創価学会を考える会

3世会員・新入会員のための創価学会教義検討ブログ

学会の御本尊って正しいの?(1)

そもそも御本尊とは何なのか

 学会が流布している本尊がどうのこうのと言う前に、まずは、御本尊とは何なのかという点を考えてみたいと思います。

 

 御本尊とは、我々が日々行っている勤行・唱題の対境であり、日蓮大聖人の一心でいうところの十界互具・百界千如・事の一念三千の全体を顕しています。「日蓮がたましひを墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事 新編685頁)との御金言の如く、日蓮大聖人の生命そのものだとも言えます。

 上記のとおり、御本尊とは人法一箇であり、生身の仏でありますから、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱えていくことによって、御本仏日蓮大聖人と境智冥合し、一生成仏を成し遂げていくことが出来るというのが日蓮仏法の教えです。

 

 ですので、御本尊の無い所で、空中に向かっていくらお題目を唱えたとしても、日蓮大聖人の境界と境智冥合させることは不可能ですから、およそ日蓮仏法においては、御本尊の無い信仰などあり得ません。

 

 そして、弘安2年10月12日に、日蓮大聖人が出世の本懐として御図顕されたのが本門戒壇の大御本尊様であり、これが三大秘法で言うところの「本門の本尊」に当たります。また、文底下種の三宝のうち、法宝とは、この本門戒壇の大御本尊様のことを指します(現在、創価学会はそのような解釈を採っておらず、法宝を単に『御本尊』と言ったり、『南無妙法蓮華経』と表現したりします)。

 

 現在の学会は、当たり前ですが、総本山大石寺に参詣することも無ければ、本門戒壇の大御本尊様にお目通りすることもありません(隠れて参詣している学会員もいるかも知れませんが)。しかし、日蓮正宗創価学会であった時代は、この三大秘法たる本門戒壇の大御本尊様をしっかりと信仰の対象としていたのです。

 

■ 戸田先生の御指導

「末法の現代においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのであります」(大百蓮華 62号 27頁)

「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。」(戸田城聖全集3巻 490頁)

 

■ 池田先生の御指導

日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである」(広布と人生を語る三―246頁)

 

■ 学会のかつての公式見解

「富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」(折伏教典 314頁)

 

 僕達学会3世は、富士大石寺への登山の経験もなく、本門戒壇の大御本尊様にお目通りした経験も勿論ありません。しかし、今の学会幹部(本門戒壇の大御本尊様を信仰の中枢に置いていた人達)の口から、本門戒壇の大御本尊様の存在すら聞いたことがありませんし、「表立って総本山に行こうなどと指導出来ないが、本門戒壇の大御本尊様にお目通りしたい」というような話も聞いたことがありません。

 

 「大聖人御直結」と言いつつ、御本仏日蓮大聖人の人法一箇の大御本尊様にお目通りしないとは如何なものでしょうか。仮に、日蓮正宗が謗法団体と化していたとしても、日蓮大聖人を御仏として尊崇する精神は今も変わらないにも関わらず、そうであるならば、本門戒壇の大御本尊様にお目通りしたいと思うのが素直な信仰のはずです。そう、日蓮正宗がどうのこうのなんて関係ありません。

 この点から言っても、今の学会の方向性は、日蓮大聖人の御精神からどんどん離れていっていると言わざるを得ません。「数え切れない程、本門戒壇の大御本尊にお目通りしたし、これからは各家庭や会館に御安置されている御本尊に拝めば十分」などと言っている幹部もいますが、僕は声を大にして言いたい。

 

「あなたはもう十分なのかも知れないが、一度もお目通りをしたことがない世代の人はどうなるのか」と。

 

 「各家庭の御本尊に拝むことは、大聖人にも繋がっている」と、詭弁を使われることもありますが、かつての戸田先生や池田先生は、そのような事を仰っていたでしょうか。まず、この点が現在の創価学会における本尊観の誤りです。

 

各家庭の御本尊はどうなのか

 とは言っても、毎日総本山へ参詣し、本門戒壇の大御本尊様の前でご祈念申し上げることは物理的にも不可能ですから、各家庭に御本尊を御安置し、この御本尊を拝んでいくことが必須となります。

 

 では、本門戒壇の大御本尊と各家庭に置かれる御本尊とは、どこがどう違うのでしょうか。

 

 日蓮大聖人の時代であれば、日蓮大聖人御自ら書写された御本尊を信徒に授与するということが可能です。これを「日蓮大聖人御真筆の御本尊」と言います。また、日蓮大聖人御入滅後については、歴代御法主上人の書写された御本尊が信徒に授与され、これが各家庭に安置されていました。

 

 歴代御法主上人は、大聖人の御内証の法体を唯授一人血脈相伝されており、根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証を書写する権能を持っています。それゆえ、歴代御法主上人が書写された御本尊であっても、日蓮大聖人と境智冥合していくことが可能なのです。

 

■ 戸田先生の御指導

「われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります」(大百蓮華62号 27頁)

 

■ 池田先生の御指導

「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 8-228頁)

「われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくださるのである」(広布と人生を語る 一-112頁)

 

 言うまでもありませんが、現在の学会が流布している御本尊は、歴代御法主上人が書写したものではありません(開眼については次回述べます)。

※ 正確に言うと、第二十六世日寛上人が書写した御本尊(浄圓寺所蔵)を御形木にして、コピーしたものを会員に授与しています。いずれにせよ歴代御法主上人が書写したものではありません。

 

 僕は、この点で「ん?」となりました。百歩譲って、本門戒壇の大御本尊様へのお目通りが、宗門との軋轢により無理だとしても、各家庭に安置されている御本尊に根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証が存在するのであれば、まだ納得出来るからです。

 

 戸田先生は次のようにも仰っています。

 「大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」(大白蓮華 九八―9頁)