創価学会を考える会

3世会員・新入会員のための創価学会教義検討ブログ

池田教と揶揄される事について

 僕自身、創価学会外部の方より、『池田教』だの『池田本仏論』だのと揶揄されることは不本意で仕方ありません。今の学会内部の人に聞いても、決してそんなことはないと否定するでしょう。

 

 …しかし、傍から見て、今の学会の姿がそのように映るというのは紛れも無い事実です。どの会合に行っても池田先生の指導。幹部指導の時にも池田先生の指導。どこに行くにも何をするにも、兎にも角にも池田先生のオンパレード。

 

 ところが、「これって池田先生を御本仏と崇めているのではないですか?」と問われると、幹部の人は「いや、それは違う」と否定する。あくまでも自分たちは日蓮大聖人を御本仏とし、日蓮仏法を実践する団体なのだ、と。

 

 いやいや。口ではそう言っても、ごくたまにしか御書を開かないし、御書を開いたとしても、オマケみたいなもの。先ずは池田先生の指導ありき。更に、僕の地域では御書講義や御書研鑽会なんて、男子部になって此の方催されたこともありません。これのどこが日蓮仏法を実践する団体なのですか?と首を捻らずにはいられません。

 

 また、池田先生は日蓮大聖人の仏法(御書)を体現された偉大な師匠なのだから、現代においては、池田先生と呼吸を合わせていくことが信心だと言う人もいます。

 

 日蓮大聖人を末法の御本仏としつつ、信心の呼吸は池田先生に合わせろ、と言う。頭の悪い僕なんかは、非常に混乱するわけです。「結局、どっちなの?」と。日蓮大聖人の人法一箇の御本尊に拝むのは、末法の御本仏たる日蓮大聖人と境智冥合し、自身の生命に仏界を涌現させて一生成仏・即身成仏を遂げるためです。

 

 だとすれば、呼吸を合わすべきなのは、日蓮大聖人様ただ御一人であって、それ以外に師はいないはずです。僕は、池田先生を誹謗中傷しているわけではありませんが、まず日蓮大聖人の教えが先にあり、どうしても理解出来ないという人は、池田先生の指導を参考にするなり、戸田先生の指導を参考にするなりしていけば良いと思っています。

 日蓮大聖人の教えが「本」であり、池田先生の指導が「迹」であるという関係だけは絶対に勘違いしてはいけない点です。

 

 あと、気になる点がもう一つ。

 創価学会は、日蓮正宗が法主信仰に陥っていると非難していますが、、あれ?創価学会はどうなの?と思ってしまいます。

 

 幹部は、法主はいいように信徒を支配しているだけで、池田先生とは大違い・雲泥の差だと声を荒らげて言います。だけど、今の学会も、「池田先生の指導」を盾にして、学会員を絶対服従させているじゃないですか。多額の財務を集めているじゃないですか。仮に、日蓮正宗が法主絶対主義と呼ばれるものに陥っているのだとしても、僕からすれば、創価学会もさほど変わりません。池田先生絶対主義です。

 

 池田先生を崇めることは、創価学会内部では常識なのかもしれませんが、世間一般から見れば、「異様な光景」です。そんな宗教団体に入りたいと思いますか?学会員だって、浅井先生を崇める顕正会を見て異様に思うでしょう?それと同じことを外部の人は感じているのですよ??

 

 以上を踏まえて、この現代社会において創価学会が更に発展していくためには、「池田先生からの脱却」を図らなければ先は無いかも知れません。