藤掛城(ふじかけじょう)

 場所  島根県羽須美村大字阿須那
 標高  358m
 比高  180m
 城主  高橋氏
 別名  藤根城




余湖さんのHPから引用

  

藤掛城全景                                    攻城開始(いきなり藪化しているところを這い上がる)

   

途中からは藪も無くなります                最初の郭

  

阿須那の町が見えます                             本丸(先端には櫓台があります)

  

櫓台                                        櫓台からみる

  

櫓台左の郭                                    二の丸

  

下山途中に再び見ましたがこちらからは攻めてこれません

  

麓にある賀茂神社 どうもこの辺は荘園時代賀茂神社の勢力下にあったみたいです  

  

神社には様々な神様が合祀されています


概 要
主郭は最高所に築かれており、中央には地元では櫓台と呼ばれている壇状の高まりが認められる。
このように主郭の中央に櫓台状の壇を築く例は、川本町の飯の山城、三隅町の高城、松江市の白鹿城に認められる。
東側は地形が急峻であるため堀切は築かれていないが、他の尾根筋は全て堀切が築かれており、防御を固めている。
北側に所在する郭群は主郭周辺と比較して明らかに普請の差が認められるため、古い時代の遺構とも考えられる。
城主には高橋氏が伝えられている。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用



高橋氏
高橋氏2


家系図


橋師光--貞光--朝貞----高橋久光------元光---万千代
               |         +---重光-----興光 
              |                 +--毛利興元妻
              +--清光----------盛光(興光を襲った人物))           

                
               


歴史

1350年 北朝として高橋師光が佐波氏の拠る佐波郷に攻め込んだ、戦功ににより阿須那3000貫を賜る
1350〜1352年 「観応の擾乱」が勃発し、直義と対立して敗れた高一族が失脚、殺害されてしまった。高氏に近かった師光は備中高梁松山城を逐われ、山陰の僻地邑智郡の阿須那に転封されてしまった。これにより、高橋氏は幕府と対立する直冬の勧誘に応じ宮方に転向した。
1361年 南朝として活躍隣の二つ山城に勢力のあった出羽氏(北朝)を打ち破り出羽の地を併合する

1392年 南北両朝の合一がなり、高橋・出羽氏の領地紛争も義弘の調停によって解決をみせた。すなわち、出羽領七百貫のうち、高橋氏から出羽 氏へ二百五十貫を返還させ、出羽氏を出羽の宇山に居城させるというものであった。
1419年 毛利氏で惣庶間の紛争が起り、高橋氏は宍戸氏、平賀氏とともに紛争の調停に立っている
1440年 海裏(うっと)荘地頭八幡神社の棟札に「高橋式部大輔泰光」と見え、これは、高橋氏が山名氏守護代犬橋氏の代官職であった関係で署名したものである
1450年 吉川経信と綿貫左京亮が合戦したとき、高橋光世が小早川熈平とともに使者に立つなど安芸国における高橋氏の活動が知られる
1461年 周布・小早川・三隅・吉川・吉見氏ら芸石の国人領主らから、武田元綱が西軍の大内方に転じた際に、高橋氏が幕命に応じなかったことを 将軍に報告されている。このことから、高橋氏が西軍に転じたことが知られる。
1476年 高橋命千代は益田氏との間で契約を取り結んでいる
1510年 高橋氏と益田氏は五カ条の契約を行っている。これは、高橋元光と益田宗兼とが結んだもの
1512年 安芸の国人領主九人が一揆契状を結んだが、毛利興元、小早川弘平、吉川元経らとともに高橋大九郎久光も署名している
1513年 高橋元光は領境を接し永年紛争を繰り返している三次畠敷の比叡尾城主三吉氏を攻めた
1515年 三吉方の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中に高橋元光が戦死をしてしまう
1521年 隠居の身であった高橋久光は備後比叡尾山城主三吉隆亮の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中に戦死をしてします
(両方とも加井妻城攻めで戦死しているのでどちらかが間違っている可能性もある)
1528年 大内氏の命を受けることなく高橋重光の居城松尾城を攻撃した。元就の松尾城攻撃は高橋氏に深刻な打撃を与え、一層、尼子方への傾斜を深めた
1530年 生田に侵出した元就は松尾城を攻めるとともに、高橋領の山県郡北方にも侵入した。そして、大内氏の部将弘中隆兼、備後和智城主の和智豊郷らの助勢を得て、松尾城を落し城主重光を討ち取った。ついで元就は、高橋氏の惣領である興光を調略によって葬り、生田城も攻略して高橋氏を滅亡に追い込んだのである。   ここに高橋氏は滅亡し藤掛城も廃城となる

謀略について

伝承 軍原のこと
 大永享禄のころ毛利元就は、当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え虎視眈々として高橋氏の動静を伺っていた。
 これを知ってか高橋興光は山陰の雄尼子氏に密かに意を通ぜんとす。これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主高橋弾正盛光に「高橋興光をよい手だてによってその首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め末長く協力することを誓う」との密書を送った。受け取った盛光は元就の謀略とは気づかず、興光謀殺を決意してその機を伺っていた。時は享禄三年十二月四日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路につき、口羽から出羽川沿いに三三五五我が城藤掛城を仰ぎつつ軍原にさしかかった。
 盛光は今こそ好機到来とばかり腕ききの部下達を軍原に森陰に伏せておいて息を殺して興光の到来を待つ程に、神ならぬ身興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。
 不意をつかれて驚きながらも興光は疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡数せず全身創痍興光はもはやこれまでと、鎧甲を脱いでそばの松の枝に掛け大岩に上り悠然と腹かき切って果てた。
 これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で「お約束の興光の首を持参しました。この上はお約束の遺領&の誓約書を賜りますよう」と内心お賞もと期待していたが思いのほか「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」と言って誅し首を斬られ後犬伏山に葬たと言う。
 現在も犬伏山の麓に盛光の墓と言われる墓石が苔むして建っている。

 邑南町教育委員会


ただし疑問もある
以下疑問点

阿須那に残る伝説によると「興光は都賀西の丁(よぼろ)城を攻め取り、ついで備後の入君の城を奪取り、阿須那の川沿いに帰途についた」ところ、戦原で弾正盛光に討たれたという。この話には二、三疑問の点がある。
(1)元就が久喜松尾城、長田の槇尾城を攻略して阿須那庄を脅かし、犬伏山に布陣している危急存亡の秋に、どうして他方面に出兵できるのか。
(2)たとい出兵するとしても都賀西の丁城は小笠原氏の重要拠点で攻め難いし、備後の入君の城はあまりにも遠い。
(3)出羽川沿いに帰途についたのではなく、本拠幡屋城から前線藤掛城へ督動に出かけたのではないか。
(4)系譜の高橋弾正盛光は「本城弾正左衛門、尼子侍大将、天文九年芸州討死」(石見誌本城系譜)と記してあるように、高橋滅亡に関係はなく、興光を襲ったのは別人である。
(以上『羽須美村誌』より引用556P〜557P)


感想
・高橋氏が最初に築いた山城であるがしっかりとしたいい山城
・阿須那の場所から上がったが本来であれば城の反対側からいける道があるみたい(しかし今は草刈をしていないのでいけないそうだ)
・城の前には川もあり天然の堀の役割をしている
・城の上には檜が植えてあり下から見える(3本植えて目印にしているみたい)
・麓の賀茂神社はおそらく高橋氏以前よりも前からあったかもしれないが、高橋氏も保護していたものと考えられる
(麓の集落の木須田村の村民は興光を剣大明神として祀り、剣神社を阿須那村の賀茂神社内に建立して25年ごとに神楽を奉納している)




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