ハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」(2009/3/12, 藤本)

[読書会要旨]

学問において薄っぺらな内容を抽象的な言葉や難解なメタファーでごまかすのが非難に値するように、小説においてもどうしようもなく曖昧に書くことでなんらかの深い洞察があるように見せかけるのは一種のペテンなのではないか?そして、この「世界の中心で愛を叫んだけもの」はそのような小説の一つではないか?

この意見に対し、本読書会のメンバーは、人文科学と自然科学の違いなどを挙げて異を唱える。

作者

ハーラン・エリスン(Harlan Ellison, 1934-)
アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド生まれのSF・ホラー作家、脚本家。様々なジャンルの作品を発表しているが、一般には「スペキュラティブ・フィクション」の作家とされている。1955年頃から小説を書き始め、それからわずか2年間で100以上の短篇を書き上げたという逸話を残すなど、多産な作家として知られる。代表作はダブルクラウンを達成した「"悔い改めよ、ハーレクィン!"とチクタクマンは言った」やローカス・ヒューゴー両賞を受賞した「死の鳥」など。

あらすじ

この世の中心点”クロスホエン”。この空間は、”狂気”を外部に排出することによって、安定した世界を作り上げていた。その代償として、外世界は排出された狂気に侵され、それゆえにアッティラ王は手当たり次第に攻め入り、スタログは大量殺人鬼と化したのであった。他の世界を犠牲にしていることに良心の呵責を覚えたクロスホエンの科学者センフは自らを排出することで解決をはかろうとするが、その試みは失敗してしまうのであった。

論点

1.知的ペテンとは何か?

哲学はどんなことについても、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。〔……〕哲学については、次のこと以外は何も言うまい。哲学は幾世紀もむかしから、生を享けたうちで最もすぐれた精神の持ち主たちが培ってきたのだが、それでもなお哲学には論争の的にならないものはなく、したがって疑わしくないものは一つもない。

ルネ・デカルト「方法序説」(谷川多佳子訳, 岩波文庫, p13-16)

学問というものは、現象にたいして一貫した説明を構築し、その積み重ねによって世界を理解することを究極の目標としている。例えば天文学は天体の動きの観測を行い、その観測結果からいかなるルールに従って天体が運行するのかを解明してきたし、物理学は実験を繰り返すことで物的現象を正確に把握し、そこからそれらの現象が持つパターンを導き出してきた。この「世界の理解」という観点からいえば、それらの説明は当然、可能な限り簡潔・明解であるべきであって、難解・複雑な説明は--例えば天動説が地動説に取って代わられたように--より簡明な説明に席を譲ることになる。このことが最も顕著なのが数学であろう。数学では時に「この世には、みにくい数学の生き残る余地は無い」(G・H・ハーディー)とまで言われる。

しかし、世に「学問」と呼ばれているもののなかには、これに逆行するものもある。すなわち、ろくろく検証もしていない薄っぺらな認識に基づいて必要以上に難解な説明をでっちあげ、いかにも学問らしい体裁だけを整えているものである。これらのえせ学問においては簡潔さではなくむしろ複雑さ(言いかえれば、意味不明さ)が尊ばれ、その内実の空虚さから「みにくい説明しか生き残る余地がない」状態に陥っている。本稿ではこれらの似非学問を知的ペテンと呼ぶ。これらは単なる「誤り」や「馬鹿」とは区別される。というのは、「誤り」や「馬鹿」は単なる事実の誤認や理解の不足であるが、知的ペテンはそれらを隠すためにもったいぶったでたらめを並べたて、人を煙に巻こうとしているからである。

そして、この知的ペテンの巣窟となっているのが、いわゆる人文科学とよばれる分野で、中でももっとも病んでいるのが哲学である。

2.ソーシャルテクスト事件

実のところ、この論文の骨格は、フランスやアメリカの名高い知識人が数学や物理(及び数学や物理に関する哲学)について書いたものの中で、私がみつけた限りでは、最高に馬鹿馬鹿しいものの引用でできあがっている。私がやったのは、これらの引用を結びつけ褒め讃えるための無意味な議論をねつ造することだけだった。もちろん、その際には、脱構築流の文芸理論、ニュー・サイエンス風エコロジー、いわゆる「フェミニスト認識論」、極端に社会構築主義的な科学哲学、さらにはラカン流の精神分析などの流行の思想のでたらめなごった混ぜも並べ立ててみせたのだが、これによってパロディー論文はいっそう笑えるものになった。

アラン・ソーカル「ソーシャルテクスト事件からわかること、わからないこと」(田崎晴明訳)

この種の知的ペテンが人文科学にはびこっていることを実証したのが、1996年に起きたソーシャルテクスト事件である。この事件のあらましを簡単に説明しよう。遡ること十数年前、理論物理学者アラン・ソーカルは人文科学の分野で数学や物理学の概念が濫用されているのにみかねて、これらを真似たインチキ論文をでっちあげた。そしてその論文をソーシャルテクストという雑誌に投稿した。すると、果たしてソーシャルテクスト誌はこの論文がパロディーだということを見抜けずに掲載してしまったのだ。ソーカルは数週間後、このことを暴露し、その後ジャン・ブリクモンと共に、構造主義やポスト・モダンの大家(例えば、詩的言語を数学的に"解明"したクリステヴァや数学概念を哲学に"応用"したドゥルーズなど)のインチキを繊細に指摘した『「知」の欺瞞』を著した。

ここで『「知」の欺瞞』の内容を詳しく説明することはできないが、ソーカルの次の指摘だけは紹介しておく。すなわち、なぜ人文科学、特に哲学は数学や物理学の知見をメタファーとして多用するのだろうか?例示(=メタファー)というものは基本的に、理解が難しい事柄について、その人にとって馴染み深い知識を利用して理解を促すもののはずである(原子核と電子の関係を地球と太陽に例えたりするのがこれにあたる)。しかし、なぜ哲学者が同じ分野の者向けに書いた本の中で、わざわざ物理学や数学をメタファーに使う必要があるのだろうか?

なお、これは哲学界を揺るがす大事件となったが(例えば、仏ルモンド紙には1997年だけでゆうに10回以上もこの事件関係の記事が掲載された)、哲学界は10年以上たった現在でも、ソーカルに対してまともな反論を返すことすらできていない。

3.ニューウェーブと知的ペテン

以上を踏まえて、今回の「世界の中心で愛を叫んだけもの」を検討を行う。

まず、本作を考える上では、これがいわゆるニューウェーブの作品であることに留意する必要がある。ニューウェーブとは、1960年代から70年代にかけてSF界に起こった潮流で、従来の科学小説としてのSFを越えて、より哲学的な何かを描き出すことを目指した運動であったとされる。この運動は一般的に「外的世界より内的世界」、「科学的厳密性より幻想性や寓意性」といった言葉で要約されている。

現に、本作は実にニューウェーブらしい作品である。全編が壮大なメタファーで満ち、また「クロスホエン」「ジャムカレット」といった難解な語句が各所に散りばめられ、なるほど、確かに人間や世界の本質に関する深遠な何かを示唆しているように見える。しかし、本当にこの「深遠な何か」など存在するのだろうか?この話を愚直に追えば、スタログやアッティラ王がクロスホエンから排出された狂気の影響をうけて悪業をなしたということと、センフという科学者がその排出プロセスに介入し、結果裁判にかけられて死んだということ、そしてその死に際してスタログの像が作られたということ、最後箱を開けた男がいて、そのせいで世界戦争が起きたということぐらいしかわからない。これらをつなぐのはせいぜい「狂気」や「戦争」に関する曖昧かつ未熟な思念で、しかも全体的に説明が理解不能なほどに省略されている。

つまるところ、筆者には、この作品もまた上で述べた知的ペテンの一種のように思われるのである。この作品は意味深なテーマを選びだし、どうしようもなく抽象的に書いているだけに過ぎないのでは無いだろうか?

もちろん、学問と小説は異なるものなので、知的ペテンという非難がそのまま当てはまるかどうかは一個の問題であろう。実際に、小説では簡潔さというものはそこまで重要な要素ではないし、真実に対する誠実さの責務も(ノンフィクションと銘打たない限り)負わない。しかしながら、少なくとも、ある作家が自分の作品について何か深遠さが存在しているように見せているならば、その外観相応の核心を用意する責務を負うのでは無いだろうか?もしここで、仮に深遠な内容を書こうとして失敗しているだけならそれは作家の力量の問題に過ぎないのだが、この小説がひたすら曖昧に書かれているのは結局のところ、その内容の無さを隠そうとしたためではないか?これは、詐欺行為であり、非難に値するのではないのだろうか?

4.検討点

読書会ノート

以下は読書会のまとめであるが、中立的な第三者の視点からではなく、筆者の視点から書くことをご了承願いたい。というのは、その方が論点がよりはっきりすると思われるからである。また、以下のまとめは、(もっと突っ込んだ反論を展開するという誘惑は強かったのだが)基本的で読書会で述べた限度でのみ記述することにした。

さて、論点は多岐に渡ったが、その中でも主たるものは次の3つであったように思える。

  1. この小説に要求される「深い意味」とは何か。
  2. 哲学で数学や物理学上の概念を使うことは許されるか。
  3. 哲学にはどんな意義があるか。

以下順に見ていく。

1.「世界の中心で愛をさけんだけもの」に要求される"深い意味"

筆者が知的ペテンの一種と呼んで批判するのは、要するに、"あるように見せかけている内容が無い作品"である。つまりこの場合、「世界の中心で愛を叫んだけもの」があるようにみせかけている意味内容が要求されているのである。

この点について、「この小説は何か哲学的思索のようなものを有するかのような外観をつくり出してはいない」という意見が出されたが、筆者はこれに対して次の2点を指摘したい。第一に、この小説の背後には狂気に関する抽象的な観念が確かに存在している(そして筆者はまさにこの観念の正体が"狂気"や"戦争"に関する曖昧かつ未熟な思念でしかないと主張する)。第二に、エリスンが自らの作品を指す言葉として好んで使う「スペキュラティブ・フィクション」とは、まさにそのような深い思索を提示することを意図するものであったということである。

2.哲学と数学的・物理学的概念

この点については問題を二つの場合に区別する必要がある。第一は数学・物理学上の概念をメタファーとして使用する場合であり、第二は理論的考察において直接使う場合である。

まず筆者の立場を明らかにする。第一の場合には、「哲学者が同じ分野の者に対して哲学を語るのになぜ数学や物理学の難解な概念を使う必要があるのか?」という問題が生じることになる。というのは、例示(=メタファー)の意義とは、ソーカルが言うように、既知の概念でたとえることによって、難解な事柄の理解を促すことにあるはずだからである。つまり、この種のメタファーを哲学で使うことには意味が無いのである。第二の場合については、大いに賛成する。しかし、その場合、概念の意味内容を間違って使うことは許されないはずである。例えば、物理学者がある理論において数学の概念を根本的に誤って使っていたら、その理論全体の正しさも当然疑われることであろう。

これに対しては、第一の場合については「必要が無くても別に使っても構わない」という意見が、第二の場合については「仮に数学上間違っていても、整合的な哲学上の定義が存在する」という意見がそれぞれ出た。加えて、後者については「仮にその哲学者(例えば、ラカン)が数学的概念であると明言していても、その場合、その哲学者の言う『数学的概念』の意味内容が本来の数学的概念とは異なると解するのが妥当だ」という。

3.哲学の意義

この点については、全面的に肯定的な意見が多かった。たとえ一部の哲学者に問題があっても、やはりなお、まともな哲学者もいるのだという。

筆者も別に哲学を全否定するつもりはないが、こと現代の哲学の意義については、間違った意見を淘汰する一種の学問的な自浄作用が無いのではないかといぶかしく思うのである。そして、「数学的には間違っているが、哲学上では整合的だから問題がない」と言うことは、結局、外部からの反証を封じることになるのではないだろうか?


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