本年は、 昭和二十七年四月二十八日にサンフランシスコ講和条約が発効して我が国に対する連合国の軍事占領が解除されたことを改めて振り返り、 本年の四月二十八日、我が国政府が主催し、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、我が国が公式に、「主権の回復」を祝った年であり、同時に、我が国が公式に、我が国には主権が奪われていた期間があると認めた年でもある。
昭和二十七年四月二十八日に我が国の主権が回復したということは、同年四月二十七日から遡って昭和二十年九月二日の我が国の降伏文書調印までの間、 我が国に主権はなかったということである。 よって、昭和二十一年十一月三日の日本国憲法公布と翌二十二年五月三日の施行、 そして、昭和二十一年四月二十九日の極東軍事裁判(東京裁判)の起訴および翌五月三日の審理開始そして同二十三年十二月二十三日の七人に対する絞首刑執行は、 我が国に主権がない状態の間の出来事である。
以上のことを確認して、昭和十六年の日米開戦の日である本日十二月八日を迎えているのであるから、 まず以下に、昭和十四年から昭和十六年十二月八日までの我が国の運命に影響を与える出来事の日付けを記しておきたい。 昭和十四年 五月十二日、ノモンハン事件(日ソ戦)勃発 八月二十三日、独ソ不可侵条約 九月一日、ドイツ軍ポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発 昭和十五年 二月二日、斉藤隆夫「反軍演説」 五月十日、イギリスにチャーチル内閣成立 五月二十七日、イギリス軍大陸戦線より敗退、ダンケルク撤退 九月七日、ドイツ軍、ロンドン空襲開始 九月二十七日、日独伊三国同盟成立 十一月五日、F・ルーズベルト三選 昭和十六年 八月一日、アメリカ、対日石油全面禁止 八月四日、近衛首相、日米首脳会談要請、アメリカ無視 八月十四日、ルーズベルト・チャーチル会談、 於、ニューファウンドランド沖、 イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上 目的、(主)対日戦争の謀議 (Back Door To The War) (従)大西洋憲章発表 九月六日、御前会議、対米開戦決定 十月十五日、十六日、ゾルゲ事件発覚、近衛内閣総辞職 十月十七日、東條英機内閣成立、 白紙還元の御諚(対米開戦決定白紙還元) 十一月十五日、大本営政府連絡会議決定 「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」 十一月二十六日、野村、栗須大使、ハルノート受領 連合艦隊、真珠湾に向け択捉島ヒトカップ湾出撃 十二月一日、御前会議、対米開戦決定 十二月二日、大本営、連合艦隊に打電・ニイタカヤマノボレ 十二月八日、連合艦隊真珠湾奇襲 チャーチル、 「私は戦争が始まってから初めてぐっすり眠れた」 と日記に書く。 十二月十日、マレー沖海戦、 一式陸攻・九十六式陸攻プリンス・オブ・ウェールズ撃沈 十二月二十五日、香港陥落
以上の日程の中で、第二次世界大戦における本当の「戦争の謀議」は、昭和十五年五月十日にイギリス首相に就任したチャーチルと同年十一月五日にアメリカ大統領に三選されたF・ルーズベルトとの間で為されている。その日付けと場所は、 昭和十六年八月十四日、 ニューファウンドランドの戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上。 その戦艦プリンス・オブ・ウェールズを、 帝国海軍機が四ヶ月後の十二月十日にマレー沖で撃沈した。 同艦沈没に際し、フィリップ提督は我が海軍機に「乗員退艦の為、暫し攻撃を中止されたし」と打電し、それから自身の体を艦橋に縛り艦と運命を共にする意を示した。 我が海軍機は、その要請を受け入れ三十分間上空で待機し、後、同艦艦橋の横をフィリップ提督に敬礼して順次低空飛行し、それから同艦にとどめの魚雷を放った。 さらに、同艦沈没後、その海域上空を戦果確認のため飛行した一式陸攻機は、同海域に慰霊の花束を投下した。 天晴れの武士道なり。
昭和十五年のイギリス軍のダンケルク撤退と続くロンドン空襲の状況を追うと、チャーチルは独力でドイツに勝てないと判断し、十一月五日に三選されたF・ルーズベルトにすがり着くために戦禍のイギリスを留守にして、戦艦プリンス・オブ・ウェールズに乗ってニューファウンドランド沖に行きルーズベルトに会う。そして、ヨーロッパ戦線への参戦を執拗に要望する。 しかし、ルーズベルトが前年の十一月五日に三選されたのは、「お母さん、貴女の息子さんを戦場には絶対送りません」と不戦の公約したからである。 従って、ルーズベルトは自分から参戦するとは言えない。 そこで、両者は、「戦争の謀議」をした。即ち、日本に先に手を出させて日米を開戦させ、それからヨーロッパ戦線に雪崩れ込むと。つまり、 Back Door To The War! この彼らの謀略に対し、近衛首相はゾルゲ事件発覚の翌日である十月十六日総辞職し、翌十七日、対米開戦を白紙還元するとの御諚のもとに東條内閣が成立している。 この東條に、東京裁判に言う「戦争の謀議」が出来る暇があろうか。反対に彼は、「戦争回避」の御諚を受けて総理に就任しているのだ。 しかも、この時既に、ルーズベルトとチャーチルの「戦争の謀議」確定から二ヶ月以上が経過している。
この窮地の仲で就任した東條が、就任から一ヶ月足らずの間に作成して大本営政府連絡会議において決定された十一月十五日の 「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」は、我が国の誇るべき必勝の戦略だった。 仮に、この戦略をチャーチルが知ったならば、彼は大英帝国の崩壊必至と判断し再び眠られなくなったであろう。 残念であるが、この大戦略を自ら滅茶苦茶にして破綻させて敗北への道を開いたのは、我が帝国海軍自身であった。
さはさりながら、主権回復を公式に祝った本年の十二月八日の開戦記念日に思い起こすべきことは、 我が国の戦略であり、 戦争の大義である。 それは即ち、 対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案(昭和十六年十一月十五日)であり 大東亜共同宣言(昭和十八年十一月六日)だ。 その上で、我が国の将来のために、子供達に伝え続けねばならないのは、我が国が掲げた世界史的な大義の下で戦った 幾多の我が将兵の勇戦敢闘である。 これが、二十世紀のアジア・アフリカの解放につながったのだ。 これを教えることが即ち、教育の改革である。
(追伸) 本時事通信を、特定秘密保護法成立の十二月六日に送信するべきでありました。 そう考えていましたので、六日の夜の本会議までの時間を使って、議員会館においてかなりの分量を入力したのですが、その入力の最後で、全く原因が分からないのですが、画面が一瞬で白紙に戻ってしまったのです。 それで、本日まで入力の時間がとれなかった次第です。 ほんとうに、一生懸命入力したあとで、画面が白紙になればつかれますねえ。失礼しました。
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