レバノンの首都ベイルートにある国連関係の事務所前には、シリアからの難民が長い列を作っていました。
国連から、1か月の食料費として現金支給される、1人、3,000円余りを受け取るためです。
シリア難民
「家族が5人いて、子どもが病気なんです。
これだけの支援では、全く足りません。」
こうした難民の中で、ひときわ厳しい状況に置かれているのが、シリアから逃れてきたパレスチナ難民、いわゆる“二重難民”です。
60年余り前に設立された、ベイルートにある、パレスチナの難民キャンプです。
壁に描かれているのは、パレスチナを象徴する指導者たち。
住宅は無秩序に建ち並び、すでに飽和状態にある国内12か所の難民キャンプに、今、5万人の二重難民が押し寄せています。
去年(2012年)12月、シリアにある、パレスチナ難民キャンプが砲撃を受けた際の映像です。
内戦の拡大によって、国連の保護下にあり、戦闘とは無縁のはずの難民キャンプにまで、攻撃の手が伸びてきたのです。
この攻撃で、レバノンへの避難を決めた、サラ・ジュマアさん。
親戚を頼って、1年前に、シリアの首都ダマスカスから、家族と共に逃れてきました。
ジュマアさんが住むところを追われるのは、これが初めてではありません。
イスラエル ベングリオン初代首相(当時)
「この国家は“イスラエル”と呼ばれる!」
最初に難民となったのは、65年前。
故郷パレスチナにイスラエルが建国され、これに反発するアラブ諸国との間で起きた“第一次中東戦争”から逃れるため、家族でシリアに渡ったのです。
ジュマアさんのように、シリアで暮らしていたパレスチナ難民は、およそ50万人に上ります。
半世紀以上にわたり、故郷に帰ることを願い続けながらも、シリアの難民キャンプで、安定した暮らしを手にしていたジュマアさん。
しかし、難民キャンプへの攻撃拡大が転機となりました。
孫のアラアさんが、大けがを負ったのです。
パレスチナ 二重難民 サラ・ジュマアさんの孫 アラアさん
「爆発音で外に出て、再び家に戻るときに、すぐ後ろに2発目が着弾しました。
砲弾の破片が足に突き刺さって、地面に倒れたのです。」
砲弾の破片は、アラアさんの足を貫通。
家族にけが人が出たことで、ジュマアさんは、シリアで手に入れた生活を捨て、再び、ほかの国に逃れることを決意しました。
パレスチナを逃れた時と同様、最低限の服だけを持っての避難でした。
パレスチナ 二重難民 サラ・ジュマアさん(85歳)
「シリアに逃れて、家を建てて生活が安定したのに、再び、見知らぬ土地で難民に逆戻りです。」
一緒に避難してきた家族8人が、1つしかない部屋で身を寄せ合う暮らし。
今は、国連から食料費として、家族全員に不定期に支給される、合わせて、およそ3万円で生活をしのいでいます。
パレスチナ 二重難民 サラ・ジュマアさん(85歳)
「畑が隣にある、家族で建てたパレスチナのあの家に戻りたいです。」