July 2011

松原弘典「資本主義、地域主義、中華主義の間で」 1/3

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撮影:AAR編集部

松原弘典氏は2001年に中国へ渡り、現在は北京に設計事務所を構え建築プロジェクトを展開しつつ、アフリカ・コンゴ民主共和国にて慶応大学SFC松原研究室の学生たちとともに小学校を設計・建設するプロジェクトに取り組んでいる。グローバル資本主義と地域の対立という構図は中国国内でも大きな格差を生みつつあり、それは2008年の四川大地震をきっかけに社会問題化しつつあるというが、さらに近年では、グローバルに進出した華人が生み出す第3の動き(松原氏はそれを「新中華主義」と名付ける)も見られるという。こうした状況で建築家はどのようなスタンスを取りうるだろうか。
聞き手=藤村龍至


「オルドス20+10」と「オルドス100」

松原 オルドスは、内モンゴルの中心都市包頭(バオトー)という街から車で3時間くらいのところにある、砂漠の中の新しい都市で、我々はいまここで他の建築家たちと一緒にオフィス街区を作るプロジェクト「オルドス20+10」を進めています。もともとはごく小さな農村だったのが、地下に石炭が埋蔵されていることから、中国のエネルギー需要の高まりとともにこの10年で一気に60万人くらいの規模の都市になり、人口はもうすぐ100万人に到達すると言われています。寒くてなにもなかった場所に急速に資本が集中し、投資目的の住宅が続々と建てられているような状況がそこにはあります。

数年前にここで「オルドス100」というプロジェクトが生まれたのはご存知ですか。アイ・ウェイウェイが中国のデベロッパーから別荘地の開発計画の依頼をうけて、ヘルツォーク&ド・ムーロンが選定した世界の若手建築家100人に住宅プロジェクトを1軒ずつ依頼したものです。日本からはアトリエワンや藤本壮介さんや五十嵐淳さんが参加されていました。一時期中国でヨーロッパの建築家に会うとみな「オルドスで何が起きているのか?」と聞かれたくらい建築の世界ではよく知られたプロジェクトでした。しかしアイ・ウェイウェイにプロジェクトを依頼させた当時のオルドス副市長が昇任して省政府に転出するとプロジェクトはその後ろ盾を失い、中国の実情に即さない世界中から送られてきたまるでばらばらの100個の設計案を前に、民間のデベロッパーは実現の方法を見いだせずこの計画自体が消滅してしまいました。


サイトP1外観(昼間) 提供:北京松原弘典建築設計公司

2010年にはまったく別の経緯で「オルドス20+10」というプロジェクトが始まりました。これは「中国の実情をよく理解した」20人の中国人建築家と10人の中国をベースに働いている外国人建築家によるプロジェクトです。「オルドス100」とは違って民間のデベロッパーではなく政府の発注プロジェクトで、住宅ではなくオフィスビルの計画であり、オルドス市東勝区の区政府が発注者で北京の斉欣(チーシン)らが組織するグループにマスタープラン作成と建築家の選定を依頼して始まりました。我々もその組織委員会から声をかけられてプロジェクトに加わっています。

このプロジェクトは、数年前に消えた「オルドス100」をよく研究してその失敗から学んでいます。あの失敗の要因は2つあって、ひとつは企画が民間のデベロッパーによるものだったので、政府の意向がすぐプロジェクトに影響し、政府内の後ろ盾がなくなるとプロジェクト自体の存在が脅かされるものだったということです。もうひとつはマスタープランの側から各建築単体デザインへの意匠上のコントロールが全くなかったことで各案がばらばらになりすぎ、施工に関する費用や時間が予測できなくなってしまったことです。「オルドス20+10」は施主が区政府であり、マスタープランの段階で建物の壁面線位置を指定し建築家どうしの工法のすり合わせをするなどの対策をとっています。12haくらいある川沿いの敷地を組織委員会がマスタープラン策定で60ロットに分割し、30人の建築家にくじびきで2つづつ敷地が割り振られました。建物の主要なフットプリントは基本的には規定規模以下の方形に指定され、敷地ごとに異なる容積率と建ぺい率を最大限使用するように決められています。


政府も民間も一緒に開発に取り組む

松原 2010年の2月頃に声を掛けられて、30人の建築家が全員現場に招待されました。それがテレビに放映されてどんどんプロモーションされ、基本設計がまとまった今年の1月にはオルドスで大規模な記者発表と展覧会がありました。
設計もまとまっていよいよ詳細化するという段階で、実施設計は誰と契約したらいいのかと思ったら、区政府は、プロモーションもしたし、あなたたちの案を見て建てたいという投資家が現れるはずだからその人達と契約してくれと言うんです。区政府は基本設計の発注・プロモーション・マスタープランの許認可までで、実際に建物を建てるのは民間資本というわけなんですね。政府が一種の不動産開発営業をしているような状態だったわけです

私が日本や他の国で一般的に知っている開発行為というのは、販売用のオフィスを開発する場合はと私の線引きの間で、公的な機関は開発許可を出し、私的な機関は基本計画の立案からプロモーション、さらには建設までを自己の責任において行うというものです。ところが、ここではそこに何を建てるかというプロモーションまでを公的な機関が一手にやってしまい、自らの資産である国有地の価値を釣り上げた上で民間に開発をさせている。もちろんそこには商業的なやり取りもあるでしょう。開発権を取りたい民間主体から許認可を下ろすにあたってなにか金銭のやりとりがあったりとか、贈収賄の入り込みやすいシステムになっている。公であるはずの政府が私企業的な商業行為に近い活動をしていることをこのプロジェクトで目の当たりにしたわけです。おそらく今は中国全土でこうした行為が行われているんだと思います。

−—よく中国の現代の状況が日本の60年代に似ていると言われますが、日本の60年代は公は公であって、全国総合開発計画というマスタープランを示して、民間が開発をしてきた。今の中国ではそういったグランドビジョンが示されないまま進んでいるのでしょうか。

松原 中国でも「5カ年計画」のような国の大きな施策はありますし、それはむしろ形式的にはより厳格に守られなければいけないものとして扱われています。ただその解釈の幅が大きいのでしょうね。中央の目は必ずしも細かいところまで行きとどかないし、地方の裁量が大きいので、地域ごとの建物へのお金のかけかたがだいぶ違い、政治のトップが変わると状況もがらっと変わります。同時に、政府自体にはあまり建設用の資金はないのだと思います。お金はないけれど許認可の権利があるので、それをちらつかせて政府は民間から資金を吸い上げ、民間はそういう政府との関係に腐心しないといけないという構図がある。特に地方はですね。


サイトT1外観(夜間) 提供:北京松原弘典建築設計公司

それは日本の60年代、70年代の成長モデルとは、いささか異なるのではないかと思います。シビル・ミニマムのような考えも中産階級の形成もお題目でしかなくて、実際は豊かになれる人が公私関係なく競争しているというのが今の中国の不動産開発にまつわる状況ではないでしょうか。磯崎新さんが日本は大阪万博までは「国家=公」の時代でそれ以降は「商業=私」の時代になったとおっしゃっていますが、日本も高度成長の時代までは政府がマスタープランを作成して点的に公共施設を整備し、それを民間の鉄道会社や不動産投資会社が線としてつなげて近代化していったようなモデルがあったわけだけれど、今の中国の公私の線引きはこれとはすこし違うし、国土が広大すぎて社会資本整備が追いつかないなかで多くを地方に権限移譲してやっているわけです。

あえていうなら、今の中国のモデルに近いのは、高度成長期の日本ではなく、現在の公が弱小化した日本と言う方が私には共感できます。日本はPFI事業が増加し公共建築の運営は指定管理者に委託するなど、もはや政府が公共建築を丸ごとつくったりそのあとの維持管理でかかえたりできなくなってきているわけでしょう。こうした公私の拮抗と言うか分割線の再線引きは、皮肉にも公私ともイケイケどんどんで両者が拮抗している今の中国の状況と逆方向から接近してきてしまっている。さっきここに来るのに渋谷公会堂の前を通ったんですが、渋谷区のホールなのに名前が「CCレモンホール」になっていて驚いた。これは森ビルが上海に作ったビルの正式名称が政府の認可した漢字だけの固い「上海環球金融中心」であって「上海ヒルズ」は通称にすぎないというのと反転した関係になっている。「公」が施設の名前を売る日本と「私」が名前を買えない中国が奇妙なねじれの上で似て来ているわけです。


海岸部と内陸部の格差

−—中国においては北京オリンピック後、上海万博後の状況は、東京オリンピック、大阪万博後の日本の状況に近いのではないかと思うのですが、実際のところはどうでしょうか。

松原 上海万博が終わったことが直接関係するか分からないですが、万博やオリンピックが終わる前から西部大開発が言われていて、中国の内陸に資本が投下される動きが加速しつつあります。恐らく税制や開発許認可の部分で西部を優遇する動きが進展しつつあるのでしょう。

--中国では「西部」や「内陸」が『列島改造論』でいう「裏日本」にあたるわけですね。

松原 そうですね。北京、上海は開発し尽くされたところがあって、新しい開発はもはや郊外に展開するしかない。オリンピックや万博の影響というよりは、既存の大都市の開発が一巡しつつあって、より効率よく開発する都心部を求めて比較的開発が遅れている西部の大都市や、沿岸部の中規模の都市に資本が流れて行っているのだと思います。

あとは、2008年の四川大地震の中国国内に与えたインパクトも大きかったと思います。農村の現状が都市住民にも具体的に伝わり、本当に困っている人を助けようというムーブメントがあちこちで生まれたし、それを伝えるメディアも出てきました。そうすると中国の建築家の意識も変わってくるし、その土地に根差した建物を作るべきだという、建築における一種のリージョナリズムも生まれつつあります。中国建築にインパクトを与えたのは、ナショナル・パヴィリオンで埋め尽くされた万博、オリンピックなどのイベントよりも、地震に伴う貧困への気づきや、政策的な西部への資本誘導などであるというのが、中国にいての実感でしょうか。

−—日本でも1969年に「新全国総合開発計画」が発表されたときは国内の格差解消というお題目がありました。日本海側や東北、四国と太平洋ベルトとの格差が問題にされていました。丹下さんは北九州や広島のように工業化していかないといけないという集中論を展開していて、「東海道メガロポリス」を提案していたりしました。中国の建築家の反応はどのようなものがあるのでしょうか。

松原 格差解消というよりは格差をどう積極的に読み替えるかをうまく考えられている人が出て来ていると思います。例えば成都の建築家の劉家●(●は王へんに昆、リュウ・ジャークン)は、成都の土や竹を使ったり、地震の後のガレキで「再生ブロック」を作ったりしている建築家です。私が2001年に中国に渡った最初期に北京大学の張永和(ジャン・ヨンフー)さんの事務所で働いていたとき、彼は「四川の建築家」として大学でレクチャをしにきたのを覚えています。当時の劉さんは、その時に美術館を一つ設計しただけで、まだ全国的に知名度のある建築家ではなかったのですが、彼は他の同時代の中国人建築家と違って北京や上海を目指さずに西部の大都市である成都に残って建築を作り続け、そのローカリティにこだわって今や世界に出て行って仕事をしています。他の人と同じところを目指さずに、自分の立脚点を見直してその特異性を利用しているわけですね。



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