聞かず、我が家へ引き返して半狂乱にわめきたて、中へ入ろうとする。それを静止した救援隊とて誰一人として踏み込む勇気のある者はいなかった。救いを求めて泣き叫ぶ女、子供達、次々に起こる陰惨なうめき声、そして細く長く続く断末魔の叫び。それが済んだら、骨を噛み砕く音、総てが人々の胸をえぐるようであった。隊員から「もうみんな助からねぇ、小屋に火をつけろ」とか「小屋に向かって一斉射撃をするべぇ」の声が上がったが、ヤヨはもしわが子が生きていたらと必死になって、それを止めていた。 熊の足音だけが聞こえるだけの静けさになると、鉄砲撃ち10名近くを入り口近くに待機させ、一人が空に2発放つ、予想どおり熊は猛然と出てきた。近くにいた1人に襲い掛かろうとする、発砲、いやまたしても不発に終わった。すると熊はするっと方向を変えて、軒下を歩き出す。一斉射撃をしたくともこれではもし生存者がいれば危険。そのうち夜陰に乗じて姿を消してしまった。白樺の皮(ガンビ)に火をつけて中へ入ると、血の海、隊員の中には吐くもの男泣きするもの。むごたらしさに外へ飛び出し2度と入ろうとはしなかった。唯一日露戦争経験者が重傷者を運び出したのであった。結局この夜は4人が殺され、3人が重症を負い、ヤヨの願いを天がかなえたのか、2人が無傷で救出された。が、胎児と後年後遺症で死亡した2人を加えると死亡者計6人になる。 |
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その5―達人山本兵吉と慰霊に熊退治100頭の大川春義翁― 事件の北に位置する手塩に名のある鉄砲撃ちがいた。年齢58歳、名前を山本兵吉と言った。いつも軍帽をかぶり日露戦争での戦利品の銃を自慢していた。大酒飲みのため酒代ほしさに鉄砲を質に入れていたが、9日の三毛別での事件を知り「俺がいれば!」と鉄砲を確保してすぐさま出発していた。 12月12日早朝、討伐隊が組織された。熊狩り本部は農家大川与三吉宅。動員数の最高時で延べ270人鉄砲60丁に及んだ。事態は急を要するために明景宅の遺体をおとりにする案が出され、遺体を居間中央に集め、天井裏には頑強な梁を補強し決死隊を組織した。中央に座したのは腕と度胸の山本兵吉、左右を1人ずつ固め梁の上に数人の布陣を引いた。2日間半、死臭漂う中食事も小便も小屋内で済ませ対峙していた。かの巨熊が何度か獲物を奪還しに来るが、この罠を見破りどうしても小屋内部へ入ってこない。 12月13日、獲物を奪還できなかった熊は、家族全員が避難して空き家になった10軒の家屋を次々と襲い、鰊漬、穀類、鶏など手当たり次第に食い荒らした。衣類を外まで引っ張り出し噛み裂く狼藉ぶり。特に婦女の枕には執拗なまでの攻撃を加えた。湯たんぽ代わりに暖めて使っていた或る婦人の石を噛み砕き、自分の牙を折ってしまうほど女性の匂いに執着していた。これには討伐隊の一同も「熊は最初に食べたものを生涯食す」との言い伝えを目の当たりにし、唖然としたのだった。兵吉老の話ではかって手塩で飯場の婦人を食い殺していたと言う。 この夜午後8時、本部大川宅に近い三毛別川本流近くの対岸でわずかに動く黒い影を警戒中の本部隊員数人が発見。この辺は切り株が多いので数えてみる。何度やっても1個多い。もしかして帰ってきた鉄砲撃ちではないかと万全を期し「人か熊かぁ」これを3度繰り返して叫ぶ。何の反応もない。すでに構えていた鉄砲10丁、一斉に火を放つ。この瞬間、黒い影は雪原に消えてしまった。夜が更けていたこともあってその夜の追跡を断念する。 12月14日未明、隊員数人が対岸で巨熊の足跡と血痕を発見し、逃走経路を本部へ報告、一同色めき立つ。行動が鈍くなり追跡しやすくなったのだ。 午前10時、腕利き鉄砲撃ち10数人で、遠巻きにしてその後方に射手、勢子、アイヌ犬が続いた。先陣の中にはあの山本兵吉がいた。なにせ飛んでいるエゾライチョウ落とすほどの鉄砲の達人で、またサバサキ(小刀)で熊を刺し殺したこともあるので「宗谷のサバサキの兄い」と呼ばれていた。いち早く山頂へ到達した兵吉は200m先に熊を発見。20mまでにじり寄り、ハルニレの巨木に身を隠した。負傷した熊はナラの木に掴まって山すその討伐隊を見据えていて兵吉には気がついていない。時は来たれり、怒りの初弾を打ち込むとものの見事に命中。これを見た隊員一同ヤンヤヤンヤの歓喜。そのとき巨熊はすくっと立ち上がり、すごい唸り声とともに兵吉を睨んだ。それっと後続の隊員たちが一斉に鉄砲を構える、が、それより早く兵吉の2弾目の玉が発射されていたのだった。一発づつの玉込め銃でなんと言う早業であったか。指の間に次の弾丸を挟めていたのだった。見事に巨体を打ち抜いていた。かくして魔のヒグマはばったりと倒れて、絶命した。初弾は心臓近くに、2弾目は頭部をそれぞれ貫通していた。見事な腕前だった。人々はおそるおそる口からべろっと舌を出したヒグマへ近づき、一人が棒で叩き始める、すると皆寄ってたかって蹴飛ばすやら、上へ乗っかり踏みつけるやら中には肛門へ棒を突っ込むものさえ現れる。恨みが爆発した瞬間だった。 今はその近くに立派な橋が架かっている、その名を「射止め橋」と呼ぶ。そしてこの事件を忘却の彼方へ葬らぬよう、古丹別町から現場までの道をベア、ロード名づけている。 射止め橋のすぐ側に住んでいた農家大川与三吉宅は当時比較的大きかったので、我が家を討伐隊本部として提供した。事件当時に7歳だった長男春義氏は無くなった開拓民たちの無念を晴らすために犠牲者一人につき十頭の羆に復讐すると誓った。長い年月を掛けてその後102頭のヒグマを射殺した。事件のあらましは古丹別営林局経営課長であった木村盛武氏が昭和36年から4年の歳月を掛けて関係者を訪ねてまとめた。これがNHKの取材を受けることになり、高齢となった大川春義翁が講演会の席上で「えー」といった瞬間に倒れこみ息絶えた。 |
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現在、古丹別の街から事件現場まで18Kmがベアーロードで、現地には事件現場が復元されている。 参考にした資料はつぎのとおりです。 木村盛武 獣害史最大の惨事 苫前羆事件 ヒグマ10号別冊(1980)のぼりべつクマ牧場 吉村 昭 羆嵐 新潮文庫(1982) 東京 大川高義氏から直接話を聞きたい方は宿泊されることを勧めます。 苫前温泉、ななかまどの館、 北海道苫前郡苫前町字古丹別 電話:01646−5−4351 Fax:01646−5−3551 戻る。 |
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平成15年11月8日 夫婦でトルコ戦を応援に行った、結果はものの見事にストレート勝ち、北海道妹背牛商出身のキャプテン吉原がひぐまパワー炸裂、そして高橋、杉山が時間差とクイックの絶妙な攻撃。宿泊したななかまどの館で我々の隣の部屋だった19歳の栗原は数々のスパイクを決めて、この試合最優秀選手賞を獲得。期待していた熊前が出なかったのは寂しかったけど、苫前でつらい練習をした成果が充分に発揮されていました。 ガンバレ、日本。 |
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